第七十七話 戻らない音
完全な静寂。
風の気配も、水のせせらぎも、街の遠音もない。
私たちは、フィリエルに続いた。
境界を越えたその一歩。
足裏に伝わる感触が、明らかに違った。
地面は、確かにそこにある。
それなのに、踏みしめた反響だけが存在していない。
振り返ると、街はまだ見えていた。
けれど、ここははっきりと――『向こう側』だ。
何……これ?
霧が、急に晴れた。
代わりに、濃い影が落ちる。
大樹の枝葉が空を覆い、魔力の流れが光を遮っている。
昼間だというのに、道は思った以上に暗い。
空は見えず、視界は自然と前方へ絞られていく。
進むにつれて、地形が変わった。
足元の土は次第に削られ、道は細く、硬くなっていく。
やがて視界が開け――同時に、息を呑んだ。
大樹の根元から裂けるように開いた、深い断絶。
底の見えない谷が、眼前に広がっている。
地の奥から立ち上るのは、重たく冷たい空気だった。
谷の上に、延びていた細い道。
橋――と呼ぶには心許ない。
絡み合った大樹の根と、淡く残る光が、その形を保っていた。
人の手で造られたものではない。
足を置いた瞬間、地面の感触が曖昧になる。
硬いのか、柔らかいのか、分からない。
ただ、支えられているという事実だけが、遅れて伝わってきた。
ここは、生きている者が長く留まってはいけない。
私の感覚が、そう告げている。
全身に、じわりと迫る沈み。
外の世界との繋がりが、少しずつ薄れていく。
悲しみとも、恐怖とも違う。
もっと静かで、逃げ場のない重さ。
――嘆き。
抱えたままになってしまった誰かの想い。
祈りきれなかった願い。声にならなかった何か。
それらが谷の底に落ちきれず、ここに溜まっている。
そう思った瞬間、全身に冷たさが駆け巡った。
ここから先は、境界の内側。
祈りが形を変え、取り残された想いだけが、ここに在るのかもしれない。
谷が、それを拒まなかった。
ただ受け止めてしまっただけ。
この道は、壊れそうで――それでも、まだ保たれている。
誰かが、ここを越えた。
誰かが、戻れなかった。
その事実だけが、谷の奥に沈んでいる。
私は、ひと呼吸置いた。
それから、一歩、また一歩。
足元の感覚を確かめながら慎重に歩みを進めた。
橋を進むにつれ、足元の感覚はさらに曖昧になっていった。
一本道のはずなのに、自分が前に進んでいるのか、それとも留まっているのか分からない。
ここに来て最初から欠け落ちていた『距離』という概念が不安を掻き立てていく。
視線を逸らしただけで身体の軸が揺れ、心細さも増すばかり――。
橋の中央を過ぎた頃、気配が変わった。
それまで谷全体に広がっていた沈黙。
それが、一方向から流れ込むように集まり始めた。
音ではない。声でもない。
ただ向きがあるだけ。
谷の奥、大樹の根が絡み合う、さらに深い影の方から、感情だけが押し寄せてくる。
後悔。諦め。
祈りきれなかった想い。
どれも言葉になる直前で途切れ、そのままここに落ち続けている。
目の前の光景に、胸が締め付けられた。
――悲しい、わけじゃない。
それでも、息が詰まる。
心が、少しずつ下へ引かれていく。
どこからか、誰かの後悔に触れた気がした。
振り払おうとしても、手応えがない。
感覚だけが、皮膚の内側に残る。
背後を振り返ると、街は、もう見えなかった。
『もう』?
それとも、最初から――。
考えたら迷うだけ。
今は、進むしかない。
振り向きざま、少し後ろを歩くニアが視界に入った。
視線は足元に落ち、肩がわずかに強張っている。
怯えていても、足は引いていない。
私のすぐ隣には、お姉ちゃんがいる。
視界が変わっても、温もりを感じられる距離――。
表情は見えないけれど、歩幅も呼吸も、私とほとんど変わらない。
それだけで、安心する。
ニアにも声をかけてこの気持ちを分け合いたい。
でも、ここで言葉を発したら、この場に残された想いの中に取り込まれてしまいそう。
そんな気がして声が出せなかった。
足を止めると、感覚が追い付いてくる。
進んでいる間は感じなかったものが、立ち止まった途端、形を持って迫ってくる。
私は、無意識に前を向いた。
止まらない方がいい。
この場所では、それだけが、はっきりしている。
前に向き直ると、フィリエルが、既に一歩先にいる。
姿勢は変わらない。
彼女は一度たりとも、後ろを振り返っていない。
視線を落とすと、橋の根元に淡い光が走る。
足元を確かめるように、祈りの痕跡が微かに応えた。
「……ここは?」
ここまでの沈黙を破ったのは、ニアだった。
フィリエルが、小さく頷く。
「……『嘆きの谷』と呼ばれる場所」
彼女はそれしか言わなかった。
言葉はすぐに静寂に溶けていった。
音は、戻らない。
――静か、なのではない。
音が、この場所に届いていない。
前方で、フィリエルがわずかに歩みを緩めた。
その先に、橋の終わりが、見え始めていた。
谷の向こう側。
影の密度が、わずかに変わっている。
重さは消えない。
けれど、その質が違う。
沈殿ではなく、静まりに近い気配。
私は、胸の奥に溜まった息を、そっと吐き出した。




