「声優」などという職業はない
養成所に入って一、二ヶ月も経過し、レッスンを重ねていくうちにクラスのほとんどの生徒が薄々気づき始めたことがある。それは
(ここの養成所って、そもそも声優を育てるつもりがないんじゃないのか……?)
というものだった。確かによくある声優養成所のパンフレットには台本を手にしてマイクの前に立つ姿の写真などがつきものだが、うちの養成所の広告にはそんなものは載っていなかった。実際一年目のレッスンカリキュラムにはスタジオ実習の項目は存在しなかった。
結論から言うと、養成所の本科生として在籍した二年間で、僕は一度もマイクの前に立つことはなかった。そう、我々は騙されていたのである。
おっとここまで書いていたらあの世の代表から灰皿が飛んできて「人聞きの悪いこと言うな!」と叱られてしまった。ここは穏便に代表には地獄へ(絶対天国ではない)お帰り願って改めて事の真相をきちんと語らねばなるまい。
実を言うとそもそも一番最初のレッスンの時点で僕たちは
「お前ら二年かそこらでプロの声優になれるなんて思うなよ」
と講師の方にあらかじめ宣言されていたのである。よくある二年コースの声優養成所だと最初の一年は基礎練習、残りの一年でスタジオに入ってアテレコの実演などといったパターンがお決まりだろう。ところが我が養成所では二年目に行ったのはスタジオ実習ではなく、舞台公演だった。劇場を借りて、ステージの上に立って声だけではなく生身の全身を駆使して演技する、それが二年目の生徒に課せられた課題だったのだ。
養成所の、ひいては代表である大御所声優氏の設けたコンセプトは終始一貫していた。
「声優である前に一人の俳優であれ」
この養成所は初めから「声優」ではなく、舞台もやる、映像もやる、おおよそ「芝居」と呼ばれるものはなんでもこなせる「俳優」を育てる場所だったのである。
ここで一度「声優」という職業の成り立ちについて軽くその歴史をおさらいしておこう。その始まりは外国映画をテレビで放映するにあたって生じたとある問題に事を発していた。映画館の中で集中して作品を鑑賞するロードショーと違い、家庭でテレビを通じて上映する時、人は必ずしも手を休めてテレビの前にじっと座って見ているとは限らない。時に食事をしながら、あるいは家事などをしている合間にいわゆる「ながら見」をする視聴者は少なからずいる。そうした視聴者はセリフが原音のままだと字幕に目が行かずストーリーを追えなくなるのが常だった。そうした視聴者の不満を解決するためにまずは原音の上に日本語をかぶせて放送する「ボイスオーバー」という方式が採用された。
こうして「吹き替え」文化の第一歩が始まったわけだが、とある制作会社の人がこのままではなんか面白くない、ただ機械的に翻訳文をアナウンスするだけでは映画そのものの面白さを伝えきれない、と物足りなさを口にした。そこで制作会社は一つのアイデアを思いついた。
「だったらセリフのプロに翻訳したセリフを喋らせればいい」
こうしてまずは東京都内に拠点を置く大手の劇団に声をかけた。最初劇団側は「テレビでセリフを当てるだけなんてそんなのは芝居じゃない」と突っぱねたらしい。が、役者なんてものはいつだって懐事情が寂しいものである。舞台や映像だけではまだ食べていけない若手俳優たちがアルバイト感覚で仕方なしに始めたのがテレビ草創期の「声優」が生まれた背景だったのである。
やがてそうした「吹き替え映画」も次第に認知され市民権を得ていくと、他の多くの劇団も吹き替え事業に参戦するようになった。時を同じくして国内ではアニメーション作品の隆盛も相まって声の仕事の需要はますます高まって行った。そのうち劇団系の声優たちの中から声の仕事をメインに行う事務所を設立するものも現れ始めた。これが現在も続く「青二プロダクション」などをはじめとする声優事務所の誕生の瞬間だった。
つまり「声優」とは元々「俳優」たちの副業として始められたものが時を経て専門化していった分野であり、そもそも声優の仕事は俳優が行う活動の一つにすぎない、というのが代表の持ち論だったのである。現に今でも俳優座や文学座といった劇団所属の俳優が吹き替えに多く参画している。
この辺りの声優黎明期の苦労話などは代表が語ってくれた昔話を紹介するという形でいずれ改めて語るとしよう。いずれにせよ我々養成所生は「声優」ではなく「俳優」として鍛え上げられていく事となった。最初のうちはその事実に気づいて多少の動揺はあったものの、レッスンを重ねていくうちに代表の意図は身をもって実感できた。たとえ声だけ当てるのだとしてもそこにあるのは「セリフ」であり「演技」なのだ。そこには当然感情や相手との距離感、関係性を含んだ演劇的表現が要求される。ただ台本に書いてある文章をつらつらと読み上げるのが声優の仕事ではないのだ。
以上のような方針であるため、養成所でのレッスンは非常に「立体的」なものであった。ただ発声や滑舌のトレーニングをするだけでなく、多くの講師から様々な演技メソッドによるアプローチで「演じるとは何か」「どう演じるのか」を叩き込まれていった。養成所生のほとんどは演技未経験の文字通りなど素人ばかりだった。それがものの数ヶ月のうちにたちまち「飯を食っている間も芝居のことばかり考えている」ような演劇脳に磨き上げられて行く様は側から見ていて壮観ですらあったかっもしれない。むしろ中途半端に延期の経験がなくまっさらな状態で飛び込んできた連中だから、一度興味を引けばあとは砂地に水が染み込んで行くがごときにあらゆるものを吸収して行った。
もっとも、代表の方針に養成所生全員が共感したわけでもない。「思っていたのと違う」「自分は声優になりたくて入ったのにダンスとか芝居をやらされるなんておかしい」と言ってレッスンに来なくなった者も少なからずいた。そういった連中は春を待つまでもなく自然に姿を消して行った。そうして残ったのは今や「声優になること」などという当初の希望をすっかり忘れ、演劇そのものの魅力にどっぷり浸かった「俳優の卵」という名の芝居ジャンキーどもだった。