たかが余興と思うなかれ
声優養成所でのレッスン生活が始まって数ヶ月が経ち、養成所ないで初めてのイベントが催される事になった。
その前に我々「第一期特別生」という存在について説明せねばなるまい。本来我が養成所が開講するのは半年先の四月の予定だった。だがせっかくもうスタジオも用意して講師陣も揃っているのだから遊ばせておくのはもったいないという理由で前倒しで見切り発車的に募集をかけて集まった連中が「第一期生」に先行する我々「第一期特別生」というわけだ。養成所側もスタートしたばかりで果たしてどうやって行けば上手い事レッスン運営が回せるものかと手探り状態だったので、「お試し版」という意味合いもあって我々の代は色々な試行錯誤の実験台となっていた。
余談だが翌年入学してきた「第一期生」の後輩たちからは「自分らが一番最初の生徒だと思って入ったのに何故か先輩がいたっス」と複雑な顔をよくされたものだった。
南野で、通常の四月入学ではなく欧米のような九月に入学式を行った通称「特一」たちに、ある日突然ある告知がなされた。
「年末にクリスマスパーティーを開催します。よって生徒たちは各組で一つずつ出し物を用意してくだい」
このよくある(あるのか?)イベント開催の告知文が、その後何年にも渡って語り継がれる恐るべき伝統行事の始まりになるとは当時の我々も、いやおそらくは発案した当人も思ってもみなかったに違いない。
「特一」声優科四クラスで対抗して出し物を披露し、一番評価が高かったクラスには賞状と賞品が授与され、さらにその中で最も際立った活躍をした生徒にはMVP賞として代表より賞が贈られるという事で、生徒たちはにわかにざわめき立った。出し物の内容と演出は各クラスの担任である講師に一任されており、講師たちもこれが日頃のレッスンの成果を最初に見せるチャンスであることを自覚していたので、その内容は単なる余興を通り越した「ガチ」な内容に当然なって行った。
出し物の内容はネタに全振りした小芝居が少々とダンスを数曲。時間にしてわずか10分にも満たないような内容の余興に、我々生徒はほぼ一ヶ月かけて全力で挑む事になった。
生徒たちはあらかじめ知らされていたのである、このクリスマスイベントには外部の声優や音響監督、声優事務所の社長クラスの方々が賓客として招かれる予定であるという事を。つまりあくまでも「余興」という体裁を取ってはいるものの、これは将来につながる最初の「顔見せ公演」であるのだ。
そして「ミュージカル科」というクラスがあった。このクラスは若干特殊で、声優科とは別カリキュラムで主に舞台演劇に特化した即戦力を鍛えるためのエリートコースで、生徒たちもここで演劇を初めて習う子もいるにはいたがそのほとんどがすでに事務所に所属していたりテレビや劇場などで実戦を経験しているプロの役者たちが所属していた。
一部レッスンが重なるため合同で共に稽古を受ける事も無い事は無かったが、すでに多くの実績を積んで「プロ」としての顔を持つ彼女らの姿は、ほとんどど素人の集団であった声優科の生徒たちには高嶺の花に映った。いやその割には酒の席などで散々お互い無法な振る舞いに及んでいたのでちょっと思い出補正で美化され過ぎているかもしれない。
その「ミュージカル科」も参加するのだから迂闊なものを並べるわけにはいかない。これはお遊戯会ではなく本気の「実演披露」の場なのだ。やっていることはネタ優先の馬鹿馬鹿しい小芝居であったが、演じる側は目を血走らせるほど真剣に取り組んでいた。
そして来る本番の日。我々は全力を出し尽くしてそのくだらない小芝居とダンスを演じ切った。やった内容は今でもよく覚えているがどのような評価を審査委員の方々からいただいたのかは全く覚えていない。とにかく僕らは無我夢中で初めての「公演」をやり切ったのだ。
結果、優勝を掻っ攫って行ったのはミュージカル科だった。実力の差もさることながら、そもそもかのクラスの担任は他ならぬ代表ご自身である。初めから勝ち目などなかった。ただ個人賞であるMVPは声優科の人が受賞した。その人物には賞品として「代表のマンツーマンレッスン受講権」が与えられた。賞の内容を聞いて生徒たちは羨ましさ半分、残る半分は「代表のあの鬼レッスンをピンポイントで受けるのか……」という恐怖に震えた視線を受賞者に送った。
かくして狂乱の冬の行事は終わりを告げた。このクリスマスイベントは翌年以降も恒例イベントとして定着化し、後には現行の本科生のみならず養成所を卒業したOB・OGたちも企画を持ち込んで出し物に飛び入り参加するようになり、毎年この季節にだけ顔を見せる卒業生などもいるほどだった。振り返ってみるとこの出し物を披露するというイベント自体もまた自分たちで構成を考え、準備し、稽古のスケジュールを組み、本番に備えるという、この先役者として舞台に臨む時何度も繰り返しやって行くであろう過程を体験する立派な授業の一環だったのだと思う。