第七十六話 大樹が零す色
別の日、街には霧が戻っていた。
それだけで、少しだけ安心してしまいそうになる。
見慣れた景色が戻った――ただそれだけのはずなのに。
それでも、目に入ってしまう場所があった。
「この先……だよな?」
確認というより確信に近いニアの低い声。
答えの分かった問いに頷くだけで、誰も言葉を返さない。
視線が街の奥――大樹の根元の方へ向かう。
その先に何があるか、言葉にできる者はいない。
けれど、歩を止める理由もなかった。
フィリエルは前を見据えたまま、淡々と歩く。
そこには迷いも、躊躇も感じなかった。
あるのは、すでに決められている順序だけなのだろう。
「いずれ分かる。大樹の麓に続く道は、普段は巫女でさえ立ち入らない。でも、今日は違う……」
何故そうなのかについては、語られない。
それでも、その声には揺らぎはなかった。
感情を挟まない声音が、かえってこの場所の重みを際立たせていた。
怖さがないわけじゃない。
でも、それ以上に――確かめたい、という感覚のほうが勝っていた。
足は自然に前へ出る。
三人の間に、言葉の代わりに同じ気配が流れていく。
街路を抜けるたび、水面に映る光がわずかに揺れた。
いつもと同じはずの魔力の循環が、どこか拍を外している。
見えない何かが、足元から視界の端まで、私達の存在を確かめるように触れてくる。
私は無意識に、指先を握り込んでいた。
「……今日も、静かだね」
私が呟くと、ニアが小さく反応した。
「ララちゃん、やっぱり変な感じ……でも、行くしかないよね」
そうだ、行くしかない。
お姉ちゃんの言葉に、揺るぎのない意思を確かめる。
ニアが一瞬立ち止まり、振り返った。
「戻れる……よな?」
不安を隠しきれない声色。
「うん……。大丈夫だよ、ニア。絶対に戻れる」
「弱気になっていたら、物事は進まないでしょ? 少しはこの私を見習って前だけを見ていないと」
「そうだね。まだ核心に迫る一歩だって踏み出せていない。始まってもいないうちから迷っていたら――世界は変わらない」
お姉ちゃんは変わらずいつも通り。
自信満々に振舞う仕草も可愛くて――。
その言葉の一つひとつが、皆の前では出せない私の弱さ、その奥に沈めていた迷いまで、静かにほどいてくれる。
だから私は――ニアに、迷いのない声で言えるんだ。
「あぁ……、そうだよ、な。フィリエルだっているもんな」
ニア、戻れるよ。
私達ならきっと大丈夫。
でも、今は進むべき時。
だからまだ、戻らない。
足を前に踏み出すたび、街の音が少しずつ遠ざかっていく。
代わりに、目の前にある大樹の影だけが、確かな存在感を増して浮かび上がる。
街の規則正しい流れの外側を撫でる、ほんの少しだけ違う気配。
霧でも、闇でも、光でもない――けれど、確かに在るもの。
目を凝らしても像は結ばれない。
それでも、心が先にそれを認めてしまう。
「……見える?」
ニアが手を前に出す。
私は無言で、ただ首を横に振った。
言葉にはできない。
ただ、そこに “ 何か ” があることを三人とも感じている。
大樹の根元に近付くにつれ、霧は濃さを増し、空気は厚みを帯びていく。
肌に触れる風の感触も変わり、逃げ場を探すように、重たく全身に絡みついた。
遠くの街路から届く音は曖昧になり、ここだけが、世界と小さな距離を置いたような感覚が生まれる。
霧が晴れたあの日に感じた少しだけ狂ったリズム。
宝石城の夜に見たニアの影のずれ。
きっと――、それらは繋がっている。
世界が、ほんのわずかにずれている。
空っぽの器を巡る魔力が示す、その意味。
理由は分からない。
けれど、その感覚には覚えがある。
――ここから先、何が待っているかは分からない。
それでも、足は止まらない。
影の向こう、歪に振れる道の先へ。
私たちは一歩、また一歩、静かに踏み出していった。
街路の舗装が途切れ、大樹の根が地表に露出する辺り。
霧が薄く溜まり、空気の密度だけがわずかに変わった場所。
そこでフィリエルが、歩みを止めた。
彼女は外套の内側に手を入れ、一枚の札を取り出す。
薄く、古びた紙片。そこに記されている文字は、私には読めない。
「確認……」
それだけ告げて、フィリエルが大樹の根元へ札をかざす。
霧の中で、札の縁が淡く光を放ち始める。
次の瞬間、彼女の口から零れた言葉は――。
私達が普段使うどの言語とも違っていた。
短く、低い音。
意味を伝えるためではなく、この地に受け入れられるための響き。
言葉が空気に沈み込むと同時に、霧の流れが一拍だけ遅れる。
「……温かくて、優しい光……」
大樹から一条の光が射した。
魔力に溶けていた水晶片――『天冥の証』が、その光に導かれて形を宿し、宙に浮かぶ。
煌めくそれは、とても綺麗で――。
あまりにも澄みすぎていて、胸の奥が静かに痛んだ。
まるで、大樹に込められた人々の純粋な祈りが、そのまま形になってしまったかのような色。
だからこそ、感情に灯ったこの儚い気持ち。
その痛みごと受け止めて、この地で幾度も祈りが捧げられてきたのだと分かってしまう。
「……認証された。これで先に進める」
フィリエルの声が戻る。
その声音はいつもと変わらない。
変わらないからこそ、境界を越えたのだと理解してしまう。
彼女が一歩、前に出る。
その足先が霧の層を抜けた瞬間――。
世界から、音が消えた。
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