第六十九話 天冥の理
人々が寝静まった深夜に襲ってくる孤独。
胸の奥が軋み、足元の感覚が曖昧になるほど異常な違和感。
……まるで迷宮の深層に落とされたかのようだった。
ここでは存在感そのものが、霧に溶かされていく。
風も、人の気配も、すべてが封じ込められた沈黙。
足を踏み入れた瞬間、この場所を漂う空気が変わった。
肌をかすめる微細な粒子――霧とも光ともつかない、正体不明の何か。
それは記憶の断片のように揺らめいていた。
触れた指先。ほのかな熱。
胸の奥の魔力が小さく反応した。
「……感じる?」
お姉ちゃんが囁く。
「うん。まるで、想い出の残響……みたい」
壁一面に並ぶ古書群は、ただの紙束ではない。
触れもしないのに、頁の魔力が空気を震わせていた。
魔力を帯びた紙片が浮遊し、ゆっくり棚へと戻っていく。
その一連の動きが、まるで意志を持っているようだった。
通路の奥には、先ほど見かけた女性が立っていた。
この閉鎖的な空間で唯一自然に振舞える存在――。
「ようこそ、アーカ・ルミナへ。私は司書クラウディア。この書庫の管理者よ」
「管理者……?」
「ええ。知の守り手を担っているの。あなたたちの来訪は古書の導き。森の結界に走った淀み……、微弱な震動から感じていたわ」
彼女は淡々とそう告げると、私たちを案内するように手を差し伸べた。
大広間に足を踏み入れると、巨大な魔導円が刻まれていた。
円の中心には古びた魔導回路――天地を貫く光を集める水晶の柱があり、その中で霧が緩やかに渦を巻いている。
「この魔導回路は権限がなければ機能しないのよ」
クラウディアが説明する。
「ここに眠る古書も含めて厳重な管理体制が敷かれているわ。外来者による干渉は不可能……」
確かにこんな代物を簡単に扱えたら、それは大問題だ。
「これが、『天冥の理』の根源……」
「ええ。“ 天冥零珠 ” と名付けられた古代技術の結晶よ」
水晶の柱から微かな光が揺らめき、霧がそっと漂う。
クラウディアが続ける。
「清らかで純真な魔力を循環させ、この地に散らばった小さな穢れの欠片さえ、霧から零れる雫が包み、静かに還していくの」
なんて壮大な仕組みだろう……。
「この水晶は、どこまで伸びているんだろう?」
お姉ちゃんが問いかける。
「地下では冥に続く大樹の根と繋がり、地上ではこの大書庫と同じ高さまで。天に伸びる大樹から降り注ぐ魔力密度が一番濃くなる高さに設計されているわ」
頂きは天を貫き、根を冥に張り巡らせるという伝承。
それが真実と知った瞬間、背筋にゾクッとした冷たい感覚が走った。
世界には、想像を超えた未知との出会いがある。
人智で測れない――それは実に、面白い。
「考えたヤツは凄いな……。ところで、クラウディアだっけ?」
「そうよ。あなたは?」
「あぁ、あたしはニア。金色の髪がラクラスで、こっちがメルト。聞いていいか?」
珍しく、疑問を口にするニア。
下手なことを言わないといいけれど……。
(ニア。クラウディアは敵か味方か分からない。だから、余計なことを言うなよ)
(お、おぅ……)
私の心配を受けて、お姉ちゃんがニアに釘を刺す。
少し不安だ。
「そう……あなたたちが。どうぞ」
ニアの問いに、クラウディアは静かに頷いた。
その返事は、まるで私たちを知っていたかのようにも感じられた。
「私たちを知っているの?」
ニアの質問を遮るように、お姉ちゃんがクラウディアに確認する。
「ティラミスのストロー博士を通じてね。フィリエルがあなたたちを導いたことから、大書庫の案内をしても問題ないと判断したの」
「博士にはまたお世話になったね……。ニア、ごめんね。それでなんだっけ?」
ニアは私の方を見て頷くと、改めてクラウディアに話しかけた。
「さっき話していた『清らかで純真な魔力を循環させる仕組』っていうのをもっと詳しく教えてくれないか?」
ニアにしては、まともな質問だ。
「……天冥の大樹は穢れが持つ負の性質を取り除いた純粋な汚れだけを吸って清らかな水を生み出しているの。生み出した水は根から湧き出すと同時に、霧となって天から降り注いでいるわ」
「絶えず降り注ぐから、霧が晴れないのか?」
「そうではないわ。霧は、大気中の『水分量の調節』で取り除ける」
少し間を置き、ニアが考えを巡らせるように続ける。
「じゃぁ、どうしてそうしないんだ?」
「この地を覆う水分は天冥の大樹そのもの。純粋な汚れを穢れから分離するには、霧状である方が理に適っているというだけ」
「なるほど……でも、純粋な汚れを取り除いたあとの穢れの残りはどうなるんだ?」
「穢れは、魔力や祈り、魂の軌跡などが生み出す『負の情』も含んでいる。まず霧を通じて分析し、必要なら次に解析を行う。その結果、純粋な汚れだけが分離され、残りは地中へと排出されるわ」
自然の意思の一部を『人が制御』している――。
そんな印象を受け、私はクラウディアに尋ねた。
「それは……人々が思う穢れと、この仕組みが作用する穢れが必ずしも一致していないということ?」
ひと呼吸してクラウディアが答える。
「ご明察。大樹は事象の記憶を蓄積して穢れを効率的に処理する。その記録を古代魔術で読み取ることも司書の役目。……もっとも、私は書庫と記録の管理を担う者にすぎないけれど……」
私は水晶に集まった光に近付いた。
柱の中で霧が揺らめき、微かに人の声のような響きを発している。
言葉にならない祈りの断片。
あるいは、消えた誰かの記憶の欠片。
ニアが小さく身を震わせた。
霧の中から微かな反応が返ってくる。
それは彼女の内に潜む穢れの残滓――。
触れてはならないはずのもの。
それが光の中で、不穏な影を揺らした。
「……ニア?」
声をかけると、彼女は首を振り、すぐに表情を戻す。
けれどその一瞬、私は確かに感じた。
この書庫の零珠が、彼女の存在に反応している――と。
「あなたたちは、何を探しているの?」
クラウディアの問いかけに、私は言葉を選びながら答えた。
「……穢れの根。精霊を蝕む原因を知りたい」
クラウディアの深く吸い込まれそうな闇色の瞳がわずかに細まる。
「――それを知れば、戻れなくなるかもしれない。それでも知りたい?」
「……構わない。ここで止まれないから」
私の答えに、彼女はしばらく沈黙した。
そしてゆっくりと、天冥に記された記憶の光に手をかざした。
「なら、あなたたちを『記録の間』へ案内するわ。けれど覚えておいて。ここに記された知識は、希望でもあり――同時に、深い絶望でもあるの」
霧がふたたび流れ始め、足元の石が光を帯びた。
覚悟を確かめるように、空気が静まる。
奥の扉がそっと開いた。
その奥――薄い光の帳の向こうに、古の記録が眠っている。
私は深く息を吸い、光の中へと歩み出した。




