第八十一話 魂の還る場所
丘の斜面に出た、その瞬間。
視界は、ひらけた。
遮るものがなくなった。
……というより、景色そのものが、広大な闇の中で静かに還っていくようだった。
空が近く、地が低い。
森の影に閉じ込められていた夜が、いま、澄み渡る。
風が谷をなぞり、森を抜け、空へ舞う。
何も留めず、何も選ばず、ただ、導くように――世界をなぞる律動が、私たちの感情に波を立て、震えを落としていく。
無音と沈黙が重なり合う夜の台地。
ここでは、星々の光さえも、宙の彼方に霞んでしまうようだった。
広大な空を巨大な月が満たしていた。
――神秘的。
それ以外の言葉は、心からは浮かばなかった。
幻想に支配されたこの場所に、青白く冷たい月光が、こうこうと降り注ぐ。
闇の深さを際立たせる灯りは、同時に、ほんのりとした暖かさを帯びていた。
……綺麗。
私は――違う。
ここにいる全員の身体が、目の前の光景に、自由を奪われていた。
丘を登り切ったその瞬間――。
一面に咲く色とりどりの花々。
その周辺に、透き通るような純白の光彩が、静かに明滅している。
まるで覚えがあるかのような、懐かしさを感じる風と光の共演。
ここに集まる光も風も、過去の痛みも――すべてこの場所に戻っていくかのようだった。
これって、どこかで……。
「ララちゃん……。いこう――」
考えかけたその瞬間、お姉ちゃんの手が差し伸べられた。
私は、温かなその手を取って、奥の暗闇に一歩、また一歩と足を踏み出した。
岩肌の空洞を抜けると、遂に丘の頂上に辿り着く。
――そこは、断崖絶壁だった。
「おい、ここだけ……なんか雰囲気違くねぇか?」
ニアがつぶやく。
確かに、この場所だけが、世界のリズムを微かに変えている。
「ねぇ、ほら……目の前。古い石碑、文字が見える……?」
「え? な、何……?」
大樹から射した一条の光を閉じ込めた三つの天冥の証が、静かに共鳴を始める。
「気を付けろ!?」
ニアの言葉とは裏腹に、不思議と恐怖はなく……。
代わりに、世界の吐いた長いひと息――深い呼吸の息吹が聞こえた気がした。
「大丈夫だよ、ニア。落ち着いて……」
「うん……。ラクラスの言う通り。魂を視る者なら、きっと感じられる……はず」
「どういう意味だ? フィリエル……」
「この国の根に沈んでいた穢れ……封印の残響。フィリエルはそう伝えたはず」
共鳴した証はやがて一つに重なり――石碑の中に溶け込んでいく。
「文字……?」
森と渓谷で見た、あの断片と同じ。
そうじゃない。もっと前に――。
「わかった……!」
「「ララ(ちゃん)?」」
お姉ちゃんとニアの声が重なる。
そういうこと、だったんだ……。
「お姉ちゃん、ニア、この地の秩序を、思い出してみて」
「ララちゃん……、気付いたの……?」
そうだよ、お姉ちゃん。
境界を越えた先――。
嘆きの谷。願いの森。祈りの峡谷。
そして、この再生の丘。
ここは、死と再生が交互に巡る場所――私たちは浄化と穢れの循環を、肌で感じてきたんだ。
霧と月の白。魔術と精霊。
フィリエルとクラウディアの導き……。
リエージュが『魔石』と『記録』の国になった理由。
すべてが、この地の秩序として根付いていた。
「ずれているもの――その正体はフィリエルが言っていた『時間軸』……」
さすがお姉ちゃん。察しが良い。
「だから、『この世に存在していないもの』は文字に置き換えなんてできない」
「じゃぁ、目の前の石碑は……?」
ニアが興奮混じりに声を震わせた。
「ニア……、古代文字で唯一読めたものは?」
「あぁ……、そうか……!」
アーカ・ルミナで唯一置換できた文字。
それは、『古代ルナリア』の祈りの言葉。
“ 魂は光に還り、穢れは眠りへと帰す ”
魂を視るもの、クラウディアが求めていた答え。
すべてが、ここで繋がった。
届かなかった祈り、叶わなかった願い。
過去の傷みが、今、この地に残されたんだ……。
「残されたのは魂の痕跡……。この地は『記憶と魂の回廊』――」
お姉ちゃんの言葉に、私はフィリエルにそっと確認する。
「ねぇ、そうでしょ? フィリエル――」
「…………」
「……魂は光に還り、眠りの夜に残ったのは、この地の傷みだけ……」
小さな沈黙のあと、彼女が返した答え。
それは、確かに――私たちが求めていたものだった。
――空気がほどけ、層がほどけ、世界の境界が音も無く溶けていく。
柔らかく、暖かい大樹の光が広がる。
ずれていたリズムの最後の一欠片が、光の波に満たされていった――。
その光が差す中――。
ひとひらの白く淡い光を纏う花びらが、空からふわりと舞い降りてくる。
光はやがてニアの両手に集まり、そっと形を変え――。
「魔石……?」
魔石がニアの手に収まると同時に、この地を覆っていた異常な空気が、神聖で優しい気配に満ちていく。
やがて光は落ち着き、ニアの精霊核に導かれるように、淡い光だけが呼応する。
――間違いない。
光と闇が、ここで繋がったことを、胸の奥で静かに感じた。
フィリエルが言っていた古い光精霊の記録。
その伝承が甦った。そうとしか、思えなかった。
「なぁ……、なんか、落ち着くな――」
ニアは、不思議そうな顔で魔石を眺めている。
さっきまでの動揺は、跡形もなかった。
「ララちゃん、これはきっと精霊からの贈り物だよ」
ニアの穏やかな笑顔に、口元を弾ませて喜ぶお姉ちゃん。
「なぜ、そう思うの?」
「アーカ・ルミナで見た大樹の記憶。精霊が司っていたもの――感情と調和、そして生命」
「そう……だね。でも、どうして贈り物なの?」
「こんなに優しく、そっと空から現れて……ニアの穢れまで浄化してくれるのなら――贈り物でしかないよ。かつてこの地で温かな心を通わせていた人々の祈りや願いが、奇跡を起こしたんだ」
「そっか……。私も、そう信じたいな」
「フィリエル、この石って何?」
お姉ちゃんが聞く。
「『浄化の魔石』……この地の眠りを覚ます、始まりの鍵――」
「だから、ニアの穢れに呼応していたんだね」
「――そう。ラクラス……、石碑の文字も、読めるはず」
石碑に視線を向けると、文字が浮かび上がる。
“ 再生の時空が満ちるとき―― ”
“ 天、地、冥 ”
“ 眠れる刻印が未来を描く ”
「……眠れる刻印? 未来……?」
「ララ、この手の紋章……!?」
浄化の魔石を手にしたニアの手の甲に、光の刻印が浮かぶ。
「天……、精霊の刻印……。冥への橋渡し」
フィリエルはそれだけ言い、視線を丘の下の暗闇に落とした。
「なら、冥に向かうしかないな。フィリエル、案内よろしくな。おぃ、行くぞ! ララ。それと、そこの……、なんだ、メル……ト」
ニアが照れながら言う。
その姿に、お姉ちゃんの顔が、いつも以上に輝いていた。
思わず嬉しそうに笑みを弾ませる――そんな表情が、私の胸に深く刻まれた。
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