第六十話 音の無い祈り
夜の塔は、凍り付くような静寂に包まれていた。
その最奥、属性干渉室――研究棟の深奥に造られた、光も音も沈黙する結界の内に、私達は立っていた。
月光は天井のドームを通して柔らかく降り注ぎ、銀糸のような彩が空中に溶け込む。空気はひどく澄んでいて、触れる度にひび割れてしまいそうなほど繊細だった。
あれから数日。
ティラミスの空に満ちた夜を、私達はずっと待っていた。
博士の言う通り、属性干渉を安定させるには “ 満月 ” が不可欠だった。
そして今、その光が、確かにここへ届いている。
中央の魔導円には、白布に包まれた影が静かに横たわっていた。
リアン――。
雪の中に咲いた幻の花のように、そこに “ 在る ” だけの存在。
命の温もりも、痛みも、感情すらも――何もかもを置き去りにしたような、沈黙の輪郭。けれど、その気配は確かにここにあった。
風の音に紛れるほど微かで、彼の鼓動が夜の静寂の中に溶けていた。
私がその名を呼んだとき、声は音にならず、空へ吸い込まれていった。
ストロー博士が隣に並ぶ。彼女の眼差しは変わらず冷静でありながら、その奥にある、静かな祈りのような想いが伝わってきた。
「お主らが鉱山に向かったあと、セイントルミズからアリヴィアの配下の者を手配して連れてきてもらった」
私は小さく頷いた。
リアン――リーザ義理母さんの形見。
私達が失いかけた心の残響。
幼き日のあの面影は、今も私の中に生きている。
私の胸に眠る微かな希望を、ここに取り戻すために。
奇跡を信じて孤独な夜を照らす月に祈りを捧げよう。
「リアンの身体に異常はない。外傷も魔的侵食もすでに隔離した。干渉用の魔導円は雷と氷、双方の属性が安定して流れるよう調整もしてある。安心してくれていい」
博士の言葉に、私は胸の奥で息を吐いた。
――それでも、この沈黙を破るには、祈りだけでは足りない。
共鳴。その名の通り、記憶の深層に触れる『声』が必要なのだ。
白布の下に横たわるリアンの姿は、眠っているというよりも――感情という名の光をすべて閉ざしたように、深い闇の底で息を潜めていた。
あの夜、再会した時と同じ。
喜びも怒りも、痛みすらも失って、それでもなお立ち上がり、セイントルミズの影に生きてきた少年。
罪を背負わされ、裁く者として、無慈悲な粛清の役目を果たし続けた――。
まるで、人であることを許されぬかのように。
でも、その瞳の奥、誰にも届かない深淵には、本当は、“ こんな形でしか生きられないことへの苦しみ ” があったのかもしれない。
……もしも、その想いが、まだこの世界のどこかに残っているのだとしたら。
それは、かつて私が感じていた後悔。
小雪混じりの深い森の暗がりで、孤独を空に浮かべ、神に嘆いたあの日。
今も胸に残る罪への贖罪。
――あの時も、ニアが私を受け止めてくれた。
何という巡り合わせだろう。
だからこそ、私達の声が、リアンの心の底へ届くことを――願わずにはいられなかった。
透きとおる魔導灯の光が、天井のガラスドームを通して月光と混じり合い、彼の輪郭をそっと照らしていた。
まるで時の狭間に取り残された幻のように、リアンはそこにいた。
触れられぬ記憶の奥で、ただ、眠るように。
銀青の雷導管が、低く、唸るように共鳴を始める。
静寂を破ることがないほど微かに――それでも、確かに “ 始まり ” を告げる音。
ベリーが最終調整の完了を告げると、博士はゆっくりと操作盤に指を滑らせた。
「真氷蒼石はすでに雷の媒介として接続済み。ニアの精霊核にも共鳴拡張の符を貼り付けてある。これが、今の我らにできる最善」
魔導円の縁が静かに光り、幾何学模様が夜の床に淡く咲く。
博士が最後にぽつりと告げた。
「干渉は、想いの強さと、ラクラス達の声に委ねられる。――心して臨むのだぞ」
私はもう一度、リアンを見つめた。
そこにいるのは、かつての彼ではない。
それでも、私達が信じる彼の記憶は、まだどこかに息づいているはず。
ニアが、そっと一歩を踏み出す。
その手が胸元に触れる仕草は、迷いと決意の混じった祈りのようだった。
「やるしか……、ないよな」
その小さな問いかけに、お姉ちゃんが肩をそっと叩いた。
「大丈夫。ニアならできる。……っていうか、もうそんな顔をしている」
「ど、どんな顔だよ……」
ニアが目を丸くする。
「まっすぐで、優しくて……ちょっと泣きたくなるような顔」
私は微笑み、頷いた。
「ニアなら、……できる。貴方の声は、遥か彼方に眠る想いを貫ける、強い力を持っている」
ニアはそっと目を閉じ、再び胸元に触れる。
「お、おぅ……。やってみる」
その声には、緊張と希望、そして、静かな決意が宿っていた。
雷と氷が交わるこの場で――。
この夜の全てが、雷花に共鳴する『声』を、静かに、待っていた。