第五十八話 理に沈む音
転送の光が収束したあと、世界は不意に、音を手放した。
重力の感覚だけがゆっくりと戻り、私達は固く冷えた大地の上に降り立つ。
背後で、ニアの小さな息遣いが震え、お姉ちゃんが、静かに私の前にすっと立った。
森の奥、結界の内側。
苔むした石柱と古びた印が刻まれた祠。
そこが転移の座標だった。
人知れず風化していったその場所には、風の音だけがひそやかに揺れ、鳥の声さえも、どこか遠くで薄れて聞こえてくる。
まるで、この空間だけが時間の流れから切り離されているかのように――。
「……さっきのあの幼い女の子。もしかして……」
お姉ちゃんが、かすかな声で呟く。
私は振り返らずに、そっと答えた。
「……私が守れなかった、幼き日のアリヴィア……」
お姉ちゃんは、それ以上何も言わなかった。
ニアも深刻な顔をして、ただ頷くだけだった。
しばらくの沈黙の中、私達は静かにその場の空気を共有した。
やがて、お姉ちゃんが手の甲で汗を拭う。
転送の余波がまだ空気を微かに震わせていて、ニアは祠の周囲を見回しながら、ほっと息をついていた。
「転送座標は、ミスティアが補正してくれた古い記録のやつだよね……?」
お姉ちゃんが問う。
私は静かに頷く。
「そう……、だね。ミスティアの魔力演算がなければ、無事に辿り着けなかった」
常人が到達できない領域に身を置くミスティア。彼女が転送座標の微細な狂いまで修正し、私達を無事にティラミスへ送り届けてくれた。
転送装置の制御盤には、神代の文字と思われる跡がかすかに残っている。
それはこの場所が、遥か昔から存在している証であり、悠久の時間をも感じさせるものだった。
森を抜けると、やがて眼下に高低差のある都市景観が広がりはじめた。
――ティラミス。
知の層が重なり合い積み上がった、魔導と理術の融合する都。
高台に研究塔が幾重にも建ち並び、その外壁には、各領域の紋章が静かに刻まれている。
光を反射するレンズ塔。風を集めて回転する螺旋羽根。水路から動力を汲み取る流体管。
雷属性の魔法を応用した技術開発が盛んなこの都市は、その根源を生み出すために、自然そのものと対話をしていた。
「……あの音は、風力変換炉?」
ニアがひときわ高い塔に視線を向ける。
雷ではなく、風の力で根源を生み出す装置が、街のいたるところから低く響く唸りを放っていた。
エンシェント・ジュエルで目にした光とは違う。
地下深くに眠る古代都市の光は、魔導石の力そのもので灯されていたが、ここでは『組まれた理』が動力を紡いでいた。
「人工的すぎるね。整理されすぎで、落ち着かない……」
お姉ちゃんが呟く。
歩幅の揃った石畳の道。完璧に均された段差。
風の流れさえも計算されているかのようなこの街は、そこに暮らす人々の鼓動が、どこか置き去りにされたように感じられた。
それでも、私達はこの街に希望を求めて来た。
リアンの記憶を――あの子の存在の輪郭を、ここで見付け出すために。
木製の手すりに指を添えると、わずかに震えが伝わってきた。
先ほど見た幻影――アリヴィアの “ 呼び声 ” が、まだ心の奥で波打っている。それは波紋のように広がり、私の心を歪ませていく――。
でも、歩かなければ。
進まなければ、あの子達も、あの頃の私も、きっと取り残されてしまうから……。
「……行こう」
お姉ちゃんの言葉に、私は小さく一度だけ首を縦に振り、視線を上げた。
そして、決意を込めた声で静かに呟いた。
「ストロー博士の研究所は、中央環の第七塔……だったね」と。
「うん。一緒に行こう」
お姉ちゃんも、静かに頷き、私の気持ちに応えてくれた。
『一緒に行こう』というお姉ちゃんの声。
私に勇気をくれたその音が、いつまでも私の心に響き渡っていた。
その音がやがて消えゆく頃、深い森の闇を背に、私達は新たな歩みを進め始めた。