目覚めて最初に考える事
目が覚めるとまず最初に考えることは、今がいつの時代なのかだ。
記憶のストックが膨大すぎる私にとって、時代が過ぎ去るのは一瞬になってしまう。
かつてはうっかり目を閉じて開くと、それだけで数十年の歳月が経過していたこともあった。
このようなことは日常生活を営むには少々不便なことであるので、いつ頃からであったろうか私は記憶を整理し意識の奥底に保存する技術を身に付けていた。
それはちょうどパソコンでフォルダに名前を付けて保存するようなもので、だいたい百年単位で保存して必要な時に取り出せるようにしている。
非常に便利な脳の機能ではあるが、眠りから覚めた直後には多少の混乱があるのが難点だ。
さて、私が今いる時代は・・2021年7月7日の午前3時である。
ベッドのサイドテーブルに置かれている、スマホという懐中時計よりも便利な機械が教えてくれた。
私は記憶を巡らせる。
そう、今は人類が初めて経験した大規模なパンデミックの始まりから1年半ほど経過したところだ。
パンデミックといえば600年以上前にヨーロッパの人口の三分の一の命が失われたという黒死病を思い出す。
あの恐ろしい病魔の流行も私たちの一族の仕業のように言われたものである。
当時の人間たちは、私たちが人類を滅ぼそうとしていると本気で考えていたのだろうか。
私たちは人間が居なければ生存できない弱い種であるのに、ひどい風評被害だった。
そのせいで多くの同族が人間たちに殺されたのである。罪も無い・・とまでは言わないが。
現在の、この新型コロナと名付けられた病魔は黒死病に比べれば致死率は低いが、流行の範囲は全地球を覆う規模であるのが恐ろしい。なんとか早く沈静化してもらいたいものである。人類に滅びられては私たち一族も困るのだ。私は病院を経営しているが(それは安定して血液を手に入れるためではあるが)、この病魔を滅却すべく陰ながら努力もしているのである。
私が今いる場所は日本という国のある都市の、タワーマンションと呼ばれるアパートの一室だ。
以前、ヨーロッパ各国で住んでいた城や屋敷にはとても及ばないが、この国ではそれなりに贅沢な住居なのである。大きな窓から眺められる夜景はとても美しい。
長い間ヨーロッパを転々としていた私は、先の世界大戦が終わってから故郷のルーマニアに戻りのんびりと暮らしていた。
しかしやがて革命が起こり王制が廃止され社会主義国になったため、長らく国外に出ることが難しくなっていた。
チャウシェスクが倒された30年ほど前にこの国にやってきて、この国の人間の下僕たちを作り操って、人間としての地位や職業を手に入れた。これは長い間、世界中どこに移住してもやってきたことである。
サイドテーブルに置かれた銀製のシガレットケースからトルコ製の紙巻タバコを取り出して口に咥える。そして1960年代に、金属の塊を削り出して作られた金色のデュポンのライターで火を着ける。ゆっくりと煙を吸い込み、そして吐き出す。不自然な香料を含まない純粋な煙草の煙をしばし味わう。
ニコチンなど私の身体には毒にも薬にもならないのであるが、私が口に出来る物は非常に数少ない。
いくら贅沢な暮らしをしようとも、グルメを楽しむことなどできないのである。
タバコはそんな私が味わえる、数少ない楽しみのひとつなのだ。
さて、記憶の整理もできて現状の把握も出来たし、タバコを吸って頭もずいぶんと冴えて来た。
残る問題はただ一つである。
私のベッドで静かな寝息を立てて眠っている、この若い娘は誰だ?