表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夢幻の少女ラクラス  作者: 明帆
第三部 リエージュ編 - 第ニ章 夜の底で浮かぶ風

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

91/95

第七十八話 風花

 足が、地に戻った。


 それに気付いたのは、橋を渡り切って、数歩進んでからだった。

 谷に浮かんでいた嘆きの残痕は、まだ微かに肌を撫でている。


 名もなく、音もなく、ほどけていく重たさ。

 消えたわけじゃない。

 ただ――解かれた。


 音を立てずに深く、息を吸う。

 冷たい空気が、ゆっくりと全身を満たしていくような感覚――。

 それだけで、世界が戻り始めた気がした。


「……ここまでみたい」


 穏やかで優しい声。

 その一言が、張りつめていた空気を、そっと切り分けた。


 音が戻ったんじゃない。

 届く場所に、立っただけ。


 私は、足元を見る。

 距離がある。

 前と、今とが、確かに繋がっている。


 振り返っても、谷は見えない。

 ――越えられた。


 見えないからこそ湧いたその実感。

 その感触に、心の深い場所で固まっていた何かが、わずかに緩んだ。


 お姉ちゃんは、少し前を歩いている。

 触れられないけれど、離れていない。

 まだ手の届く距離にいるお姉ちゃん。

 その背中が、私を ” こちら側 ” に留めている。


 フィリエルが、さらに先で足を止めていた。

 それでも、振り返らない。

 届かないその背中。測れない感情。深い瞳の底。


 けれど――、その後ろ姿はもう、境界そのものではなかった。


 ()()()()()


 そう思えたのは、音があったからでも、言葉があったからでもない。

 誰かが隣にいて、誰かが前にいる。

 それだけで、世界は、また歩ける場所になった。


 私は、一歩、前に出る。


 靴底が鳴らした足音。

 ほんの小さなその音は、確かに私自身のものだった。


「……戻ってきた」


 ただ、事実を置くみたいな声。

 前を歩くお姉ちゃんが、振り返らずに言った。


「うん」


 短く答えた自分の声が、思ったより近くで響いた。

 距離が、ある。

 ちゃんと、ある。


「さっきまで……」


 言いかけて、言葉を探す。

 上手く表現できなかった。


「うん。知ってたよ。無理に言わなくていいんだよ、ララちゃん」


 お姉ちゃんは、歩調を緩めただけで、こちらを見ない。

 それなのに伝わってくる、やわらかな温度。

 風にふわりと舞う花みたいな空気が、私を包んでいく。


「言葉にしたら留まっていた嘆きに引きずられてしまいそうで――声が出せなくて……」


 やっと声に出せたよ、お姉ちゃん……。


 あの谷は、語る場所じゃない。

 受け止めるべき場所だった。


 残っていた重みが、少しずつ沈んでいく。


「……怖かった?」


 背中越しに、問いが落ちてくる。

 振り向こうか一瞬、迷ってから、私も振り返らずに頷いた。

 見えなくても、伝わると分かっていた。


「怖かった。でも……」


 足元を見つめてから続ける。


「一人じゃなかった」


 その言葉は、嘘じゃない。

 強がりでもない。


「そうだね」


 お姉ちゃんの、変わらない声。

 近くもなく、遠くもなく。

 私が歩き続けられる、ちょうどいい距離。


 前で足を止めていたフィリエルが、ようやく振り返った。


「フィリエル?」


 誰よりも冷静に見える視線。

 その視線には、迷いなく導く意志が宿っていた。


 フィリエルは、ただ小さく頷くだけだった。

 しばらくして、彼女はゆっくりと口を開いた。


「……時間は、まだ歪んでいる。完全に戻ったわけじゃない。でも――」


 ここまで声にすると、フィリエルは一拍、間を置いた。

 そして、導く者として、巫女として、私たちが一番必要としている言葉を選び取る。


「引き返す必要は、ない」


 その言葉は、導く者としての力強い道標(ドウヒョウ)だった。


 フィリエルは、一度だけ私たちを見渡す。

 確かめるようでいて、探っている様子もない。

 そして、言葉を継ぎ足した。


「……進もう」と。


 説明はなかった。

 でも、それだけで十分だった。


 足を止める理由は、もうない。


 一歩、踏み出そうとした瞬間――、背筋に寒気が走った。


 ほんの一瞬。

 痛みでも、違和感と呼ぶほどのものでもなかった。

 息が、わずかに遅れて身体に戻ってきただけ。


 ……気のせい。

 足裏の感触は確かだし、視界も揺れていない。

 立ち止まってなんていられない。


 私は、もう一度、前を見る。

 そして、そのまま歩き出す。


 少しずつ近付くフィリエルの背中。

 お姉ちゃんとの距離も、変わらない。


 音がある。距離がある。時間が流れている。

 小さな違和感は、靴底に沈めて進んでしまおう。

 今は、前に進むことだけが正しい。


 何があっても、絶対に――迷わない。


 誰かが隣にいる。

 だから、世界を “ こちら側 ” に縫い留めていられるんだ。


 私は、歩みを止めたりなんてしない。


 戻らない音を背に、戻ってきた今を、踏みしめられるこの時は二度と訪れない。

 そのことを誰よりも知っているのだから。


今回で、第ニ章は終了です。

次回より、第三章「舞い落ちるひとひら」が開始となります。


「面白い」「続きを読みたい」「作者を応援したい」と思ってくださった方は、ブックマークと評価をいただけたら幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。


作品にふれていただき、ありがとうございます。

第一話の世界観を映像で切り取ったPVを公開しました。

小雪舞う静かな夜や揺れた儚さなど、文字だけでは伝わりにくい幻想的な空気を感じていただけましたら嬉しいです。

動きと音楽を通して、ラクラスの世界を少しでも追体験していただけます。

Xの夢幻の少女ラクラスPVのポストからご覧ください。

作品に興味を持っていただけましたら、「ブックマーク」や「ご感想」にて応援いただけますと幸いです。

― 新着の感想 ―
誰かが隣にいる安心感。だから前に進める ラクラスの強い意志が伝わりました。 次も楽しみです。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ