第八十六話 谷底に灯る街
大書庫の地下へと続く通路は、知っているはずの場所なのに、違っていた。
天冥の樹の麓。
奥へ進むにつれ、空間が静かに沈んでいく。
地上から世界が、気配のないまま切り離されていく感覚――。
谷の底に広がっていたのは、街だった。
嘆きが積もり、形を成したような場所。
ただ――。
耳鳴りのような静寂が、鼓膜の奥で揺れた。
嘆きの残滓は、煌びやかで、夢見心地のように美しい光を纏っていた。
天冥の樹の影が覆い被さるように垂れている。
光は上からではなく、内側から滲んでいる。
暗闇を灯す光は、地上で感じる灯りとは異質のものだった。
「あれ……が」
私は、静かに呟いた。
「そうさ、僕らが向かう先。魔人と半魔族が共に協力して静かに暮らす平和な街」
……魔力探知でも感じる、核を巡るような流れ。
しかも、魔人だなんて。
リュミエールの姿をした魔人を思い出す。
力が抑制された状態でさえ恐怖だったあの存在――。
(お姉ちゃん……?)
(警戒だけはしておこう。それと――)
(うん。争い事は避けること……)
お姉ちゃんと目が合い、静かに頷いた。
「この場所、懐かしいぞ!」
その隣でニアが声を弾ませていた。
その視線の先には、蔓が絡み合う植物が大樹の根に沿って広がっている。
蔓は怪しく蠢き、大気に紛れる黒い靄を吸っては、美しい光を吐き出している。
ほどよく視界を照らす魔力光だけが、周囲を浮かび上がらせている。
地の底で見えた光には、たくさんの色が咲いていた。
それは、闇精霊たちの聖域で見た景色にどこか似ていて――。
歩みを進めるにつれ、優しい灯りと共に、整った街並みがはっきりと見えてきた。
この地の至るところで感じた優しい風と、温かさ。
それは、ここでも変わらなかった。
「なぁ、急に魔人が襲ってくるってこと……ないよな?」
急に我に返ったように零すニア。
すると、思った通り――。
「いまさら?」
「い、いや……、なんか居心地が良さそうな空気だったからつい、な……」
「フィリエルが保証する。ここでは、争いは起こらない。ただ……」
フィリエルは、そこで口を噤んだ。
その表情は、どことなく、これ以上語りたくないといったものに見えた。
「ソラノア君、それ、本当?」
どこか、違和感のある質問をするお姉ちゃん。
「ん? あ、あぁ。大丈夫だ。問題ない」
「フィリエルの方が気になる?」
やっぱり……。
「……」
ソラノアは答えを言わない代わりに、フィリエルの方を一瞬見ただけだった。
気にならないなんて答えたら、フィリエルの反応が怖い。
正直に答えたら、自分の気持ちを悟られるかもしれない。
お姉ちゃんが暴走する前に、話題を変えよう。
「ソラノア、穢れって、嘆きの谷で感じたあの冷たい感覚、底に落ちずに漂っていた後悔や諦めの負の感情のこと?」
「それだけとは違う。魔族が好む人の感情には特徴がある。純粋無垢で澱んでいないものほど好まれる」
「「なぜ?」」
私とお姉ちゃんの声が重なる。
「それは――、迷いがないからなんだ。メルト、迷いってどういう感情だと思う?」
ソラノアも上手い。だてに冷静さを纏っているわけではないようだ。
私たちの興味を引く話題を投げかけ、一番空気が読めるお姉ちゃんに問う。
話題をすり替え、さらに案内人としての仕事もこなす優秀な導き手――。
お姉ちゃんは、一旦間をおいて、慎重な面持ちで口を開いた。
「反発する情が混在している状態」
「さすがだな。次の質問だ。人は魔族に対してどんな感情を抱いている?」
「負の感情を抱く場合が多いね。誰もが魔と抗う力を持っているわけじゃないからね」
ソラノアは、お姉ちゃんの理に適った回答に目を見開いて驚いている。
「あぁ……、その通りだ。人が魔に畏怖の念を抱く限り、迷ったら殺られるという純粋な恐怖を感じる。魔物はその澄んだ魔力を喰らい、情と共に魔力を蓄え、力を付ける――」
そういうことだったんだ。
ありのままの感情。
それが、魔族の好みであるということ。
単純な話だ。
「魔物は負という感情に遭遇する機会が多いから、その感情を本能的に欲するようになったんだね」
「そう、言われている。穢れというのは、あるべき姿のものに絡まり合った物事の総称。この地では、その穢れを受け止め、清らかな魔力を生み出す仕組みがある。それは――」
「それは?」
「月の力で迷いを癒し、前向き、後ろ向きの感情そのものを個別に取り出す仕組み。魔族はそれを糧にしてきた。だから、ここにいる上位の魔族、あるいは半魔族は、感情を持つ人の性質にも近く、純粋な魔力体である精霊族にも近い特徴を帯びている」
「その特徴に違いはあっても、それぞれの種族が近い存在同士だってことだね」
ソラノアも、フィリエルも、ただ頷いた。
目の前にいる、種族の橋渡し、それが答えだ。
古に、楽園と呼ばれていたこの地の平和な時代。
高い知能、高い知性、感情に似たものを持っていた種族同士。
だから、分かり合い、命を紡ぐことができたんだ。
じゃぁ、今の中央を中心としたこの世界の理は?
それは、互いに干渉しないように定められた?
分からないことだらけ。
「考えても仕方ない。この先に進めば、その答えに少しだけ近付けると思う」
ソラノアの言いたいことは伝わった。
フィリエルと同じで、橋渡しとして、私たちを導こうとしてくれていた。
この地で育まれていた温かな時間。
それを思わせるように、私たちの間を優しい風がそっと吹き抜けた。
立ち止まってなんていられない。
世界は、歩み続ける。
――この先でも。
……誰のものでもない足音が、ひとつだけ後ろに残った気がした。




