03
「はあ……はあ……はあ……」
背の高い本棚に隠れながら、セーラたちから距離を取るために図書室内を走っているマリーと瑠衣。
前を行くのは動きにくそうなドレス姿のマリーで、制服姿の瑠衣はマリーに手を引かれてついて行っているだけだ。
しかしやがて、そんな気力もなくなってしまったのか、瑠衣が、
「も、もう……いいですよ」
なんて弱音をはいて、その場に立ち止まってしまった。
「もういい、って? 瑠衣、どういうこと?」
マリーも走るのをやめ、振り返る。
「ど、どうせ私……いつもこうなんです……。小鳩ちゃんにも、他のみんなからも、イジメられて……。どれだけ逃げようとしても……無駄なんです。だったら、小鳩ちゃんたちに謝って、潔く受け入れちゃって……。あとは自分の心を殺して、彼女たちが満足するまで我慢しているのが、一番いいんです……」
手をつないでいたマリーにもその振動が伝わるほど、瑠衣の体は震えている。彼女の心は、いまだにさっきのカエルたちへの恐怖が収まっていない。それどころか、さっきのことをきっかけとして完全に心が折れてしまったようだ。
「どうせ……どうせ私が、小鳩ちゃんに……他の誰かに、勝てるわけなんて、ないんだから……」
「……」
本棚の向こう側から、敵ペアの声が聞こえてくる。このまま立ち止まっていては、すぐに追いつかれてしまうだろう。
しかしマリーは一向に焦った様子もなく、むしろ、余裕ぶった高圧的な態度で瑠衣に告げた。
「勝てるわけない? ふんっ。そんな下らない言葉は、二度と言わないでちょうだいね? 瑠衣、貴女はもうこの私のパートナーなのよ? この、最高にして最強、究極にして至高の存在であるマリー様の、メイドなの。この私にかかれば、どんな相手にだって楽勝に決まっている。だから、当然そのメイドである貴女だって誰かに負けることなんてない。そんなことは、許されないのよ?」
「……っ!」
しかし、心が折れていた瑠衣には、そんな言葉は悪い冗談にしか思えない。
「ふ、ふざけないでくださいっ!」
つないでいたマリーの手を乱暴に引き離して、涙を浮かべた目で彼女を睨みつける。そして、心の底から絞り出すような声で、マリーに叫んだ。
「わ、私は、本気で言ってるんですっ! 本気でカエルが怖くて……小鳩ちゃんたちが怖くて……そんな彼女たちと戦うとか、勝つとか、そんなことあるわけがなくって…………えっ」
しかし、その言葉を最後まで言い切ることは、できなかった。瑠衣は、気付いてしまったからだ。
眼の前で、高圧的で、挑発的で、傲慢な言葉を言っている淑女。自分のことを、「人間よりも遥かに気高い存在」なんて言っていたマリー。そんな彼女の手が今……震えている。恐怖で体を震わせている自分の手は、もう離れているのに。それと同じくらいに。あるいは、それよりもずっと大きく震えている。
つまり今、彼女も瑠衣と同じように恐怖している、ということだ。
「ふふ……」
瑠衣のその視線に気付いた彼女は、すぐに自分の手を体の後ろに隠す。それから、少し余裕の消えた照れくさそうな顔で、言った。
「実はね……私、ミミズが苦手なのよ。あの、地中をうごめく感じが、常に天上の高みにいる私と違いすぎて性に合わないというか……。地べたを這い回る動きもあまりにも醜くて、最高の美しさをもつ私と真逆すぎると言うか……。まあ、単純に生理的に無理ってだけなんだけど」
「え? えと……? いきなり、何の話ですか? ……っていうか、マリーさんにも苦手な物あるんですね?」
「ふふ、当たり前でしょう? 貴女、私のことを何だと思っているの? 一流の淑女である私にだって、怖い物くらいあるわよ。だから……」
強がって、ぎこちなく微笑むマリー。
「だからもしも……さっきの相手が、貴女の嫌いなカエルを出したみたいに、私をミミズで攻撃なんかしてきたりしたら……瑠衣、今度は貴女が、私を守ってちょうだいね?」
「マリー……さん……」
その瞬間、瑠衣の心の中に不思議な変化が訪れた。
恐怖に支配され、暗い檻の中に閉じ込められて完全に戦意が喪失していた彼女。そんな彼女の胸の中に、今までは存在しなかった感情が生まれている。
(彼女を……自分のお嬢様を……守って、あげたい……)
その感情は恐怖心よりもずっと強く、瑠衣の背中を押してくれる。
「わ、私、なんかが……誰かに勝てるなんて、思えない……。あなたのメイドなんて、そんなの、絶対務まらない…………でも」
今までの瑠衣には思いもしなかった言葉が、口から勝手に溢れ出してくる。
「でも、それでも……。私が『契約』すれば、マリーさんも不思議な能力が使えるようになるのなら……。それで、少しでもあなたの、恐れを取り除けるなら……。私、そのためになら、マリーさんと『契約』しても……い、いいかな、って……」
それは、瑠衣の心が恐怖の檻から抜け出し、その恐怖と立ち向かう決意を固めた瞬間だった。
それを聞いたマリーは、
「貴女なら、そう言ってくれるって思ってたわ」
と言って、瑠衣に優しい笑顔を向けた。
「……はい!」
もう、瑠衣に迷いはない。
「さあ、こっちへいらっしゃい……」
宝石のように輝く緑の瞳。艶やかな藍色の髪が、サラサラと心地のいい音を奏でながらなびいている。
湿り気を帯びた彼女の唇が、ゆっくりと瑠衣の唇へと近づいてくる。
そこで現れた小鳩が、本棚の陰で見つめ合う二人を見つけた。
「あ、ああーっ⁉ こいつら、こんなとこで『契約』しようとしてんじゃん⁉ セーラちゃん、なにボケボケしてんのっ⁉ さっさとこっち来て、仕留めちゃってよ!」
「い、言われなくても分かってるわよっ!」
少し遅れて、『悪役お嬢様』のセーラもその場に姿を現す。そして、スキだらけの瑠衣たちに向かって、また自分の能力を使おうとした。
「く、喰らいなさーいっ! 『敵者生……」
しかし、それよりも一瞬早く。
瑠衣とマリーは体を寄せ合い、唇と唇を合わせ……静かに、『主従契約』のキスを完了させた。
その瞬間、その場を紫色の光が包み込む。
「きゃあーっ! ま、眩しいわーっ!」
「あー、もおーうっ! セーラちゃん、何してんのーっ!」
全てのものを紫一色に染めるほどのその強い光に視界を奪われ、たじろいでしまう敵ペアのセーラと小鳩。
それからやがて、徐々にその光が収まってくると……。
再び、体を寄せ合っている瑠衣とマリーの姿が見えるようになった。
「ふぅ……」気だるそうに、小さく息を吐くマリー。「瑠衣……貴女って、意外と……」
「え?」
「……うふふ」
「え、えと? マ、マリーさん? い、今の、『意外と』って……?」
「さあ、ここからが私たちの反撃よ」
「も、もしかして、さっきの私、何か変でした? あの、実は私、初めてだったんで……。あんまり、こういうときの『お作法』とかがわかってなくて……」
マリーは瑠衣から離れ、セーラたちに向き直る。
「貴女たち、今までよくも、好き勝手やってくれたわね⁉ 覚悟なさい! この私の、圧倒的な格の違いを思い知らせてあげるわっ! そうよね、瑠衣!」
「……は、はいっ!」