第五十六話 虚ろの空に還る幻想
様々な属性を宿した鉱石が静かに呼吸する、彩環大鉱山。
ここは、幾千年もかけて積み重ねられた魔力の層が複雑に絡み合い、絶えず波紋を生む場所。
微かにきらめく粒子が空へ舞い、肌に触れるたびに微熱が走る。
世界の底から響く脈動のような音が、胸の奥で静かに共鳴していた。
もしこの大鉱山を陸路で抜けるなら、深い断崖と瘴気に侵された歪な道を、数日かけて進むしかない。
その道は、属性区域が幾重にも交わり、歩む者の意思さえ試すように歪む迷宮。
けれど、その選択肢は既に消えていた。
時間は残酷なほど速く過ぎ去り、私達の背中を苛む。
ニアの穢れが再び疼き始める気配は、静かに私の神経を締め上げていた。
一刻も早くティラミスへ戻らなければならない――それが、私達の唯一の選択肢だった。
世界には、数多の移動手段が存在する。
地を駆ける者、空を翔ける者、あるいは魔力の流れに乗る者――。
それでも、『空間を一瞬で超える』という奇跡は、ほとんど伝承の中にしか存在していない。
転送魔法、次元連結『ディメンション・コネクト』、失われた神代の秘術――。
それらは、不安定に揺らぐ次元の境界を圧縮し、座標間の距離を強引に接続する術。
ただの ” 瞬間移動 “ などという単純なものではなく、全身を魔力に還元し、座標補正によって空間を ” 跳躍 “ するような過酷な技法。
その根源には『月』の概念を応用した空間魔法理論が隠されている。
時環の庭に『月を模した影針』が刻まれているのも、ここに由来する。
――封空天環。
太古において、空と空間を封じ、世界を繋いだとされる神代の魔法構造体。ティラミスの科学とドワーフの古代技術を結集して築かれた異物。
現代では、その基盤理論すら完全には解明されず、応用できるのはわずかな座標演算技術だけ。
失敗すれば、大地に叩きつけられるか、虚無の空へ弾き出されてしまい命を失う危険すら伴う。
この魔法を扱える者は、ごく僅か――。
強大な魔力制御と、座標補正の才能を兼ね備えた者のみ。
ミスティアは、座標情報を『魔法言語』として読み解くことができる現場実働型の才女。即応性と補正能力に優れ、空間崩壊の予防、魔力障害への瞬間対応を一人で担える。彼女が私達を無事にティラミスへ送り届けるための鍵になる。
命の危険性があり、世界情勢を大きく揺るがす可能性のある転送魔法は、中央によって厳しく管理され、使用は中央の許可、あるいは宝石の守り手一族の認可を得た者に限定されている。
かつて、魔族もこの術式の先に『人の濃密な魔力』が存在すると知り、渇望したといわれている。
しかし、それは同時に、命を懸ける価値があるほどに危うい道でもあった。
このエンシェント・ジュエルが魔族によって魔力の痕跡を追跡されないのは、封空天環が底都市に築かれた巨大防壁結界であるがため。
都市全域を覆う幕のような結界が、外界からの魔力追跡を一定時間抑止し、空間的痕跡を分散・隠蔽する。
中央もこの技術を欲した。
ジュエルソウル討伐の協力と引き換えに、古代中央が求めた最重要技術の一つ――それが、この封空天環を応用した転送魔法だった。
光の粒が無数に舞い踊る『天青の間』。
部屋の中心には、透明に透き通る巨大なクリスタルが呼吸するように脈動している。
その輝きは、まるで星の心臓を抱いたような静謐さと荘厳さを纏い、見渡せば、かつて交わした剣と誓いの記憶が儚い光の粒となって漂っていた。
そこに、微かに揺れる青い光の粒が、サラサラと揺れるミスティアの瑠璃色の髪と絡まり、夜空に瞬く星々のように踊っている。
その輝きすら霞ませるほど、傍にいるミスティアの存在はあまりにも眩しかった。
鏡花水月の宝石姫――初めて出会ったときのあの光景が、今も脳裏から離れない。
純度の高い宝石のように透き通った瞳、風に溶けるような声、そのすべてが永遠に焼き付いていた。
ミスティアとの出会い。世界の摂理が覆されたあの時、あの瞬間。
アリヴィアはすでに、この『天青の間』へと辿り着いていた。
中央が改良した補助演算装置と、独自の空間制御術式を組み合わせることで、正確な座標演算を導出して、古代魔法の起動を単独で行った結果だという。
巨大なクリスタルの袂には魔法陣が描かれている。
エンシェント・ジュエルに眠る秘宝が動力になって失われた古代魔法が機能する。
私達は、その幻想的な光の円環の中に立っていた。
「ラクラス……絶対に、戻ってきて。あなたには、まだ果たすべき夢があるから」
静かに語りかけるミスティアの声は、澄んだ水面を渡る風のように柔らかく、美しかった。
その声は胸に沈み込み、波紋のように広がりながら、私の全身を温めていく。
ティラミスへ戻る時間を待ちながら、私はミスティアがくれた首元のペンダントを握りしめていた。
仄かに温かい私の体温が、ミスティアの優しい記憶をそっと溶かしていくようで――胸の奥に、柔らかな灯りが灯る。
浅い呼吸を繰り返すたびに、胸の奥が静かに波打つ。
ミスティアの澄んだ声の余韻が、旋律のように私の全身を駆け巡っていた。
エンシェント・ジュエルを去る前に、深く息を吸う。
そして、目を閉じてこの地での出来事を思い返す。
浮かび上がるのは――夢の余韻に取り残されたような、宝石色の煌びやかな街の灯り。
「……ありがとう。みんな」
誰にも届かないほど小さな声が、青に煌めく世界の冷たい風に溶けていく。
けれど、その言葉は確かに私自身の胸に届いていた。
未来へ踏み出すための、静かな祈りのように。
ミスティアが調整する転移魔法陣が徐々に生命の息吹を灯していく。
足元の転送陣が青白い稲光のように瞬き、紋様が脈動を刻む。
風が吹き上がり、髪が柔らかく舞い上がる。
視界が光で塗り潰され、私の輪郭が光の粒へと変わっていく感覚。
これは、ただの移動ではない。
命を賭けた『帰還』。
私が選ぶ、新たな運命への跳躍。
「……戻ろう。ティラミスに」
声にした瞬間、胸の奥にあった恐れも迷いも音を立てて崩れ落ちる。
光に包まれると同時に、再び立ち向かう覚悟が熱く脈打つ。
向かうのは、再会と始まりの場所――ティラミス。
私にあるのは、あの日誓った約束。
アリヴィアとリアンと三人で交わした、幼き日の誓い――。