第八十三話 均衡を破る声
少年は動かない。
敵意も、構えもない。
私の挑発にも応じず、相変わらずの冷静さと沈黙を保っている。
それでも――、目の前の少年が映す瞳の奥、その視線だけが引っかかる。
私たちを見ているようでいて、この場の様子を測っている目でもない。
……あの時と、同じだ。
ブッシュドノエルに足を踏み入れ、フィリエルと出会った時。
記憶の間から戻った直後の大書庫。
“ 導く者 ” がいる場にだけあった――あの黒い気配。
だから私は、それを “ 監視 ” だと判断した。
ただ――何を見ているのかまでは、まだ分からない。
けれど、ひとつだけ、違和感が噛み合った。
あの視線は、私たちを追っていないように感じる。
動きも、魔力も、会話も、誰一人として “ 個 ” を見ていない。
……そう見えて。
視線の芯だけが、わずかにずれている。
向いている先は、私たちじゃない。
間違いなくフィリエルに向いている。
でも、それは、狙いとは違う。
少年自身が気付いていないほどに薄い。
呼吸の癖みたいに、無意識に向く先、視界の隅にフィリエルが映り込んでしまうほど自然な動き。
その小さな動きに紛れて、気配の重心だけが、彼女のほうへ傾いている。
これは、見落としてはいけない種類のもの――。
丘に続く長い沈黙。
それを破るのは、時折吹き抜ける、肌を切り裂くような冷たい風。
何度それを繰り返したのかさえ、もはや分からない。
そんな重たい空気が漂うなか、風音に紛れるように、私は、密やかに意識を寄せた。
(……お姉ちゃん)
声に出さない言葉……。
(見えているよ)
即座に返る、柔らかい肯定。
視線の先のことだと理解がある。
(あの子、フィリエルを――)
(うん。 “ 見ている ” ね。理由までは、まだ分からないけれど)
その “ まだ ” の重みが、空気をさらに濃くしていた。
私たちが気付いていることに、少年は気付いていない。
少年が向いている先の意味を、私たちは知らない。
そんな両者がただ、同じ一点を挟んで立っている。
動く理由が見付からないまま、時間だけがそこに留まっていた。
「……」
小さく、息が詰まる音。
反射的に振り向く。
ニアだった。
唇を結び直している。
言ってはいけないと、自分で止めているような顔。
『黙ってて』と私が止めたままの言葉。
あの時、押さえ込んだものが、まだ喉に残っているに違いない。
視線が合う。
迷いと、戸惑いと、でも、それでも放っておけないという色。
ニアの喉が、小さく動いた。
「……ララ」
抑えていた時間の分だけ、重たいニアの言葉。
声も、震えていなかった。
「やっぱりさ……」
ニアが何かを確かめるように、少年を見る。
「やっぱり?」
今度は、遮らない。
ニアが話しやすいように、答えを促した。
「こいつ……、悪いヤツじゃない気がするんだ」
ニアは、それが一番大事なことみたいに、ただ繰り返した。
その一言で。
均衡の上に、最初の重みが落ちた。
私は、少年から視線を外さないまま、そっと息を吐いた。
「……そうかもしれない」
肯定も、否定もしない。
ただ、ニアの、仲間の言葉を信じたかった。
「でも、それでも――」
まだ、終わらない。
「何のために、ここにいるのかは別」
少年の視線が微かに泳いだ。
初めて見せた表情。
受け入れることを拒み続けていた相手に、やっと言葉が届いた。
そんな感覚が、静かに胸を満たした。
そのとき――、囁くように、誰かの声が零れた。
か細く、耳を澄まさなければ聞き取れない。
「……ソ……ラノア……」
小さく、弱々しい声。
フィリエル――彼女の声だ。
言葉の奥には、迷いも拒絶もなく、想いだけが載っていた。
沈黙を破る音。
少年の身体が、ほんのわずかに動く気配を感じる。
長く守られていた均衡の殻に、小さなひびが入った瞬間だった。
――そして少年が口を開いた。
「フィリエル……。すまない……」
波風のない、穏やかで優しい声。
怒りも恐怖もなく、ただ謝罪の響きだけが場に溶けていく。
均衡はもう、元には戻らない。
小さな衝撃が、静かに場を満たしていた。
お姉ちゃんも、ニアも――全身でその変化を感じていた。
やがて――フィリエルが、ゆっくり視線を上げる。
最初はぼんやりとした焦点。
次第に、確かな意志を帯びて――その瞳は、迷うことなく少年を捉えた。
「ソラノア……」
声はまだ弱いけれど、届いたことが、世界を震わせた。
長く閉ざされていた沈黙の壁を、一気に押し破った。
少年の身体が、初めてわずかに前傾する。
目を逸らせず、隠せず、ただ――フィリエルを見つめる。
緊張も疑いも、もう必要なかった。
均衡は完全に崩れた。
無意識の糸が結ばれた瞬間でもあった。
長く積み上げられた緊張は、意味を失い、丘の闇に沈み、消えた。
お姉ちゃんも、ニアも――全ての視線が二人を追い、静かにその変化を受け止めている。
それぞれの想いが、目に見えぬ糸のように交わり、ひとつの流れとなった。
世界が少しだけ息をついた瞬間。
そこには、信頼と共鳴だけが残っていた。
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