第七十八話 風花
足が、地に戻った。
それに気付いたのは、橋を渡り切って、数歩進んでからだった。
谷に浮かんでいた嘆きの残痕は、まだ微かに肌を撫でている。
名もなく、音もなく、ほどけていく重たさ。
消えたわけじゃない。
ただ――解かれた。
音を立てずに深く、息を吸う。
冷たい空気が、ゆっくりと全身を満たしていくような感覚――。
それだけで、世界が戻り始めた気がした。
「……ここまでみたい」
穏やかで優しい声。
その一言が、張りつめていた空気を、そっと切り分けた。
音が戻ったんじゃない。
届く場所に、立っただけ。
私は、足元を見る。
距離がある。
前と、今とが、確かに繋がっている。
振り返っても、谷は見えない。
――越えられた。
見えないからこそ湧いたその実感。
その感触に、心の深い場所で固まっていた何かが、わずかに緩んだ。
お姉ちゃんは、少し前を歩いている。
触れられないけれど、離れていない。
まだ手の届く距離にいるお姉ちゃん。
その背中が、私を ” こちら側 ” に留めている。
フィリエルが、さらに先で足を止めていた。
それでも、振り返らない。
届かないその背中。測れない感情。深い瞳の底。
けれど――、その後ろ姿はもう、境界そのものではなかった。
戻ってきた。
そう思えたのは、音があったからでも、言葉があったからでもない。
誰かが隣にいて、誰かが前にいる。
それだけで、世界は、また歩ける場所になった。
私は、一歩、前に出る。
靴底が鳴らした足音。
ほんの小さなその音は、確かに私自身のものだった。
「……戻ってきた」
ただ、事実を置くみたいな声。
前を歩くお姉ちゃんが、振り返らずに言った。
「うん」
短く答えた自分の声が、思ったより近くで響いた。
距離が、ある。
ちゃんと、ある。
「さっきまで……」
言いかけて、言葉を探す。
上手く表現できなかった。
「うん。知ってたよ。無理に言わなくていいんだよ、ララちゃん」
お姉ちゃんは、歩調を緩めただけで、こちらを見ない。
それなのに伝わってくる、やわらかな温度。
風にふわりと舞う花みたいな空気が、私を包んでいく。
「言葉にしたら留まっていた嘆きに引きずられてしまいそうで――声が出せなくて……」
やっと声に出せたよ、お姉ちゃん……。
あの谷は、語る場所じゃない。
受け止めるべき場所だった。
残っていた重みが、少しずつ沈んでいく。
「……怖かった?」
背中越しに、問いが落ちてくる。
振り向こうか一瞬、迷ってから、私も振り返らずに頷いた。
見えなくても、伝わると分かっていた。
「怖かった。でも……」
足元を見つめてから続ける。
「一人じゃなかった」
その言葉は、嘘じゃない。
強がりでもない。
「そうだね」
お姉ちゃんの、変わらない声。
近くもなく、遠くもなく。
私が歩き続けられる、ちょうどいい距離。
前で足を止めていたフィリエルが、ようやく振り返った。
「フィリエル?」
誰よりも冷静に見える視線。
その視線には、迷いなく導く意志が宿っていた。
フィリエルは、ただ小さく頷くだけだった。
しばらくして、彼女はゆっくりと口を開いた。
「……時間は、まだ歪んでいる。完全に戻ったわけじゃない。でも――」
ここまで声にすると、フィリエルは一拍、間を置いた。
そして、導く者として、巫女として、私たちが一番必要としている言葉を選び取る。
「引き返す必要は、ない」
その言葉は、導く者としての力強い道標だった。
フィリエルは、一度だけ私たちを見渡す。
確かめるようでいて、探っている様子もない。
そして、言葉を継ぎ足した。
「……進もう」と。
説明はなかった。
でも、それだけで十分だった。
足を止める理由は、もうない。
一歩、踏み出そうとした瞬間――、背筋に寒気が走った。
ほんの一瞬。
痛みでも、違和感と呼ぶほどのものでもなかった。
息が、わずかに遅れて身体に戻ってきただけ。
……気のせい。
足裏の感触は確かだし、視界も揺れていない。
立ち止まってなんていられない。
私は、もう一度、前を見る。
そして、そのまま歩き出す。
少しずつ近付くフィリエルの背中。
お姉ちゃんとの距離も、変わらない。
音がある。距離がある。時間が流れている。
小さな違和感は、靴底に沈めて進んでしまおう。
今は、前に進むことだけが正しい。
何があっても、絶対に――迷わない。
誰かが隣にいる。
だから、世界を “ こちら側 ” に縫い留めていられるんだ。
私は、歩みを止めたりなんてしない。
戻らない音を背に、戻ってきた今を、踏みしめられるこの時は二度と訪れない。
そのことを誰よりも知っているのだから。
今回で、第ニ章は終了です。
次回より、第三章「舞い落ちるひとひら」が開始となります。
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