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夢幻の少女ラクラス  作者: 明帆
第三部 リエージュ編 - 第三章 舞い落ちるひとひら

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第八十三話 均衡を破る声

 少年は動かない。

 敵意も、構えもない。

 私の挑発にも応じず、相変わらずの冷静さと沈黙を保っている。


 それでも――、目の前の少年が映す瞳の奥、その視線だけが引っかかる。

 私たちを見ているようでいて、この場の様子を測っている目でもない。


 ……あの時と、同じだ。

 ブッシュドノエルに足を踏み入れ、フィリエルと出会った時。

 記憶の間から戻った直後の大書庫。


 “ 導く者 ” がいる場にだけあった――あの黒い気配。

 だから私は、それを “ 監視 ” だと判断した。


 ただ――何を見ているのかまでは、まだ分からない。


 けれど、ひとつだけ、違和感が噛み合った。

 あの視線は、私たちを追っていないように感じる。

 動きも、魔力も、会話も、誰一人として “ 個 ” を見ていない。


 ……そう見えて。

 視線の芯だけが、わずかにずれている。


 向いている先は、私たちじゃない。

 間違いなくフィリエルに向いている。


 でも、それは、狙いとは違う。

 少年自身が気付いていないほどに薄い。

 呼吸の癖みたいに、無意識に向く先、視界の隅にフィリエルが映り込んでしまうほど自然な動き。

 その小さな動きに紛れて、気配の重心だけが、彼女のほうへ傾いている。


 これは、()()()()()()()()()()種類のもの――。



 丘に続く長い沈黙。

 それを破るのは、時折吹き抜ける、肌を切り裂くような冷たい風。

 何度それを繰り返したのかさえ、もはや分からない。


 そんな重たい空気が漂うなか、風音に紛れるように、私は、密やかに意識を寄せた。


(……お姉ちゃん)


 声に出さない言葉……。


(見えているよ)


 即座に返る、柔らかい肯定。

 視線の先のことだと理解がある。


(あの子、フィリエルを――)


(うん。 “ 見ている ” ね。理由までは、まだ分からないけれど)


 その “ まだ ” の重みが、空気をさらに濃くしていた。


 私たちが気付いていることに、少年は気付いていない。

 少年が向いている先の意味を、私たちは知らない。

 そんな両者がただ、同じ一点を挟んで立っている。


 動く理由が見付からないまま、時間だけがそこに留まっていた。


「……」


 小さく、息が詰まる音。

 反射的に振り向く。


 ニアだった。


 唇を結び直している。

 言ってはいけないと、自分で止めているような顔。


『黙ってて』と私が止めたままの言葉。

 あの時、押さえ込んだものが、まだ喉に残っているに違いない。


 視線が合う。

 迷いと、戸惑いと、でも、それでも放っておけないという色。


 ニアの喉が、小さく動いた。


「……ララ」


 抑えていた時間の分だけ、重たいニアの言葉。

 声も、震えていなかった。


「やっぱりさ……」


 ニアが何かを確かめるように、少年を見る。


「やっぱり?」


 今度は、(サエギ)らない。

 ニアが話しやすいように、答えを促した。


「こいつ……、悪いヤツじゃない気がするんだ」


 ニアは、それが一番大事なことみたいに、ただ繰り返した。


 その一言で。

 均衡の上に、最初の重みが落ちた。


 私は、少年から視線を外さないまま、そっと息を吐いた。


「……そうかもしれない」


 肯定も、否定もしない。

 ただ、ニアの、仲間の言葉を信じたかった。


「でも、それでも――」


 まだ、終わらない。


「何のために、ここにいるのかは別」


 少年の視線が微かに泳いだ。

 初めて見せた表情。


 受け入れることを拒み続けていた相手に、やっと言葉が届いた。

 そんな感覚が、静かに胸を満たした。


 そのとき――、囁くように、誰かの声が零れた。

 か細く、耳を澄まさなければ聞き取れない。


「……ソ……ラノア……」


 小さく、弱々しい声。

 フィリエル――彼女の声だ。

 言葉の奥には、迷いも拒絶もなく、想いだけが載っていた。


 沈黙を破る音。

 少年の身体が、ほんのわずかに動く気配を感じる。


 長く守られていた()()の殻に、小さなひびが入った瞬間だった。

 ――そして少年が口を開いた。


「フィリエル……。すまない……」


 波風のない、穏やかで優しい声。

 怒りも恐怖もなく、ただ謝罪の響きだけが場に溶けていく。


 均衡はもう、元には戻らない。

 小さな衝撃が、静かに場を満たしていた。


 お姉ちゃんも、ニアも――全身でその変化を感じていた。


 やがて――フィリエルが、ゆっくり視線を上げる。

 最初はぼんやりとした焦点。

 次第に、確かな意志を帯びて――その瞳は、迷うことなく少年を捉えた。


「ソラノア……」


 声はまだ弱いけれど、届いたことが、世界を震わせた。

 長く閉ざされていた沈黙の壁を、一気に押し破った。


 少年の身体が、初めてわずかに前傾する。

 目を逸らせず、隠せず、ただ――フィリエルを見つめる。

 緊張も疑いも、もう必要なかった。


 均衡は完全に()()()

 無意識の糸が結ばれた瞬間でもあった。


 長く積み上げられた緊張は、意味を失い、丘の闇に沈み、消えた。


 お姉ちゃんも、ニアも――全ての視線が二人を追い、静かにその変化を受け止めている。


 それぞれの想いが、目に見えぬ糸のように交わり、ひとつの流れとなった。

 世界が少しだけ息をついた瞬間。


 そこには、()()()()だけが残っていた。


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小雪舞う静かな夜や揺れた儚さなど、文字だけでは伝わりにくい幻想的な空気を感じていただけましたら嬉しいです。

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