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役者を目指す者たちの聖書と聖句

私は虚無の海原の上に自らを保つためには、自己で己を形成するという考えしか持っていない。

アンリ・ド・モンテルラン


知らんおっさん(失礼な)の引用句をエピグラフに掲げた一冊の本がここにある。ちょっとした電話帳ぐらいある分厚いオフセット印刷のその本には「声と言葉」というタイトルが印字されていた。


養成所に入学した時手渡されたその本はすでに手垢にまみれ、ところどころページの折り返しや書き込みなどでボロボロになっているが今もまだ僕の書庫の中に眠っていて、時折思い出したかのように手に取っては何度も読み返し、声に出し、レッスンに明け狂った若き自分の姿を思い描くのである。


思い返したら代表の「ヘタクソ、しっかり喋れ!」という怒鳴り声が脳内にリフレインして股間が縮んだ。きゅうん。


僕らの代は幸運な事に、代表御自ら基礎レッスンを見てくれる時間があった。その内容はというと、それはそれは恐ろしいもので、例えば生徒が課題を一つ読み上げるとするとまず最初の一言から「違う」とダメを出されて、もう一度繰り返してもまた「違う、そうじゃないんだよ」と止められる。たった二、三行の例文を読み上げるのに一人に対して数十分かかる事などザラだった。


代表のレッスンでは発声、発音、滑舌、アクセント、抑揚、セリフの解釈etc.どれ一つ落とす事は許されなかった。少しでも甘い部分があると即座に止められ容赦なくダメ出しという名の罵声の嵐が飛んできた。生徒たちは皆恐れおののいて比喩ではなく文字通りに膝をガクガク震わせながら代表の前で拙いセリフを披露しては順繰りに怒鳴り散らされてはまた膝を震わせるの繰り返しだった。


ここだけ抜き出して書くとまるで代表が昭和のパワハラ爺いのような印象を受けるかもしれない、いや実際性分は古き良き演劇人の気質を正しく受けついだ御仁だったので今のコンプライアンスで言えば十分に「案件」であったのかもしれないが、少なくとも当時の僕ら生徒たちにはそんなネガティブなイメージは全く感じられなかった。


最大の理由は「説得力」だった。どれだけダメ出しをされ、「ヘタクソ、しっかり喋れ!」と繰り返し怒鳴り散らされても生徒たちはぐうの音も出なかった。何故かというと、代表がその場で同じ例題を読み上げると、誰の耳で聞いても明らかに「違う」のである。自分らが読み上げる時にははたで聞いていても何も伝わってこなかった感情、臨場感、ドラマ性などがまさに鮮やかな彩りでもって聞く人の体内で再現されるのである。同じ文面で何故これほどまでに伝わる情報量に圧倒的な差がつくのか、これは決して大げさに誇張しているわけではなく、その場で聞き比べた者にしか分からないような絶望的な「違い」だった。そんなモノを目の前で実演されしまっては生徒たちはたまったものではない。結局どれだけセリフを止められ罵声を浴びせられても


(あんなモノを見せられた後じゃなあ……)


とおとなしく従うしかないのである。あの実演を我が身で体験できたのは生涯にわたっての大きな財産であったと今でも思う。現在業界の第一線で声優として活躍している同期生たちもおそらくは同じ気持ちを今も抱いているに違いない。


もちろん僕もご他聞にもれず代表の罵声の的であった。むしろ滑舌に難のあった僕はクラスの中でも取り分けて「ヘタクソ、しっかり喋れ!」と怒鳴り散らされた一人だった。


歯並びが悪かった僕は特に「サ行」の発音が苦手だった。取り分け「シ」の音がどうしても()()()しまい、「SHI」なのか「SI」なのかひどい時は「SU」に聞こえてしまうことすらあった。また上下の間に舌先を挟んでしまい、英語の「THIスィ」に近いような発音になってしまう悪い癖があった。


代表はそんな僕の喋り癖を一目で見抜き、例の教則本から一つの例題を読み上げるように僕に命じた。


さるさらう

さるさらさらう

さるざるさらう

さるささらさらう

さるさらささらう

さらざるささらさらささらって

さるさらりさる

さるさらば


これは谷川俊太郎の詩集の一編だが、代表は僕にこれを徹底的に読み込ませた。それこそ一日百回どころじゃなく何度も何度も繰り返し口にした。他の生徒がどんどん先に進んで長文の朗読やセリフの掛け合いなどを見てもらっていても、僕は最後までこの一遍をひたすら声に出し続けた。あ、ごめん嘘ですちょっと盛った、さすがに一日百回もやってなかったわ。ただこの詩を幾度となく繰り返したことで「サ行」の発音はだいぶ修正できるようになった。今でも油断すると甘くなってしまうが、少なくとも自分で修正できる程度には「さしすせそ」の発音の仕方を身につける事はできるようになった。


教則本には他にもおびただしい数の例題が掲載されていて、それぞれに「高い、軽快な声で、諧謔的に、リズミカルに」とか「演説である事に留意して、充分に声を張り、力強く、確固とした語勢で」などといった但し書きが付いていた。


例題はシェイクスピアのソネットからジャン・コクトーの詩劇、ベトナム共和国独立宣言、日本の囃子歌にいたるまでまさに古今東西硬軟取り混ぜたごった煮のような濃密さだったが、それ以外にも解剖学的なアプローチから各音を発するために最適かつ理想的な口内の形や舌の動かし方などの解説がイラスト付きで説明されていたりと、これ一冊で俳優修行、主に「セリフを喋るための」訓練に必要な要素は全て賄えるほどの内容だった。


そんなありとあらゆる例題を載せた教則本である。当然、声優ならば誰もが当たり前のように吟ずる事ができるアレももちろん掲載されていた。


そう、「外郎売(ういろううり)」である。


江戸時代から古く伝えられるこの売り文句は、元々歌舞伎の演目の一つの中で吟じられた長向上なのだが、文中に日本語として使用されるありとあらゆる発音が登場するため、現代でも俳優やアナウンサーの発声訓練の教材として愛謡されている。


「拙者親方と申すはお立ちあいのうちにご存じの方もござりましょうが、お江戸を経って二十里上方、相州小田原一色町をお過ぎなされて青物町を登りへおいでなさるれば、欄干橋虎屋藤衛門、ただいまは剃髪いたしまして圓斎と名乗りまする……」


という口上で始まるこの長ゼリフは途中で己の舌の回り具合の良さをアピールするためにこれでもかという量の早口言葉を連発する。


菊栗、菊栗、三菊栗、合わせて菊栗六菊栗

親も嘉兵衛子も嘉兵衛、親嘉兵衛子嘉兵衛子嘉兵衛親嘉兵衛


こういった早口言葉のフレーズは耳にした事がある方もいらっしゃるかもしれない。それぐらい役者の訓練教材としてはメジャーな者であった。当然我が養成所でもこの「外郎売」を教材にしてレッスンを行なっていた。


が、その初日で僕は大恥をかいた。僕は「外郎売」の存在を知らなかったのだ。他の同期生たちは当然「外郎売」を知っていて、すでに()()で言えるほど暗記しているものがほとんどだった。


「役者になろうという人間が『外郎売』も知らないでのこのこレッスンに出てくるなど論外だ」


と静かに諭されて、その日僕はレッスンから外され、みんなが朗々と「外郎売」を披露するところをスタジオの隅でただ眺めているだけで終わってしまった。この時僕は今更のように初めて自分がいかに他の生徒たちと比べてスタートラインが後ろにあったのかを思い知ったのである。


この悔しさはよほど痛烈だったのか、次のレッスンは二日後だったが、僕はその間に「外郎売」を全部暗記した。あんなに頑張って頭の中に詰め込んだのは大学受験以来だったかもしれない。遅れを取り戻すどころではない、レースで言えば周回遅れもいいところだった僕がようやく「役者」として本気になって挑むようになったのは間違いなくこの時の悔しさが発端であった。


今でももちろん「外郎売」を()()で言う事はできる。あれから何百回繰り返したかわからないあの口上を今でも思い返したようにシャワーを浴びながら吟んじたりしては妻から「やかましい」と叱られて苦笑する。その度にあの時の悔しさと代表の「ヘタクソ、しっかり喋れ!」という怒鳴り声が懐かしく耳の奥に響くのである。

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