第七十五話 記と導きの境界
朝の空は、やけに高かった。
いつもなら霧で薄っすらしか視界がない街。
それが今日は、遠くまで続いている。
それでもブッシュドノエルの街路は、いつもと変わらない。
同じ建物が並び、同じ水路が静かに流れている。
音も、気配も、いつもと同じ。
違うのは、いつもより街全体が一歩引いた位置にあるように感じること。
規則正しく刻まれている街のリズムがどこかぎこちない。
それなのに、むしろ世界はひどく整って見える。
踏み出すたびに一拍遅れて伝わる地面の感覚。
この違和感に、足元だけが妙に落ち着かない。
目に見えないのに伝わる気配。
その事実が一番不安だった。
霧がない空気は、思っていたよりも軽い。
街を吹き抜ける風はただ冷たく澄んでいる。
ただ、そこに混じるわずかな “ 重さ ” が不穏の影をちらつかせていた。
「……今日は、軽い日だね」
誰かがそう言った。
それだけで、この景色は受け入れられてしまいそう――。
洗濯物を干す人。
露店の準備をする人。
いつもより足取りの速い朝。
誰も、不思議だとは思っていない。
足元に視線を落とすと、石畳の隙間を流れる水があった。
霧がなくても、清らかな水は変わらずここにある。
伝承に語られる、大樹の根元から湧く清水。
万病を癒すとされるその恵みは、魔力の循環の流れと共にこの地に確かに根付いている。
「……静かすぎだな」
ニアが、ぽつりと呟く。
その不安混じりの声が、やけに心をざわつかせる。
音が消えたわけでも、人影が絶えたわけでもない。
それなのに、街全体が息を潜めているように感じられる。
「……ニア?」
私が呼びかけると、彼女は少し遅れて顔を上げた。
「ううん。平気……。でもな……」
「ニアの感覚が珍しく私に近付いた気がする。ララちゃん、私も……」
私が感じていた違和感。
二人も気付いていたみたい――。
言葉を探すように、ニアとお姉ちゃんの視線が街の奥へ向く。
霧があれば、意識に引っかからなかったはずの場所。
大樹の根元。
街の外れ。
境と呼ばれていたはずの方向。
「あそこ……前から、見えてたか?」
ニアの言葉にお姉ちゃんも小さく頷いている。
それでも、その意味を言葉にできる者はいなかった。
クラウディアも何も言わず、ただ空を見上げていた。
透明な光の中で、その横顔だけが静かに影を落としている。
「霧はね、なくなったわけじゃない」
そう独り言のように零したクラウディアが続ける。
「今は、空から水が降りていないだけ」
それ以上は語られなかった。
でも私は、なぜか思ってしまった。
今日見えているものは、本来見せられる予定のなかったものなんだと。
霧は、ただ見えないだけ。
水も魔力も、消えていない。
今もこの街を巡っている。
「循環は続いているわ。ただ……」
クラウディアの声は低く、落ち着いている。
その一言に、空気が微かに揺れた。
「ただ?」
「フィリエルも言っていたでしょ? 街を巡る流れの、いちばん外側で……ほんの小さな揺れが出ているって」
「外側……?」
「ええ。街を守ってきた仕組みの “ 内側 ” ではない場所」
クラウディアは足元の水溜まりを見つめる。
そこに映る空は綺麗で、どこか深い。
「あの方向……。だから、外来者に厳しいってフィリエルが……」
「そうよ。まだ、異常とまでは言えないけれど……見過ごしていい兆しでもないわ」
“ 記すべき揺れ ” と、“ 導くべき兆し ” の境界を、彼女は誰よりも知っている。
だから、クラウディアはそれ以上踏み込まなかったのだ。
胸の奥で、微かな引きが生まれた。
理由は分からない。
それでも――。
街が、ほんの少しだけ “ ずれて ” 見えた。
霧は、晴れていた。
偶然だとは、思えなかった。
まだ名を持たないそれが、街の中に、確かに口を開けている。
その場で言葉を発した者はいなかった。
言葉にすれば、この一瞬が確定してしまう気がしたから。
霧が戻れば、きっと見えなくなる。
でも、触れた事実だけは消えない。
それを知ってしまった沈黙の中で静かに思う。
――もう、ここはただの街じゃない。
私はそう感じながら、天冥の樹から目を離せずにいた。
でも――。
この“ずれ”のどこかで、静かに応えている存在がいる。
それはまだ、私の中で定まらないままだった。
月の理が示す、とても古い “ 流れ ” 。
――それに、触れてしまったような気がしていた。
この違和感は、何かの始まりなのだと思う。
影の向こうに、道が続いている気がした。




