大切な蓮美はオレが守るから
九条 蓮美は3ヶ月前から付き合い始めた柏木 晴翔を待っている。いつもの喫茶店前。細い裏道に古ぼけた店舗が並ぶ寂れた商店街。22才の蓮美はその景色に馴染んでいない。
真冬の冷たい風は、容赦なく蓮美の体温を奪い続けている。スニーカー内の爪先がジンジンと痛い。
蓮美はコートのポケットからスマートフォンを取り出し、時刻を確認した。
19時32分。
約束の時刻を既に30分以上過ぎているが、連絡する気にもならない。
晴翔の遅刻はいつものことで、蓮美は諦めていた。
店内に先に入り、待っていれば寒さは凌げる。しかし、蓮美は外で待ち続ける。
いつも遅れてやって来て、蓮美を見つけると駆け寄って来る晴翔を見たかったから。「ごめん、ごめん」と謝りながら見せてくれる優しい笑顔。
ポスターのアイドルみたいな完璧な笑顔。
その笑顔に、何もかも許してしまっている。
その笑顔に、何もかも誤魔化されてしまっている。
蓮美の中に不安が一滴垂れて、滲む。
――――私は「彼女」なの? 私のことをどう思ってるの?
蓮美は不安を払うように、首を小さく振った。
そのとき、ふわりと美味しそうな匂いが漂ってきて、蓮美の意識はそちらを向いた。
目の前の居酒屋の屋外スペースで、禿頭の中年男性が一人、焼き鳥を食べていた。スーツ姿なので会社帰りだろう。いつからいたのか分からない。
ビールケースで作られたテーブルには瓶ビール。凍える蓮美と違い、ストーブのおかげで寒くなさそうに見える。
男性が蓮美の視線に気付き、目が合った。あわてて蓮美は足元のアスファルトへ視線を落とす。
私、物欲しそうな顔をしていた?
羞恥心が湧く。
ねえ晴翔、お願い。早く来てよ。
そう、私は晴翔のことを考えてたっけ。
蓮美は、晴翔から送られた言葉を思い返す。「彼女」としての蓮美の拠り所。
「蓮美、なんか困ったことがあったら何でも言ってくれよ。大切な蓮美はオレが守るから」
少女漫画に出てきそうな甘い言葉。今まで付き合った男性にそんなことを言ってくれた男性はいない。普通言わない。言えない。
そんな言葉を晴翔はあっさり口にした。何の気恥ずかしさも感じていないように見えた。
――――言いたかっただけの言葉だから?
一旦、目を逸らした不安と疑問が戻ってくる。
私が大切なら、なんでこんなに待たせるの? 平気なの? 心配じゃないの?
笑顔で誤魔化せると思ってるの?
あれは本気で言ったの? 本当に守ってくれるの?
アスファルトを見ている目に涙が浮かぶ。
「あの……。君さ……」
いきなり声を掛けられて蓮美は驚く。顔を上げる。
焼き鳥を食べていた中年男性が目の前に立っている。身長は蓮美と大して変わらない。ビールのせいか、赤い顔をしている。
「君さ、ずっとここにいるよね? 寒くないの?」
焼き鳥の匂いを放ちながら話す。蓮美はその匂いに気持ち悪くなる。全く「いい匂い」とは感じない。
蓮美は何も言えない。驚きと恐怖と嫌悪で。
「3万でどう?」
この言葉の意味を、蓮美は数秒間理解出来なかった。
理解した瞬間、「私には無縁の世界」と思っていた世界に自分が立たされていることに気付いた。蓮美の感情に、またひとつ別の感情が追加される。
驚きと恐怖と嫌悪に怒りが。
「ちっ、違います。私、そんなんじゃないです。彼氏が来るんです」
「でもさ、ずっと待ってるよね? すっぽかされたんじゃないの?」
焼き鳥の匂いの気持ち悪さが増す。蓮美は再び顔を下に向けた。
「……いつも遅れるけど、ちゃんと来るんです」
怒り以外の感情のせいで、蓮美は呟くようにしか話せない。本当は怒鳴りつけてやりたい。
「君みたいなかわいい娘をこんなに待たせて……。そんなのロクな奴じゃなっ、んっ!?」
男が声が突然、途切れた。
「なあ、おっさん、なにしてんだよ?」
聞き慣れた声。待ち続けていた声。
蓮美は顔を上げた。
二人の間に晴翔の右腕が入って来て、男の胸ぐらを掴んでいる。
「ぐっ、くぅ…………」
男がひどく苦しそうな声を漏らしている。
「なあ! なにしてんだよっ!?」
男の体がビクリと震えた。
野次馬が湧いて、スマートフォンを向けているのが蓮美の視界の端に入る。自身のSNSのネタにでもするつもりだろうか。
思わず、蓮美は晴翔を宥めようとする。
「ちょ、晴翔、もういいよ。私、大丈夫だから」
「なに言ってんだよ!? 怖がらなくていい。安心しろ。大丈夫か?」
晴翔が両腕で男のワイシャツの首元を掴みなおし、締め上げた。
「だから『大丈夫』って、さっき……」
「心配するな。オレがついてるから」
晴翔が一瞬、野次馬たちを見たことを蓮美は見逃さなかった。
晴翔が一瞬、歓喜の表情を浮かべたことを蓮美は見逃さなかった。
――――こいつ、私の話聞いてる?
男の顔が赤から青に変わっていく。もう、呻き声さえ出せないようだ。
晴翔がそんな男の顔を見ながら、キメのセリフを放つ。
「大切な蓮美はオレが守るって言ったろ?」
蓮美に顔を向け、いつもの笑顔を見せる。
ポスターのアイドルみたいな完璧な笑顔。
自分の恵まれた外見を知り尽くした笑顔。
少女漫画みたいなシチュエーションに酔いしれている笑顔。
そんな笑顔を見て、蓮美は凍えきった右手を握り締めた。
目の前にいる二人の男。
お金で私の体を買えると思った自己中男。
結局、ずっと自分のことだけが大切な自己中男。
「……ねえ、晴翔」
――――ガツッ!
晴翔の笑顔に、蓮美はこぶしを叩き込んだ。
全く予想していなかったことに、晴翔は尻餅をついた。
いきなり解放された男も尻餅をつく。
蓮美の足元に自己中男が二人。
「訳が分からない」といった表情で、晴翔が蓮美を見上げた。両方の鼻の穴から、みっともなく血が垂れている。
男はゼイゼイと息を切らしている。
「晴翔、もしこの男性がヤクザみたいな男だったら、ここに来なかったことにして逃げたよね?」
「え……? そっ、そんなこと……」
「あるよね?」
蓮美は無言で4発、男二人の脇腹をスニーカーの爪先で思いっきり蹴った。
晴翔に3発。
男に1発。
冷たいアスファルトの上で呻いている二人に背を向け、蓮美は歩きだす。振り返るつもりもない。
「やば…………」
そんな蓮美の後ろ姿を見ていた野次馬の一人が声を漏らした。
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