第六十五話 赤の微笑に佇む青
夜の紫が、静かに研究室を満たしていく。
窓の外では夕暮れの余韻を映す真っ赤な色が、夜の青みがかった黒と混じり合い、柔らかな紫色を作り出していた。
その色は、冷酷と温厚が溶け合う人の心のようで、音も無く胸の奥を圧迫する。
わずかに漂う魔素の振動だけが、この空間の重たさを告げている。
私は窓辺に立ち、これから先に待つニアの穢れの残滓の行方を思った。
思い返せば、記憶と魂、生命を結ぶ輪廻は、支配の一族――精霊族と魔族の核、そして、ひとつの赤い宝石から始まっていた……。
机の横に、ひとりの少女が静かに佇んでいる。胸に赤い宝石を宿したブローチを抱く小柄な女の子――ベリー。微笑む顔は穏やかで、透き通るように優しい。
その無垢な笑顔を見つめるたび、幸福という言葉が形をもつように思えた。でも、それと同時に、胸の奥を締め付ける重苦しさが抜けない。
幸せに見えるその姿こそ、もっとも残酷な真実を語っているのだから。
脳裏に焼き付いて離れない声がある。
ストロー博士の低く沈んだ声。心を抉り、冷たく突き刺さる響き。
あのとき彼女が告げたベリーの真実は、今も私の耳の奥で震えている。
冷たい現実、科学者の深い闇。裏の顔……。
――ベリーの胸元の赤い宝石は、偶然に生まれた奇跡ではなく、虚継ぎの術――禁忌の副産物。
甦る博士の言葉。
焔炎紅石に宿った幸福な記憶――日々の感情、愛や喜び、悲しみの断片。
それらを人工生命素体へと封じ込めた末に生まれたのが、このベリーという存在なのだと。
博士は黒革に覆われた書物を手で押さえ、淡々と語った。
その指先が頁を撫でるたび、鈍く赤黒い光が反射し、視界を焼いた。まるで血潮を固めた宝石のように。
そこから漂う気配は吐き気を誘うほど重く、命を歪めた痕跡そのものだった――。
「これは、命を救うためのものではない。助けようとしても、結局は壊すだけだ」
博士の声は深い闇を湛えていた。
研究者としての冷徹さ、倫理を踏み越えた者の言葉。
そこに憐憫も悔恨もなく、ただ確信だけがあった。
虚継ぎ――魂を器から抜き取り、疑似核に押し込む技術。完全な移植など存在せず、魂は裂け、人格も記憶も歪む。その唯一の成功例が、今、目の前にいるベリーだった……。
私は胸の奥で、小さく息を呑んだ。
静かに座るベリーの姿は、幸せそのものに見える。
でも、その小さな胸に宿る核は、幾千もの失われた魂の断末魔であり、無数の命を踏み台にして生まれた結晶だった。
ひとつの笑顔が、『世界の残酷さ』を凝縮している。
博士はさらに語る。
「かつて人形型魔導素体を用いた実験では、器はすぐに砕け、魂は裂け、残ったのは歪んだ残骸にすぎなかった……。だが、核を持ち感情のようなものを示す存在――すなわち『悪魔』を素体として用いたとき、虚継ぎは初めて『形』となった……」
私は、言葉を失った。
悪魔の魂――強大な力を宿す恐怖の使者。
恐怖や憎悪、抗えぬ怒り。
博士は、その力を実験の器にしたと淡々と告げた。
事実をただ並べる声の冷たさが、部屋の重たい空気を深い水底へと沈ませた。
私の記憶に、あの日の光景が浮かぶ。
故郷を襲った赤い悪魔――狂気に染まり、心を壊した姿。
魔核が乱れた魔力を吐き出し、私の前で感情の影を刻み込んだ存在。
あの時の恐怖を思えば、博士の言葉の意味を理解することは容易だった。
魔族の核を素体にする。それがいかに残酷かは、想像するまでもない。
人が魔族を恐れるように、魔族のなかにも人を恐れるものがいるのかもしれない。
想像にすぎない私の思い。それは未来、魔族との戦いで脳裏を過る記憶として刻まれたのかもしれない――。
「この術は、命を紡ぐのではない。これは、……壊すための秘術だ」
ストロー博士のその一言が、刃となって空気を裂き、沈黙すら凍らせる。
ベリーの笑顔も、その声の重さに押し潰されるように見えた。
幸福と絶望が同じ器に詰め込まれているという矛盾が、あまりに鮮烈だった。
胸の赤い宝石は幸せの結晶。
その一方で、この存在もまた虚継ぎの副産物。
光は祝福のように煌めいている。
けれど、その奥には数えきれない犠牲の呻きが眠っている。
人の手で生み出された禁忌の生。
世界にひとつしかない孤独な存在。
私は、その真実から目を逸らせなかった。
思考の底で、過去に見てきた禁忌が回想される――。
ソウルレコード。レイ・スロストの研究。生命操作の残滓。
どれもが破滅を孕む歪んだ秘術。それでも誰かが求めた道。
そして今、ベリーの存在がそれらを繋ぎ合わせる。
断ち切れぬ鎖のように、命も記憶も核も、ひとつの結末へと収束していく。
全部繋がっている。
命、記憶、核……その全ては密やかに、それでも、世界の根幹に確かに刻まれている。
紫の空は、やがて夜の黒に溶けていった。
光と闇の境界に、わずかな赤みを残して、世界は静かに呼吸をしている。
明と暗が溶け合う世界で刻まれる命の鼓動と追憶――赤い核を抱くベリーの微笑み。
その純粋な笑顔に囚われた私の心は、夜が運ぶ静かな風のなかでただ揺れていた。
幸福が刻まれた容姿。それは、同時に無数の命の墓標でもあった。
重すぎる真実を抱えながら、なお穏やかに微笑むその表情が、何よりも残酷で、美しかった。
全ては、次に向かう道のため。
ニアの穢れた残滓を浄化し、核を持つ存在の均衡を取り戻す。
私達の物語の続きが、静かに始まろうとしている。
机の上で書物がわずかに軋む音。ページの端が月が輝く空に向かって優しくふれた。
私は深く息を吐き出し、言葉にならない想いを胸の奥に沈める。その願いはあまりにも無力で、現実の前では折れそうになる。
それでも、これから待つ穢れた魂の浄化に向かい、重たい足を、戸惑う心を、一歩前へと踏み出す。
赤い宝石が微かに光を反射し、紫に沈む研究室の闇と混ざり合った。
その輝きは奇跡であり、同時に無数の失われた魂の証でもある。
失われた命はもう戻らない。
救えぬ魂は、裂かれたまま……、永遠に残る。
それでも、私達は、未来を紡ぐその一頁をめくる。
幸福と禁忌を抱いたまま、絶望を超える強さを胸に刻みながら――。
今回で、第二部『ティラミス編』の本編は完結です。
物語は、第三部『リエージュ編』へと続いていきます。
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