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夢幻の少女ラクラス  作者: 明帆
第二部 ティラミス編 - 第六章 風音に薫る雷花
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第六十五話 赤の微笑に佇む青

 夜の紫が、静かに研究室を満たしていく。

 窓の外では夕暮れの余韻(ヨイン)を映す真っ赤な色が、夜の青みがかった黒と混じり合い、柔らかな紫色を作り出していた。

 その色は、冷酷と温厚が溶け合う人の心のようで、音も無く胸の奥を圧迫する。

 わずかに漂う魔素の振動だけが、この空間の重たさを告げている。


 私は窓辺に立ち、これから先に待つニアの穢れの残滓の行方を思った。

 思い返せば、記憶と魂、生命を結ぶ輪廻(リンネ)は、支配の一族――精霊族と魔族の核、そして、ひとつの赤い宝石から始まっていた……。


 机の横に、ひとりの少女が静かに佇んでいる。胸に赤い宝石を宿したブローチを抱く小柄な女の子――ベリー。微笑む顔は穏やかで、透き通るように優しい。

 その無垢な笑顔を見つめるたび、幸福という言葉が形をもつように思えた。でも、それと同時に、胸の奥を締め付ける重苦しさが抜けない。

 幸せに見えるその姿こそ、もっとも残酷な真実を語っているのだから。


 脳裏に焼き付いて離れない声がある。

 ストロー博士の低く沈んだ声。心を(エグ)り、冷たく突き刺さる響き。

 あのとき彼女が告げたベリーの真実は、今も私の耳の奥で震えている。

 冷たい現実、科学者の深い闇。裏の顔……。


 ――ベリーの胸元の赤い宝石は、偶然に生まれた奇跡ではなく、虚継(ウツロツ)ぎの(スベ)――禁忌の副産物。


 甦る博士の言葉。

 焔炎紅石(ホムラコウセキ)に宿った幸福な記憶――日々の感情、愛や喜び、悲しみの断片。

 それらを人工生命素体へと封じ込めた末に生まれたのが、このベリーという存在なのだと。


 博士は黒革に覆われた書物を手で押さえ、淡々と語った。

 その指先が頁を撫でるたび、鈍く赤黒い光が反射し、視界を焼いた。まるで血潮を固めた宝石のように。

 そこから漂う気配は吐き気を誘うほど重く、命を歪めた痕跡(コンセキ)そのものだった――。


「これは、命を救うためのものではない。助けようとしても、結局は壊すだけだ」


 博士の声は深い闇を湛えていた。

 研究者としての冷徹さ、倫理を踏み越えた者の言葉。

 そこに憐憫(レンビン)悔恨(カイコン)もなく、ただ確信だけがあった。


 虚継(ウツロツ)ぎ――魂を器から抜き取り、疑似核に押し込む技術。完全な移植など存在せず、魂は裂け、人格も記憶も歪む。その唯一の成功例が、今、目の前にいるベリーだった……。


 私は胸の奥で、小さく息を呑んだ。


 静かに座るベリーの姿は、幸せそのものに見える。

 でも、その小さな胸に宿る核は、幾千もの失われた魂の断末魔であり、無数の命を踏み台にして生まれた結晶だった。

 ひとつの笑顔が、『世界の残酷さ』を凝縮している。


 博士はさらに語る。


「かつて人形型魔導素体を用いた実験では、器はすぐに砕け、魂は裂け、残ったのは歪んだ残骸(ザンガイ)にすぎなかった……。だが、核を持ち感情のようなものを示す存在――すなわち『悪魔』を素体として用いたとき、虚継ぎは初めて『形』となった……」


 私は、言葉を失った。


 ()()()()――強大な力を宿す恐怖の使者。

 恐怖や憎悪、抗えぬ怒り。

 

 博士は、その力を実験の器にしたと淡々と告げた。

 事実をただ並べる声の冷たさが、部屋の重たい空気を深い水底へと沈ませた。


 私の記憶に、あの日の光景が浮かぶ。

 故郷を襲った赤い悪魔――狂気に染まり、心を壊した姿。

 魔核が乱れた魔力を吐き出し、私の前で感情の影を刻み込んだ存在。


 あの時の恐怖を思えば、博士の言葉の意味を理解することは容易だった。

 魔族の核を素体にする。それがいかに残酷かは、想像するまでもない。


 人が魔族を恐れるように、魔族のなかにも人を恐れるものがいるのかもしれない。

 想像にすぎない私の思い。それは未来、魔族との戦いで脳裏を(ヨギ)る記憶として刻まれたのかもしれない――。


「この術は、命を紡ぐのではない。これは、……壊すための秘術だ」


 ストロー博士のその一言が、刃となって空気を裂き、沈黙すら凍らせる。

 ベリーの笑顔も、その声の重さに押し潰されるように見えた。

 幸福と絶望が同じ器に詰め込まれているという矛盾が、あまりに鮮烈(センレツ)だった。


 胸の赤い宝石は幸せの結晶。

 その一方で、この存在もまた虚継(ウツロツ)ぎの副産物。


 光は祝福のように煌めいている。

 けれど、その奥には数えきれない犠牲の(ウメ)きが眠っている。


 人の手で生み出された禁忌の生。

 世界にひとつしかない孤独な存在。

 私は、その真実から目を逸らせなかった。


 思考の底で、過去に見てきた禁忌が回想される――。


 ソウルレコード。レイ・スロストの研究。生命操作の残滓。

 どれもが破滅を(ハラ)む歪んだ秘術。それでも誰かが求めた道。

 そして今、ベリーの存在がそれらを繋ぎ合わせる。


 断ち切れぬ鎖のように、命も記憶も核も、ひとつの結末へと収束していく。


 全部繋がっている。

 命、記憶、核……その全ては密やかに、それでも、世界の根幹に確かに刻まれている。


 紫の空は、やがて夜の黒に溶けていった。

 光と闇の境界に、わずかな赤みを残して、世界は静かに呼吸をしている。


 明と暗が溶け合う世界で刻まれる命の鼓動(コドウ)追憶(ツイオク)――赤い核を抱くベリーの微笑み。

 その純粋な笑顔に囚われた私の心は、夜が運ぶ静かな風のなかでただ揺れていた。


 幸福が刻まれた容姿。それは、同時に無数の命の墓標(ボヒョウ)でもあった。

 重すぎる真実を抱えながら、なお穏やかに微笑むその表情が、何よりも残酷で、美しかった。


 全ては、次に向かう道のため。

 ニアの穢れた残滓を浄化し、核を持つ存在の均衡(キンコウ)を取り戻す。

 私達の物語の続きが、静かに始まろうとしている。


 机の上で書物がわずかに(キシ)む音。ページの端が月が輝く空に向かって優しくふれた。


 私は深く息を吐き出し、言葉にならない想いを胸の奥に沈める。その願いはあまりにも無力で、現実の前では折れそうになる。


 それでも、これから待つ穢れた魂の浄化に向かい、重たい足を、戸惑う心を、一歩前へと踏み出す。


 赤い宝石が微かに光を反射し、紫に沈む研究室の闇と混ざり合った。

 その輝きは奇跡であり、同時に無数の失われた魂の証でもある。


 失われた命はもう戻らない。

 救えぬ魂は、裂かれたまま……、永遠に残る。


 それでも、私達は、未来を紡ぐその一頁(ページ)をめくる。

 幸福と禁忌を抱いたまま、絶望を超える強さを胸に刻みながら――。


今回で、第二部『ティラミス編』の本編は完結です。

物語は、第三部『リエージュ編』へと続いていきます。


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