第五十七話 白霧にほどけた祈り
光の粒が、私達の輪郭を淡く溶かしていく。
足元の光の円環は、夜明け前の空のように青白く瞬き、私とお姉ちゃんとニア、三人の体を覆っていった。
そして間もなく、視界が波打ち、音も匂いもない無の世界と一体化していくのだった。
残ったのは――。
胸の奥に、まだ燻る、微かな微熱。
どこまでも優しくて温かな、……そして、……淡い夢心地――。
「……これが、……転移?」
私の声は小さく震えていた。
自分を繋ぎ止めるための、呪文のような囁きだった。
そのか細い声さえなければ、この虚無に魂ごと呑み込まれていたかもしれない――。
風が吹き抜ける。
周囲の光景が裂け、空間が歪む。
全身の感覚が一瞬、完全に切り離された。
気付けば、私は膝をついていた。
湿った石の匂い。鋭い冷気。
耳を刺す金属音と、残響のような魔力のうねり。
「こ、こは……?」
白い霧が全てを包み隠す。
三歩先さえ見えない。
辺りには小さな光が浮かんでは、静寂の中に溶けていった。
震える指先で胸元のペンダントを掴む。
ミスティアが託してくれた、あの優しい導きの欠片。
「……っ、座標……が、ズレ……た?」
息が詰まる。
嫌な汗が背を滑る。
魔力の流れも感じない。
ただ、白い霧が私の存在を侵食するように、纏わりついてくる。
(――ス……、ラ……ラス……! 聞こえる……? 今、補正を――)
ペンダントの奥から、微かに声が滲んだ。
ミスティア……の気配――。
一瞬だけ届いた声は、すぐに遠ざかる。
私を呼んだ、その声にすがりたいのに。
「……大丈夫、私は……」
膝に力を込め、震える足を踏み出す。
――コン……コン……。
石を踏み鳴らす音。
ゆっくりと近付く乾いた高音に、冷気が肌を切り裂く。
静寂に響き渡る戦慄で、心臓が刻む律動が速度を上げる。
「……ようやく、会えたね」
その声を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
血が逆流するような、痛烈な衝撃。
霧の奥に揺れる影。
華奢で幼いシルエット。
けれど、その気配は鋭利な刃のように研ぎ澄まされていた。
白銀の髪が、月光を編んだ糸のように、ゆらりと揺れる。
青よりも深い、底知れないアクアマリンの瞳が、まっすぐに私を射抜いた。
「……うそ……? アリヴィ……ア……?」
もう、会えるはずのないその姿が。
どうして、ここに――。
「お姉ちゃん……どうして……? どうしてあのとき――、守ってくれなかったの……? 怖かった……! 苦しかった……! なぜ……!」
黒髪だったはずの少女の言葉の棘が胸を抉る。
冷たい空気が、肺を貫いた。
「アリ……ヴィ……」
声が震える。
吐き出した言葉が、白い霧に溶ける。
彼女の周囲の空気が、黒く変わっていく。
霧が渦を巻き、鋭い線のような魔力が幾重にも走る。
「……やめて、アリヴィア……」
幼い頃の笑顔が、瞼の裏に浮かぶ。
私を呼ぶ小さな手。
星砂糖の森の袂で一緒に数えた星……。
なのに、今――。
「私が……弱かったから……!」
絞り出された声は、罪の告白のようだった。
アリヴィアの瞳の奥に、一瞬だけ光が揺れる。
それは、白む空の明かりに消えかけた星のようにかすかに瞬いた。
「……私は……進むしかなかった」
何度も、何度も、逃げ出しそうになった。
それでも、夢を手放さなかった。
ペンダントから滲む光が、胸の奥に沁みる。
視界が一気に開ける。
そこにあるのは、笑い合った思い出でも、優しい日々でもない。
ただ、冷たい白と黒が交錯する空虚――。
息を吸う。そして、震える足を前に出す。
「……これは私の願い――だから、守りたい……!」
アリヴィアも一歩、踏み出す。
白銀の髪が、ふわりと舞う。
月光のように冷たい瞳が、私を捕える。
魔力が収束する轟音。
空間が裂け、霧が命を持ったように蠢く。
「お姉ちゃん……!」
かすかな叫び。
それが、決別の合図だった。
無数の冷たい光が、私を裂こうとする。
けれど――。
(ラクラス……っ! もう少し……! 今、掴むから――!)
ミスティアの声が、再び微かに届いた。
意識の底に火が灯る。
「……っ!」
私は踏み込む。
魔力を脚に集中させ、空間の狭間を縫う。
右腕を横に振ると、白い閃光が走り、熱が肌を裂いた。
アリヴィアの目が一瞬だけ開かれる。
その奥に、あの日の微笑みが見えたような気がした。
「……ありがとう……!」
声が震え、涙が滲む。
再び光が弾ける。
空間が震え、全てが白に飲まれていく。
視界が消える寸前――。
アリヴィアが、微かに微笑んだ。
幼き日、夢を失った私を包んでくれた小さな温もり。
夜を怖がる私にそっと向けてくれた、あの笑みと同じ――。
「――また、会おうね……」
あの夜と同じ声に包まれて、私は目を閉じる。
今、胸の奥に残るのは、赦しではなく――祈り。
いつか、もう一度笑い合える未来があることを、ただ信じたくて。
白い風が吹き抜ける。
私のままで進んでもいいんだと、誰かが囁くように。
それだけで、世界は少しだけ、優しく見えた。