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花見小路

作者: 執行 太樹

京都の文化が今も残る、花見小路。花街として栄えたこの通りに、懸命に生きた1人の女性がいました。



 京都御所のやや南東部に、祇園という街がある。祇園は歴史ある花街だ。街全体が奥ゆかしく、華やかな所である。祇園は夜にこそ美しさを見せる。夜雨で濡れた石畳に置屋の提灯の灯りが映え、それがどこか妖艶めいており、魔性の美しさがある。わたしは若い頃、祇園の虜になった。

 祇園には「花見小路」という通りがある。祇園の街を南北に走る、小さな通りである。わたしは古い友人を訪ねた折に、10年ぶりに花見小路を歩いた。初夏の昼間の花見小路はどこか静かで、通り全体がまるで夜の疲れを癒やすため、昼寝をしているようであった。

 かつての花見小路と比べると、歴史あるお茶屋や置屋が減ってしまい、かわりに観光客目当てのお土産屋や現代風の建物が増えていた。通りの表情が、どこか無機質に感じた。わたしは足を建仁寺の方に進めた。その一角に「る屋」はあった。

 都る屋は、祇園で150年以上続く置屋であった。置屋とは、芸者を抱えている家のことである。わたしは久しぶりに市江さんに会いたくなった。

 都る屋の前に立つと、奥から和琴の音色が聞こえてきた。わたしはゆっくり引き戸を開けた。すみませんと声をかけると、奥から返事が聞こえた。少しして、草履を履いて駆け足で女性が出てきた。市江さんだった。

「これは、ようおこしやす。」

 市江さんは、10年前と変わらず美しかった。わたしは、芸妓だった市江さんを思い出した。品のある声が懐かしかった。わたしがふと立ち寄っただけだと話すと、せっかくだからと市江さんに中に通してもらった。置屋の奥へ進んでいる時、横目に部屋で1人の舞妓が和琴の稽古をしている姿が見えた。置屋の奥には小さな庭があり、そこの縁側に案内された。わたしはそこに腰掛けた。梁に吊るされた風鈴が、涼しげに鳴っていた。

 市江さんは、水ようかんと冷えたほうじ茶を持ってきてくれた。お構いなく、と私は言った。

 「あれから10年。この通りも、変わってしもてね」

 市江さんは、どこか悲しそうな顔でそう話した。たしかに、ここ10年でこの通りも変わってしまった。時代の流れはそういうもので、仕方のないことだった。しかし、かつての情緒ある花見小路が少しずつ姿を変えていくのは、やはり寂しかった。

 わたしは、市江さんの近況を尋ねた。市江さんは、今は都る屋の女将をしているという。数年前までは数人の舞妓を抱えており、毎日お弟子さんへの稽古に明け暮れていたという。しかし今、舞妓はたった1人だけのようだ。ここにも、時代の流れが押し寄せているようだった。

 数が違ってもやることは同じ、大変だが楽しいと、市江さんの話し声にどこか明るさが感じられた。厳しくも優しく、お弟子さんに稽古をつけている姿が想像できた。

 話しながら市江さんは、少し顔をくもらせて目線を下げた時があった。わたしは、どうしたのかと尋ねた。すると、しばらく黙っていた市江さんは、ゆっくりと話し始めた。


 3年前のある春の朝、市江さんがいつものように玄関を掃除しようと戸を開けると、1人の少女が玄関先に立っていた。少女は少しうつむいたまま、ただ一言、舞妓さんになりたいですと言った。少女は中学校を卒業したばかりで、まだ15歳であった。母と妹と3人暮らしで、少しでも母の稼ぎの助けになりたいと、芸者の世界に飛び込んできたそうだ。市江さんは大人しくしている少女を見て、一度は断った。しかし、少女の思いは強かった。市江さんは仕方なく、少女を都る屋に受け入れた。そして、少女をまりと名付けた。

 小まりは芸者には向かなかった。性格も大人しく、舞踊や鳴り物の才能もなかった。

「あの子は、芸事はなかなか上手くなりまへんでした。いつも失敗しては、その度に泣いてました。泣いたらあきまへんと、何度叱ったことか」

 しかし、小まりはあきらめなかった。毎日、休むことなく稽古に励んだ。何事にも一生懸命な子だった。

 初めての店出しは2年後の5月の末、小まりが17歳の時だった。裾引きにだらり帯をあしらった姿が、彼女を美しくさせた。おこぼを履いたあどけない歩き方が、健気さを感じさせた。藤の花が施されたかんざしを、結い上げた髪に留めていた。少女は、とても綺麗だった。

「でも、初めての店出しのとき、あの子は踊りを間違えてしまったんです。そしたら、急に泣き出して・・・・・・。お座敷中は、あんなに泣いたらあきまへんて叱ったんですが。お客さんにもなだめられて、その場は収まったんですけど」

 初めての店出しは、小まりにとって辛い思い出になったことだろう。市江さんも、初めは誰でも上手くは行かないと諭した。少女はめげなかった。

 小まりはそれから、今まで以上に稽古に励んだ。何度も稽古した。そして、お座敷にも幾つか呼ばれた。小まりは、その都度お客さんを楽しませた。小まり自身も、舞妓としての喜びを少しずつ感じていった。

 初めての店出しから半年ほど経ったある晩冬の日暮れ、小まりは市江さんと共に、お座敷に向かった。いつも贔屓にしてくれているお相手だった。

 お座敷も楽しく、皆気分良く酒が進んだ。お遊びも終わりの頃、1人のお客さんが立ち上がろうとした時、酔っていたせいか少しよろめいた。近くにいた小まりは、とっさにお客さんの体を支えようとした。しかし小まりは小柄だったため体を支えきれず、お客さんとともにその場に倒れてしまった。

「わたしはすぐに小まりの下に駆け寄りました。あの子、その時に足をひねってもうて・・・・・・」

 小まりは市江さんとすぐに病院に行った。足首が大きく腫れていた。しかし次の日、小まりは足に包帯を巻いて、置屋に来た。市江さんが怪我を心配すると、それでも手は使えるからと、鳴り物の稽古をしたそうだ。その後も毎日欠かさず都る屋に来ては、稽古に励んだ。

「本当に小まりは、健気な子でした」

 市江さんは言った。

 しかし、その足が治りかけてきた頃のことだった。春風が肌を撫でる、ある温かい日、小まりは交通事故で亡くなった。


「あとで小まりのお母さまに話を聞きましたら、人を助けたんです、あの子。公園から急に飛び出してきた小さな女の子を助けようとして、自分が身代わりに車に・・・・・・」

 市江さんはそう言いながら、頭を下げ、口をつぐんだ。市江さんの手が、少し震えていた。わたしは、黙って話を聞いていた。

 しばらくして、市江さんは顔を上げた。そして、庭の方を眺めた。

「あの子は、懸命に生きました」

 わたしは、ええと応えた。市江さんは遠くを見ていた。静寂の中、2人はただ黙っていた。風鈴がそよ風に鳴っていた。

「今面倒を見ている子、来月で年季を開けさせます。そしたら私、女将をおりよう思います」

 そうつぶやいた市江さんの横顔は、優しかった。

「どうか、1人の少女がこの街で懸命に生きたということを、おぼえていてやってください。」


 市江さんは、玄関まで送ってくれた。私は引き戸を開け、それじゃあと都る屋を出た。市江さんは、お帰りやすと頭を下げた。市江さんは、私が遠く離れても、頭を下げていた。

 私は花見小路を再び歩いた。葉柳が風に揺れていた。セミの声が石畳に反射し、小路のどこからか和琴の音が聞こえてきた。





この物語はフィクションです。実在の人物や場所、団体などとは関係ありません。



お読みいただき、ありがとうございました。



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