第八十話 祈りの余白
峡谷に沿って流れる風が、森の縁に残る葉を揺らしていた。
風は、下から吹き上げるのではない。
奥へと、引いていく。
夜の森は、さらに静かになっていた。
峡谷に接した、その縁で、風の声だけが透き通っている。
音があって、余計なものが削ぎ落されている。
風が、背中を押してくれる。
足を止めなければ、足取りは軽い。
左右の岩肌は近い。
包まれるほどではなく、突き放されもしない。
ただ前だけが、残されている。
ここでは、祈りが風に乗って、通り抜けていく。
そう感じるだけで、十分だった。
峡谷を抜けると、地面は緩やかに持ち上がっていた。
それでも、丘の影には、まだ遠い。
地形が変わると同時に、風音が小さくなる。
白い冷たさが、静けさを積もらせていった。
「ここ、少し開けてるね。今夜は、ここでいいかな?」
お姉ちゃんの声に、私たちは頷いた。
無理に言葉を足さなくても、同じことを考えていた。
火を起こす準備を始めたお姉ちゃんの背中。
小さな羽が揺れる、その後ろ姿をぼんやりと眺める。
――手際、いいな。
いつもと変わらないはずの姉の姿。
それだけで、私の心は溶けてしまう。
光よりも影のほうが濃い、小さな焚き火。
それは、ただ穏やかなひとときを囲むためのものだった。
今は、それでちょうどよかった。
配られた簡素な食事を前に、私はフィリエルを見る。
彼女は鞄を探り、包みを取り出していた。
「それ、また甘いやつ?」
ニアが言うと、フィリエルは少しだけこちらを見て、黙々とゴソゴソとしている。
その光景が、やけにこそばゆい。
味よりも、その愛らしさだけで頬が緩んでしまいそう――。
「……それで、足りる?」
お姉ちゃんが、やわらかく訊く。
「……? うん……」
「主食は?」
興味があって、聞いてみる。
「……あったら、食べる」
言葉の順序が、明らかにおかしい。
お姉ちゃんが、くすっと笑った。
「旅に出て、まず甘いもの確保する人、初めて見た」
「だって……、ここは森だから……?」
理由になっていない。
けれど、フィリエルは本気そのものだった。
理由を説明する様子もない。
そう言ってしまえば、それまでなのかもしれない。
それでも、焚き火の前で、甘いお菓子を小さくかじるその姿は、不思議と、ここに馴染んで見えた。
焚き火のそばで、それぞれが腰を下ろす。
会話は、それ以上続かなかった。
静かで、落ち着いていた。
――そのとき。
火の縁、影が一番濃くなる場所に、違和感があった。
黒い、というほどでもない。
けれど、光を拒むような魔力の質。
見ただけで分かる。
森で見たものと同じ……。
「……魔石?」
声に出した瞬間、それが “ いつもの ” ものではないと分かる。
――魔族の魔石。
重く、鈍く、意思を閉じ込めたような塊。
……の、はずだった。
でも、目の前にあるそれは――違う。
触れても、拒まれない。
冷たいのに、刺さらない。
皮膚ではなく、境界に触れている感触。
魔力も、渦を巻かない。
「浄化……?」
言葉にしたのは、ニアだった。
「……壊せたら、楽なんだけどね」
お姉ちゃんが、さらりと言う。
「そう、できたらいいのに……」
終わらせれば済む類のものではない。
そのことを、全員が分かっている。
私が返事をしても、
誰も、それ以上は言わなかった。
フィリエルが、魔石を見つめている。
ただ、知っている――という目。
「……ここは、祈りの峡谷、だったよね?」
唐突に、お姉ちゃんが確認する。
「そう……」
フィリエルが頷く。
「願いの森を抜けた先」
…………?
そっと、気配を感じた。
私は咄嗟に、掌を開く。
天冥の証に注がれた大樹から零れた一条の光。
あの時と同じ感覚。
――何て優しくて、何て温かいんだろう。
それは、白と黒の揺らぎだった。
焚き火の光を受けて、わずかに片鱗を覗かせる。
光とも、穢れとも、まだ言い切れない。
どちらも、消えてはいない。
ただ、置かれている場所が違うだけ。
微弱に灯った色が、細っていく。
「――待って。消えないで」
声を掛けた、その瞬間。
まるで、森そのものが受け取ったかのように、揺らぎは風にほどけ、静かに、森へ還っていった。
「少し、近付いたね……」
フィリエルの一言。
その意味を、分かりきれない自分がもどかしい。
いつの間にか、空が切れていた。
それでも世界は、まだ夜の中にある。
星も月も、雲に隠れてはいるが、消えてはいない。
闇は深く、底は測れない。
峡谷の向こうも、まだ見えない。
だから、私たちは、再び歩き出す。
夜が深まり、揺らぎが残した温度が冷え切る前に――。
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