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俺の村で起こった話  作者: なつみかん
3/3

二人の願い

俺の目の前にあるのは20メートル四方ほどの更地。

街中でビルなどが壊され、その跡地の狭さに驚かされるなんてのはよく聞く話だ。しかし曖昧な子供の頃の記憶とはいえ、鬱蒼とした雑木林やあの建物がこんな狭い場所にあったとはどうしても思えない。


「どうだ?」


黙ったまま固まる俺にTは聞いてきた。


「あり得ねぇ……」


そう答える俺にうっすら笑みをうかべる。


「俺も最初見た時はそう思ったよ。こんなとこにあの庭や建物がおさまるわけねぇって」


Tはポケットからさっき俺に見せた巾着をとりだし空にかざして見せた。


「コイツはな、俺の兄貴が持っていたモノらしいんだ」


「兄貴? お前、兄弟なんていたのか?」


俺がそういうと、Tは「フッ」と苦笑いをしながら答える。


「つーても、俺は全然覚えてないし顔も見たことねぇ……」


Tは指輪を巾着にしまい、握ったままポケットに突っこんで、堀のほとりまで歩いて行った。ベンチに腰を下ろすと、俺はその横に立ち、上からTの顔を見た。


「……たしか、廃屋に入った半年くらい前だと思う。あの日、親父はかなり酒を飲んでてさ。その勢いで兄貴のことをポロッと漏らしたんだ」


Tはそこで言葉を区切り、ポケットからタバコを取り出して口にくわえた。


「俺は兄がいたなんて一度も聞いたことなかったから、驚いて詳しく聞こうとしたんだけど……母さんに遮られてな。母さんのあの感じからして、兄貴がいたことは俺に知られたくないみたいでさ。それで親父が一人のときをねらって、改めて聞いたんだ」


Tは顔を上げ、俺を見た。


「親父は最初渋ってたけど、しつこく聞いたら少しだけ話してくれた」


それによると、Tには14歳年上の兄がいたが、高校一年のときに事故で亡くなったという。そして、そのとき兄の手に握られていたのが──今、Tのポケットにあるその指輪らしい。


「うーん……自分の子が亡くなった苦しさはわかるけどさ、弟のお前にまでその存在を隠すってのは、兄貴が気の毒だよな。」


俺は足元の小石を拾って堀に投げ入れた。夜空が水面に映っていたが、石の落ちた波紋で星影が揺れる。


Tは波紋を見つめたままポケットからライターを取り出し、くわえたタバコに火をつけた。大きく息を吸うと、静かに水面めがけて煙を吐いた。


「普通に事故や病気で亡くなったなら、そんなことはしなかったと思うけどな……」


そう言うと、Tは指を組んで膝に肘をついた。


「……というと、ただの事故じゃなかったというのか?」


「まあ、そうだな。

ひき逃げ……いや、違う。殺そうとして故意に兄貴を轢いた、そんな言い方だった。」


「殺そうとして故意に…」と言われた瞬間、俺の胸の中で何かがひんやりと落ちるような感覚が走った。波紋が広がる水面を、二人とも無言で見つめる。タバコの先だけが赤く光っている。


「どういうことだ?」と俺は低く聞いた。言葉に力が入るのを抑えられなかった。Tはライターを指で弄りながら、ゆっくりと話し始めた。


「兄貴が亡くなる少し前から、無言電話が続いたり、兄貴の周りに黒いジャガーをよく見かけるようになったそうだ」


「ジャガー?車の?」


眉をひそめてTの顔をのぞき込むと、Tは水面から視線を外し俺を見る。


「学校の登下校の通学路とか、家の近くとか。フルスモークの車が兄貴の周りを彷徨いていたらしい」


その話をするTの顔には、いつもの “にやけ” はない。妙な緊張感に、俺は視線を逸らして夜空を見上げた。


「でもさ、尾行するならそんな目立つ車使わないだろ?」


「だろうな。だから尾行っていうより……存在を見せつけてた感じだと思う。威嚇とか、脅しの意味で……」


想像してみる。自分の生活圏にそんな不審車が頻繁に現れる状況――


「で、その一連のあとの事故だ。そして、兄貴が握っていた指輪。さっき見ただろ? あれ、どう見ても高校生が買うようなアクセサリーじゃない」


そこまで聞いて、俺は大きく息を吐いた。


「つまり話はこうか? キツネが廃屋から同じ指輪を持ち出した。それでお前はあの建物がその指輪と関係あるだろうと調べに入った――そんな感じか?」


Tは頷きもせず、ただ俺を見つめている。


思い返す。俺はあの日、ただの肝試しのつもりで廃屋に入った。そんな軽いノリの裏に、こんな危うい話が潜んでいたなんて――今更ながら冷や汗がにじむ。そしてあのときキツネが見せびらかした“もう一つの指輪”の存在を思い出した。


「まさか……さっき言ってたキツネの自殺。あれもその指輪が関係してると?」


Tのタバコはフィルター寸前まで燃えていた。彼は吸い殻を足元に落とし、靴でねじ潰す。


「……まぁな」


とはいえ、廃屋を探検したのは十年も前の話だ。いくらなんでも、こんな長い時間を経て影響が出るなんて――それが本当だとしたら悠長すぎやしないか。

そんな事を考えていると、Tはポケットから携帯を取り出した。


「もしもし……」


突然、Tが誰かと電話をし始めた。

この時代、携帯電話はまだ高価なもので、持っているのは一部の社会人か裕福な人くらいだ。

社会人になって数年のTが携帯を所有できる財力に感心しながら、俺は黙って通話が終わるのを待っていた。


「ああ、あの跡地だ。……うん、待ってるよ」


そう言って、Tは電話を切った。

俺が「誰?」と聞きたそうな顔をしていると、Tは携帯をポケットにしまいながらこちらを見上げた。


「今からMがここに来る。彼女の話も聞いてくれ」


「はぁ? この話って、Mも関係してんのか?」


M――。

そういえば、彼女は県内でも有数の進学校に通っていたのに、大学には進まず警察官になったと聞いた。

Tが調べている兄の不可解な事件。そのつながりを考えれば、Mとの接点もその件に違いない。


俺はTの右隣に腰を下ろした。


Tは無言のまま、ベンチの背もたれに体を預けて真上の空を見ている。

さっきまでは気づかなかったが、遠くでガマガエルの鳴く声が聞こえる。

その懐かしい声をぼんやり聞いていると、背後からかすかな足音がした。

俺とTは同時に振り向く。


そこには、中学の頃の面影をわずかに残したMの姿があった。

同い年のはずなのに、俺の彼女や大学の同級生たちよりもずっと落ち着いていて大人びて見える。もし外で出くわしても、きっと気づかず通り過ぎてしまうだろう。


「悪かったな、こんな時間に、こんな場所に呼び出して……」


Tが言うと、Mは黙って首を横に振った。


「K君、久しぶり。高校の電車通学の時以来だね」


彼女はそう言って微笑む。

Tが電話を切ってから、まだ五分ほどしか経っていない。そういえば、Mの家はこの近くで日本酒を造っている老舗の蔵元だったことを思い出す。

そんなお嬢様が、こんな不可解な事件に関わっているなんて――それだけでも信じがたいのに、“気品”とは正反対のTと付き合っているなんて話、目の前の二人の距離感を目の当たりにしてもまだ現実味がない。

そんな視線に気づいてか、Tは俺に視線を向けて口を開く。


「お前が考えてる通りだよ。俺とMを結びつけたのはこの事件だ」


俺はギョッとする。

さっきから考えていたことが顔に出ていたのか、Tは俺の思考をそのまま読んだように言った。


「でもさ、お前の兄貴のことも、“キツネ”の件も、本当にその指輪が関係してるかなんてわかんねぇだろ?

仮にお前の考えが事実だとして、なんで俺に話す? どう考えたって俺にできることなんてないよな」


そう、Tの兄の件はともかく、“キツネ”の話は全くのTの推測にすぎないのだ。

そして兄の死からすでに二十年。たとえそれが事件だったとしても、今さら犯人を探すなんて無理がある。俺は刑事でも探偵でもなく、ただの大学生なのだから。


「まぁ、お前を巻き込む気もないし、別に力を借りたいわけでもない。今日お前と会ったのだってただの偶然だからな。そんな都合のいい話ねぇよ」


Tがそういうと


「確かにこのタイミングでK君と会うなんて……ね」


そう濁す彼女の言葉に疑問を感じ


「それってどういう……?」


そう言いかけてMに目を向けると、彼女は俺から目を逸らし何処となく落ち着かない様子で周囲に目を向けた。

そしてMは横で話を続けようとしたTのアロハシャツの裾をつまみ、言葉を遮った。


「ねぇ……続きは、場所を変えて話さない?」


か細く、それでいて真剣な声。警官とは思えないほど弱々しい。


「ん? あ、あぁ……」


俺は口をつぐみ、Tに視線を送る。


「でも、他に適当な場所って……」


Tが考え込むように言葉を濁すと、Mが少し迷ったあと提案した。


「……私の部屋じゃ、だめかな?」


「俺は構わないけど……」


TとMの視線が、同時に俺へと向く。


「ま、まぁ……俺も別に、いいけど……」


そういうと俺たちは堀の内側、つまりは村の中心部にあるMの家に向かい歩き始めた。

Mの家は何代にもわたり酒の製造販売を生業にして、数十人の従業員を抱えている。村内では名家の部類だ。

俺は少し緊張しながら二人について行った。

MはTの左側にピタリとついている。


「そういえば、今日社長は?」


Tは思い出したかのようにMに尋ねた。


「お父さんいま福岡に行ってるからいないよ」


(社長?)


「そうか」


その呼び名に疑問を持ちながらも、TやMとの他愛もない話をしていると、いつの間にか俺たちはMの家の前に着ていた。眼前には旧名家らしい立派な門構え。その門をくぐると純和風の大きな建物が現れ、暗な中でもその存在を誇示している。そして長い石畳を通り玄関の引き戸を開けると、そこには部屋一つが入りそうなほどの広い土間があった。広い式台。正面には花が生けてある。俺のうちで花を飾るなんて、結婚式か葬式で貰った時くらいなものだ。

玄関に入るというワンアクションで、うちとMとの家柄の差を思い知らされた。


「すげ…… 。Mさんてやっぱお嬢様なんだな」


思わず出た言葉に、Mは照れながら顔の前で手を交互に振る。


「そんな事ないよ。それにK君、うち初めてきたわけじゃないでしょ。昔、K君のお父さんと一緒に来た事あるよ」


「えっ?親父と?」


全く覚えがない。

だがそう言われて、Mのお父さんとうちの親父が同級生だったことを思い出した。うちで仕事を始める時、経理のノウハウを手ほどきしてもらったと言っていた気もする。

……とは言え、この家に来た事などまるで記憶にない。

俺たちは玄関を上り、分厚い床板の廊下を通ってMの部屋に通された。

畳敷の部屋の窓面には平机。壁の面にはベッドと大きな本棚が置かれ、民法や刑法など難しそうな本が並んでいる。同級生の女子部屋…… 俺は自分の彼女の部屋のような柔らかな空間を想像していた。しかし目の前にあるのはまるで書斎。Tはこの部屋に何度も訪れているのだろうが、二人はここでどんなことを話し、どう過ごしているのかがまるで想像できない。


「女の子の部屋っぽくないでしょ」


そんな俺の考えが顔に出てしまったのか、Mは苦笑しながら言った。


「い、いや。そんな事は……」


慌ててフォローを入れようとするが、その言葉の先が出てこない。


「とりあえず座って。お茶入れてくるから」


そう言ってMは部屋をあとにした。

Tはすでに部屋の中央にあるテーブルについている。俺も向かいの席に腰を下ろして「ふぅ」と一息ついた。


「で?」


とりあえず口を開くと、Tが怪訝そうに眉を上げた。


「で?って、なんだよ」


「だからさ。俺にこんな話をして、わざわざここまで連れてきた理由だよ。

お前は“巻き込む気はない”って言ってたけど、正直もう巻き込まれてる気しかしないんだけど」


そう言うと、Tは苦笑いを浮かべて肩をすくめた。


「いや、マジでそんなつもりはねぇよ。今日お前に会ったのもたまたまだし、最初は本当にただ飲みに行こうって言っただけだったんだ」


「じゃあ――」


言いかけたところで、襖を軽くノックする音がして、Mが入ってきた。

彼女は一瞬だけTに目をやり、手にした皿をテーブルの中央に置く。皿の上には菓子が盛られていた。

そのあと、俺とTの前にコーヒーカップをそっと並べる。


「ビールのほうがよかった?」


三つ目のカップを置き終えながら、MがTに目を向けて言った。


「いや、酒飲みながら話すような内容でもないだろ」


Tが答えると、Mは小さく笑い、何も言わずにTの左隣に腰を下ろした。

Tは再び俺のほうを向き、真剣な顔で話し始めた。


「お前に廃屋跡を見せたり、兄貴の話をしたのはな……。ラーメン亭でお前と話してて、なんか“違和感”を感じたからなんだ」


「違和感?」


俺と同じように、Mも首をかしげてTを見つめる。

俺はラーメン亭での会話を思い返したが、特に引っかかるような部分は思い当たらない。

Tは黙ってコーヒーをひと口飲み、身を乗り出して言った。


「何のことか分かんねぇって顔してるな」


俺は黙ってTの目を見返す。


「じゃあまず、俺とMの出会いから話すか」


「……ふぇ?」


突然の話題転換に思わず変な声が出た。

目の前でMもぽかんと口を開けている。

そんな俺たちを気にする様子もなく、Tは淡々と語り始めた。


「知っての通り、俺はT高校の普通科だったんだけど、卒業したらすぐ就職しようと思ってたんだ」


「はぁ……」


(何の話を聞かされてるんだ、これ)と思いつつも、とりあえず相槌を打つ。


「で、できるだけ近場での求人を探してたときにな。たまたまMんち会社で従業員を募集してるのを見つけたんだ。

そして高三の秋頃、採用試験……っていっても、社長とか役員との面接だけでさ。そこの事務所のテーブル越しに話したのを覚えてる」


Tは当時を思い出すように、Mの家の事務所の方向を顎で示した。


「その面接も、志望動機とか真面目な話じゃなくて、ほとんど雑談みたいな感じでさ。

で、そのときお茶を出してくれたのが、Mだった」


「……」


TはMの方を見たまま、視線だけを俺に向ける。


「俺もMがW高校に通ってるのは知ってたからな。

『大学受験前なのに家業の手伝いなんて大変だな』って思いながら見てたんだ。

で、面接が終わって外に出たら、Mが待っててくれたんだよ」


「はぁ。でもお前、中学のときMさんとほとんど話したことなかっただろ?」


「まぁな。でも、同級生が自分ちの会社を受けに来てたら、知らんぷりもできなかったんじゃねぇか?」


そう言って、TはMに目を向けた。

その言葉に、中学時代のMの姿が頭に浮かぶ。

生徒会で忙しく立ち回り、周囲への気配りを欠かさなかった彼女なら、たしかにそんな行動も納得だ。


「とはいっても、当時の俺はMとほとんど話したことなかったし共通の話題もなかったからな。

二人で堀のほとりをぶらぶら歩きながら、お互いの進路の話をしたんだ。

そのとき初めて、Mが“警察官になる”って聞いた」


「へぇ……。でもさ、W高校からの就職って、かなり珍しくないか?」


俺の高校も一応進学校だが、卒業後に就職する生徒は一割にも満たない。

県内屈指の進学校となれば、なおさらだろう。


「確かに多くはないけど、何人かはいたよ」


Mはそう言ってTに視線を戻す。

Mの家は、村の中でも名家と呼ばれる一族だ。そんな家の出であるMが、経済的な理由で就職するなんて考えにくい。だとしたら――。

そんな思いを巡らせていると、Tがその考えを遮るように話を続けた。


「……でな、そんな話をしていた時に、ちょうどあの廃屋の跡地を通りかかったんだ。

小学生の頃はお前と一緒に指輪の手がかりを探したり……」


「俺はそんな気全然なかったけどな」


「親から指輪や兄貴の話を聞き出そうとしたりもしたけど……」


俺の言葉を無視して話を続けるTは大きなため息のあと、脱力したように言葉を続ける。


「子供の俺はすぐに行き詰まってな。気づけば、あの場所のことを考えることもほとんどなくなっていた。

それでもなるべくあの廃屋の近くにいたいと、実家近くで仕事探していたんだけど、その廃屋も庭も、跡形もなくなっていることを知って愕然としたんだ」


そう言うと、Tはテーブルの上で指を組み、じっと俺の顔を見つめた。


「じゃあ、その指輪の手がかりが完全に途絶えたってことか……?」


「ああ…… あの更地を見た瞬間、頭の中が真っ白になって……気がついたら取り乱してた。

何の関係もないはずのMに、兄貴のことも、指輪のことも、全部しゃべっちまってた。」


Tは深く息を吐き、冷めかけたコーヒーを一口すする。

その手が、わずかに震えていた。

俺もつられるようにカップを持ち上げたが、なぜか喉が重く、飲み込むことができなかった。


「でも、目の前で同級生の男がそんな状態になったら……Mさんも、さすがに驚いたろ?」


そう言って視線を向けると、Mは何かを思い出すようにTの横顔を見つめていた。

目の奥に、ほんのかすかな怯えのようなものが宿っている。


「そうね……でも――」


Mは小さくつぶやいたあと、何かを決心したように立ち上がる。

引き出しを静かに開ける音が、やけに大きく響いた。

彼女は中から何かを取り出し、それをテーブルの上にそっと置く。


「これって……」


そこにあったのは、Tが俺に見せた銀の指輪と、まったく同じ形のものだった。

ただ、少しだけ――小さい。

まるで、ペアのように。


Tは無言のままポケットから巾着を取り出し、自分の指輪をその隣に並べた。

二つの銀の輪が、テーブルの上で微かな光を反射している。

その光景だけで、空気が一段と重くなった気がした。


沈黙を破ったのは、Mの声だった。


「これがね、私が警察官になった理由。そして――Tくんと仲良くなったきっかけでもあるの。」


Tは小さく笑った。だが、その笑みはどこか引きつっていた。


「……あれは、今思い返しても奇跡みたいな偶然だった。

たまたまこの会社を受けて、Mと再会して、散歩の途中であの辺を通って……つい、指輪の話を口走っちまって。」


偶然――。

そう言われても、何かもっと深い力が二人を引き寄せたようにしか思えない。


「でも、どうしてMさんがこの指輪を……?」


俺の問いに、Mは小さく息をのむ。

その指輪を見つめる眼差しに、確かな恐れが混じっていた。


「多分……姉さんのものだと思う。」


「姉さん? Mさんに姉さんがいたの?」


そう尋ねると、Mの表情がかすかに曇った。


「わからない……」


「え? だって――」


言いかけた俺の言葉を遮るように、Mはゆっくりと語り始めた。


「あの指輪はね、古い日記帳と一緒に見つけたの。

でも……家族の誰からも、“姉”の話なんて聞いたことがないのよ。」


部屋の空気が変わった気がした。

Tが目を伏せ、Mは淡々と続きを話す。


「その日記の最初の方には、学校のこととか、部活のことが普通に書かれているわ。

でもある日を境に――文章の調子が変わるの。

“学校の帰り道で、知らない男に襲われそうになった。でも助けてくれた人がいた”って。」


「助けてくれた人?」


「Tくんのお兄さん、みたい。」


その瞬間、Tが小さく息を呑む音が聞こえた。

俺の背筋を、冷たいものが走る。


「……そんな偶然、あるか?」


「偶然なんかじゃねぇ」

Tの声は低く、重かった。

「その出来事があったから、今こうして俺たちはここにいる。たぶん……そういうことなんだろ。」


Mはうつむき、震える指先で指輪をそっと撫でた。


「日記はね、そのあと突然終わってるの。

最後のページに“また明日、会えるよね”って書いてあって……そのまま。」


部屋の時計の音だけが、やけに響く。


「……多分、そのあと姉さんは、いなくなった。」


Mの声は震えていた。

俺は何も言えず、ただ二つの指輪を見つめた。

そこに何か、触れてはいけない“痕跡”が刻まれている気がしてならなかった。


「Tくんの家にかかってきた無言電話や、黒い車の話……

もしかしたら、あの廃屋の持ち主が関係してたのかもしれない。」


「……それにしても、なんでそんな事件が“なかったこと”になってるんだ?」


誰もが知っているはずの“失踪”が、誰の記憶にも残っていない。

その異様さに、喉の奥がひどく乾いた。


「権力者が関わってたとか、そういう話なら隠されることもあるけど……」


言葉を途中で切る。

Mの顔を見て、もう一つの違和感が浮かび上がった。


「でもね、Tくんのお兄さんのことは、ご両親と話もしている。

けど……私の“姉”は、最初からいなかったみたいに、日記以外、存在の痕跡がまるでないの。」


沈黙が落ちる。

外の風が窓を揺らす音が、やけに近く聞こえた。


「……Tも、小四まで兄貴の存在を知らなかったんだろ?」

俺は恐る恐る言葉を継ぐ。

「なら、何か理由があって、“隠している”可能性もあるんじゃないか?」


Mは俯いたまま肩を震わせていた。

そして話を引き継ぐようにTが口を開く。


「……でだ。

ここからが、“違和感”の話になる。」


その声は低く、しかし確実に、部屋の空気を凍らせた。


その言葉に、ようやく自分がここに呼ばれた理由を思い出す。

カップの縁に指先を添え、冷めかけたコーヒーを口に運んだ。


「とりあえず、Mの姉さんや俺の兄貴の話は置いとこう。

それより――小学生のとき、俺と一緒に廃屋に入った日のこと、覚えてるか?」


「……は? そりゃまぁ、覚えてるけど。」


Tが微かに笑みを浮かべ、Mと目を合わせる。

その笑いが、なぜか皮膚の下をざわつかせた。


「じゃあさ。どんな流れで、あの廃屋に入ったか……話してみてくれ。」


何を確かめたいのか、Tの意図は掴めない。

俺は記憶の底を手探りで探るように語り始めた。

堀で釣りをしていたときに出会った“キツネたち”のこと。

その夜、Tの家の前で落ち合い、あの廃屋へ向かったこと。

中で見た異様な祭壇、そして――Tがそれを壊したこと。


話し終えると、TとMは同時にこちらを見つめていた。

瞬きひとつせず、まるで息を止めていたかのように。

静寂が、やけに長く続いた。


「……いま、“キツネたち”に会ったって言ったな。」


沈黙を破ったのはTだった。


「他には……誰がいた?」


唐突な問いに、言葉が詰まる。

当時の光景を思い出そうとするが、そこだけが靄がかかったように霞んでいる。


「うーん……三人いたのは覚えてる。でも、誰だったかな……。」


Tは鼻で小さく笑った。


「俺が“違和感”を覚えたのは、まさにそこだ。」


「はぁ? 十年以上前のことだぞ。誰がいたかなんて忘れててもおかしくねぇだろ。」


Tはゆっくりと体を起こし、テーブルの皿からチョコを一粒つまんだ。

包みを破る音が、妙に大きく響く。


「……まぁ、そいつらが普通のやつなら、そうかもな。」


そう言ってチョコを口に放り込み、コーヒーをひと口。

その動作のひとつひとつが、妙に芝居じみていた。


「お前、スラムダンク好きだったよな?」


「は? ま、まぁ、好きだけど。」


「じゃあ、陵南の選手って聞いて真っ先に浮かぶのは?」


「陵南? 仙道……かな。」


Tは薄く笑った。その笑みは、どこか底が見えない。


「だろ。人によっては魚住とか福田を挙げるかもしれないけど。

でも――池上とか植草を真っ先に思い出す奴はまずいない。」


「まぁ……そうかもな。俺は池上好きだったけど。」


Tは小さくため息をつく。


「いや、そういうことじゃない。」


「……わかってる。で、何が言いたい?」


Tは、視線をゆっくりとこちらに戻した。

その瞳の奥に、得体の知れない影がちらついていた。


「だから、“違和感”の原因はそこなんだ。

いいか――あの夜、あの場にいたのはキツネと……OとUだった。」


「OとU?」


思わず首をかしげる。


「……やっぱり覚えてないか。

お前、小学低学年の頃、駄菓子屋のくじ引きでとった景品をOに巻き上げられたことあったろ?

忘れるわけないと思ってたんだが。」


「……そんなこと、あったか?」


記憶のどこを探しても、OもUも出てこない。

頭の奥で、何かがノイズのようにざわつく。

Tはそんな俺を見て、ゆっくりと笑った。


「やっぱりな。

さっき酒を飲んでる時、カマをかけてみた。

そしてその反応――間違いなく、お前はその二人を“知らない”。」


そこでTは言葉を切った。

空気が、わずかに軋む音を立てた気がした。


「Oはな……小6のとき、絡んできた中学生5人を半殺しにしたって噂があった。

この辺じゃ、知らない奴はいないくらいのワルだったんだ。」


Tの声は静かだった。けれど、その静けさが逆に耳に刺さる。


「言ってみりゃ、キツネもUもただの取り巻きだ。

だから――“キツネの名前が先に出る”ってのが、どうにも引っかかったんだ。」


「……。」


Mが一瞬、視線を落とす。その横顔には、何かを思い出しかけているような影が差していた。


Tは構わず続ける。


「さっき、お前言ったよな。

“中学に入ってからキツネの噂は聞かなかった”って。」


「……ああ。」


「当然だ。」

Tはカップを指先で軽く弾く。その乾いた音が、妙に響いた。


「あの日――俺たちが廃屋に入ったあの日から、OとUは“いなくなった”んだ。」


「……いなくなったって、おいT。

中学生が二人も消えたら、さすがに騒ぎになるだろ。

そんな話、俺は一度も――」


「――誰も、気づかなかったんだ。」


Tの声がそれを遮った。

「いなくなったことに、誰も違和感を持たなかった。

まるで、最初から“存在していなかった”みたいにな。」


Kは言葉を失う。

Mも俯いたまま黙り込んでいた。

部屋の隅で時計の秒針だけが、規則正しく音を刻んでいる。


「……でもな、あいつは覚えていた。」


Tが目を細める。


「――“キツネ”だ。」


「キツネ……?」


「そう。あいつは、OとUのことを覚えていた。

三人は俺たちと同じようにあの廃屋に入って、そこで何かが起こった。

そしてあの夜の後、キツネは“別の世界の記憶”を持ってた。」


「別の……世界?」


Tはゆっくりと頷く。


「OもUもいたはずなのに、誰も覚えていない。

町からも、記録からも消えてしまった。

けど、キツネの頭の中には、確かに存在していた。

それに耐えられなかったんだよ。」


沈黙。


「……その結果がそれか」


「ああ――

遺書もなく。ただ、机の上に銀色の指輪が置いてあったそうだ」


俺の胸の奥がざわつく。


「キツネが持ってた指輪、この二つと同じだったんだよな?」


Tは頷く。

「そう。俺のも、Mのも。

そして、恐らくOもUも――“消える前”にそれを持っていた。持っていた奴だけが、消えた奴らの存在を覚えている」


Kの背中に冷たい汗が流れた。


「じゃあその失踪って、その指輪が……?」


「関係してる。」

Tの声が震える。

「あの廃屋で見つけた祭壇の中央――あそこに嵌め込まれていた“銀の輪”。

あれと同じ形の指輪が、いなくなった奴らのそばに必ずあった。」


俺は震える声で問いかける。


「……じゃあ、あれを壊したときから……?」


Tは静かに首を振った。


「いや、その前から少しずつ何かが起きてきたのだろう。現にMのお姉さんが居なくなったのはそのずっと前だ。

でもあの夜から何かが変わったのも確かだ。」


俺は頭を抱える。

そして思い出す。

あの廃屋。

何も無いホール。

人毛のぶら下がった部屋の匂い

Tに破壊された祭壇。


そこにあったであろう銀の指輪。


「お前……あの時、祭壇に何を見たんだ?」


俺の声は掠れ上手く喋れない。


Tはゆっくりと手を伸ばしテーブルの上で禍々しく光り、金属というより“生き物”のような物体に手を乗せた。


「鏡だ」


Tは震えながら二つの指輪を握りしめる。


「その中の俺は笑っていた」


視界がぐらりと揺れる。

理解が追いつかない。

まるで記憶が誰かに書き換えられていくような感覚。


震えが止まらない。


「T……それ、捨てよう。早く!!」


Tは笑った。

「もう、遅いんだよ。

俺もMも……」


その瞬間目の前の二人の姿にノイズが走る。そんな中にありながら二人の顔は悲しさと何処となく穏やかな表情を浮かべている。


「こうなる事はわかっていた」


「な、何で!?」


そう呟く俺の前で、二人は手をつなぎ、境界線の外にいる俺を見つめる。


「K、俺たちはこの世界から消える。

そうなったらすぐその指輪を壊してくれ。」


ノイズの中にTの声が響いた。


「なっ!?」


声にならない音を発する。


「最後にお前に会えて良かった」


酷いノイズの中からそんな声が聞こえ、ノイズが消えると二人の姿は無くなり、その瞬間テーブルの指輪が、ひとりでに転がり、目の前で止まった。


「T!? M!?」

声を上げるが、返事はない。

テーブルの上には、三つのコーヒーカップと、倒れた写真立てが残されていた。


震える手でそっと写真たてをおこす。

そこに写っていたのは、俺ひとりだけ。TとMの姿を、何度見返しても見つけられなかった。


呼吸が浅くなる。

指先が冷たい。

背後から、何かがそっと耳元に触れたような錯覚とともに、かすれた声が落ちてきた。


「……思い出せるのは、お前だけだ。」


振り返ってはいけない――

頭のどこかでそうわかっていた。

それでも首が勝手に動きそうになるのを、必死に堪える。


そのとき、テーブルの上の指輪が小さく転がり、カチリ、と金属の音を立てた。

まるで何かが、そこから抜け出したように。


音が止んだ瞬間、世界から“風”が消えた。

耳鳴りだけが、延々と続いていた。



気がつくと俺は廃屋のそばにある古びたベンチに座っていた。湿った朝靄の中で、自分の吐息だけが白く漂っている。


……夢だったのか?


顔をあげ堀の向こう側を見ると、モヤの中にMの家の屋根が見える。その風景にホッとするも、昨夜の光景が頭の奥で焼きついたままだ。

俺はふらふらと足を動かした。

子どもの頃に走り回った神社、駄菓子屋――懐かしい景色のはずなのに、どこも色が抜け落ちたように静まり返っている。


五分ほど歩くと、目的の場所にたどり着いた。

そこにあったのは、朽ち果てたMの家だった。軒の板は剥がれ、屋根の瓦は崩れ落ち、風が吹くたび、瓦礫の奥でカラカラと何かが鳴った。


しかし驚きがない。

まるで、こうなることを知っていたかのように。


足を早め、Tの家へ向かう。

途中、自宅の前で母親が庭を掃いていたが、声をかける気にもなれず素通りする。

肩で息をしながら、Tの家があったはずの更地の前に立つ。そこにはただ、土の匂いと、踏みしめる音だけがあった。


息を整えながらその何も無い地を眺める。

そして数分後重い足取りで実家へ歩き出した。

庭の母親にTの家のことを尋ねると、彼女は怪訝そうな顔をして言った。


「……昔から、あそこに家なんてなかったわよ。」


「じゃあ、Mの家は? 堀の向こうの……」


「そんな人、聞いたことないけど。」


胸の奥で、何かが軋んだ。

想像していた通り――いや、それ以上におぞましい確信が広がっていく。


三年ぶりの自室。

ドアを閉めた瞬間、膝が勝手に折れ、床に崩れ落ちた。

涙が止まらなかった。

昨日の出来事――Tの笑い声、Mの香水の匂い、食堂で食べた焼き鳥の味。

どれも生々しく残っている。

けれどこの世界では、彼らは「最初から存在しない」。


その現実を理解した瞬間、胸の奥が凍りついた。


涙を拭おうとした指先に、氷のような硬質な感触が触れた。

自分の掌を見下ろした瞬間、息が詰まる。


黒く鈍い光をまとった二つの銀の指輪。

まるで生き物のように、触れた部分からじわじわと体温を吸い取ってくる。


その冷たさの奥で、Tの声が甦った。


『……すぐに指輪を壊せ。』


俺はそっと指輪を乗せた手を閉じる。

「壊せるかよ……そんな簡単に……」

声は震え、額に押しつけた指の隙間から空気が漏れた。


TとMは、何を求めていたんだ?

M姉の失踪の真相か。

T兄を死に追いやった“何か”か。

それとも……自分たちが消えずに済む方法だったのか。


だが、本当にそうだったのか?


キツネが持っていた指輪は回収され、破壊された。

なのに、TとMが持っていた二つの指輪――こいつらは壊せなかった。

理由はわからない。

ただ、その“失敗”の直後に二人は世界から消えた。


じゃあ、俺に託した理由はなんだ。

二人が自分の手で壊してしまえば、助かったかもしれない――そう思った瞬間、背筋をゆっくりと冷たい刃物でなぞられるような感覚が走る。


ノイズ混じりのあの瞬間に見た、Tの顔が脳裏に焼き付く。


思えば、あいつはどこか“淡々と”していた。

必死に見せた焦りも、俺を巻き込む気はないと言った声も、どこか演技めいていた。

だが昨日、消える寸前に見せたTの表情――あれは、全てをやり遂げたような満足気にも見えた。


まさか。


あいつは……最初から“消えること”を望んでいたのか?

自分の存在が、この指輪が呼ぶ“何か”にとっての代償になると知っていたのか?


指輪が震え、黒い光が脈打つ。

まるで、次の“持ち主”を選び直しているかのように。


俺ははっとして手を開く。


俺は悟った。


Tは“壊す”ことなど望んでいなかった。

望んでいたのは――“自分が消えること”。

そして、指輪が次の宿主を求めた時に、俺が選ばれることまで計算していた。


「……クソが。」


噛み捨てるように呟き、俺はそっと、もう一度ゆっくりと手のひらを閉じた。

この先、そう遠くない未来に――俺はこの世界から姿を消すのかもしれない。

その予感は、胸の奥で静かに脈打ち、否応なく現実味を帯びていく。


それでも構わない。

導かれるというのなら、たとえそれがこの世界の果てであろうと、別の世界の始まりであろうと、受けて立つだけだ。


もしもその先でTの姿を見つけたなら――

俺は迷わず、真っ先に殴り倒してやる。


それが、この世界で生きてきた証になる気がした。

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