第五十五話 夢想に揺らめく光
宝石城の回廊は、まだ朝の光に満ち切らず、儚い薄明の中に沈んでいた。
足音が白い床に溶けるたび、胸の奥にある決意と不安がせめぎ合う。
――シドの執務室
シドは席に座り、書類を捌きながらも私たちに気付くと静かに顔を上げた。
その灰色の瞳には、深い思いやりと、どこか遠い距離を感じさせる静かな光があった。
「……出発か」
「うん。今まで、本当にありがとう」
短い言葉しか出なかった。それでも、その一言にすべてを込めた。
そんな私の代わりに、お姉ちゃんが一歩前に出て、柔らかく言葉を紡ぐ。
「ここでの時間は、私たちにとってかけがえのない宝物。これからの旅でも、何度でも思い出すと思う」
シドは小さく笑い、ゆっくりと立ち上がった。そして、窓辺に視線を向け、エンシェント・ジェルの町並みを覗いた。
「……これも空の彼方に揺らめく運命の導きかもしれんな。君達がくれたものは、この都市の未来にとっても大きな意味を持つだろう」
その声には、形式的な礼ではない、胸の奥から絞り出された真実味があった。
「道は決して平坦ではないが……ラクラスたちならきっと乗り越えられる」
シドの隣にいたルインが彼に続いて私たちにエールを送ってくれた。
その言葉からは、この街の温かさが伝わり、改めて人々への感謝を噛みしめた。
「……また、必ず会いに来るよ」
「待っている」
シドはそれ以上言葉を重ねず、ただ私の肩にそっと手を置いた。
その重さは軽くもなく重くもなく、私の覚悟をそっと肯定してくれるような、不思議な優しさがあった。
少し離れた場所で、アリヴィアが静かに佇んでいた。
その横には、薄青の髪を揺らすサフィスの姿があった。
「……もう行くのね」
朝の澄んだ空気のように静かなサフィスの声には、芯に温かな熱が宿っていた。
アリヴィアがそっとサフィスを見つめ、慎重に言葉を選ぶように唇を動かす。
「ええ……。ご存知のとおり、私には私の成すべきことがありますので」
その視線が一瞬だけ、私の方へ向く。
その綺麗な海色の瞳が、海の底のように深く、差し込む光のように優しかった。
「アリヴィア、ここをあなたの家だと思って、いつでも帰ってらっしゃい」
サフィスは微笑み、娘の友人にそっと手を伸べる。
ミスティアも静かに首を縦に振り、その優しさを支えていた。
軽く頷いたアリヴィアは、言葉にすると零れてしまいそうな想いを堪えているように見えた。
そんなアリヴィアを私はそっと抱き寄せ、幼き日にしてあげたように、その美しい白銀の髪をただ優しく撫でてあげた。
身を委ねたアリヴィアの体温は、深く、柔らかく、私の中に溶けていくようだった。その熱がいつまでも冷めないで欲しいと、心から願っていた。
僅かな沈黙が過ぎたあと、彼女が私に声をかける。
「私の大好きなお姉ちゃん。また会えて本当によかった」
「うん……。アリヴィアは変わらず甘えん坊だね」
「うん。優しくて温かなお姉ちゃんは……、私にとって特別だから」
その一言に、胸が静かに震えた。
口にできない想いが、声にならない呼吸の中で押し寄せる。
傍に感じるアリヴィアの息吹に、アリヴィアとリアン、三人でまた笑い合いたい――その願いが胸を満たす。
アリヴィア、私、諦めないから――。
「ありがとう」
優しく言葉を返すと、彼女は一人の少女の顔に戻り、澄んだ瞳で私を見つめる。
そして、そっと腕の中から抜け出して、一歩前に出た。
「お姉ちゃん、私、少し行かなくちゃいけない場所があるの。大事な話があって……」
「……中央?」
問いかけるつもりはなかったのに、声が漏れてしまった。
アリヴィアは何も言わず、ただ私の方をじっと見ているだけだった。
「……ララお姉ちゃん、お姉ちゃんの夢は誰のものでもないからね。私はそれを守るためなら、何をするのも厭わない」
短い言葉の奥に、溢れるほどの熱があった。
私の胸の奥にある迷いの小さな芽を、優しく掬い上げてくれるような――そんな言葉だった。
その背中を見送るしかない自分が、少しだけ悔しかった。
それでも、今の私にできるのは、前に進むことだけ。
「そういってくれるのは嬉しい。でもね、今の私には、一人の女の子として、私の妹として、いつも傍で笑っていてくれるアリヴィアが何よりも大切。それだけは忘れないで……」
「うん。少しだけお別れ。……行ってきます」
「無事に帰ってきてね。約束――」
私は結局、アリヴィアにそれ以上何も言えなかった。
でも、今なら少しだけ分かる気がする。
彼女がずっと、誰よりも近くで私を守ってくれていたことを。
アリヴィアの背中を見送りながら、胸の中に小さな痛みが残った。
アリヴィアが一足先に去ったあと、サフィスが私を傍に呼んで、周囲に聞こえないように声をかけてくれた。
「……アリヴィアは、あなたの夢の話をしていたわ。詳しくは言えないけれど、彼女は本当にあなたを大切に思っているのね」
その優しい言葉に、私はただ頷くしかなかった。
アリヴィアが願ってくれた私の幸せ。
でも、この道は私が自分で選んだ未来。
この足が辿る道の先に、どんな結末が待っていても。歩むのは私自身。
「アリヴィア……」
小さく呟き、拳をぎゅっと握る。
――これでいい。これが、私たちの選んだ道だから。
そう自分に言い聞かせ、サフィスの傍から離れ、アリヴィアが去っていった執務室の入り口にその影を追った。
すると、後ろでニアとルインが話している声が聞こえた。
「ニア、次はいつ来る?」
「いつになるかは分からない。けど、約束するよ。また来るってさ。……絶対に」
少し寂しげなルインに、ニアは珍しく視線を逸らさず、真正面から答えた。
「また会える日を楽しみにしている。その身に宿した困難に負けないで欲しい」
「当たり前だろ。ジュエルソウルごとあたしがなんとかしてやるさ。ここでの時間は楽しかった。お前のようにあたしの凄さを認めてくれるヤツがいることも知った……。だから、なんだ、その、この場所を守りたいんだ」
ニアは少し照れたように笑いながら、でも真っ直ぐにルインを見返す。
ニアの声には、普段の軽さではなく、不器用な優しさが滲んでいた。
ルインは驚いたように目を見開き、やがて静かに微笑む。
「期待せずにはいられないな」
「だろ! だから、待っててくれな」
「ありがとう、ニア……。それだけで、十分だ」
ルインとミスティアが深い絆で結ばれているように、ニアとルインの間にも、言葉では説明できない想いが育っているのを感じた。
ミスティアが二人を静かに見守るその横で、メルトお姉ちゃんがにやにやしながら小声で言った。
「ふふっ、ニアもようやく素直になったな。可愛いヤツめ!」
「おい、メルト、黙れっ!!」
顔を真っ赤にしたニアが即座に振り返る。
でも、その顔は不思議なくらい優しい雰囲気に満ちていた。
私も思わず笑みを漏らしてしまう。
別れは寂しいはずなのに、この場には不思議と温かな空気が流れていた。
私たちは最後にもう一度お互いを見つめ合い、別れの言葉を交わした。
そして、別れ際にルインが私に声をかける。
「君は、きっと未来を変える人だ。信じているよ」
ルインのその心強い一言に私は軽く頷く。
「行こう、ララちゃん」
お姉ちゃんがそっと背を押してくれた。
「うん……」
この場所で過ごした日々と、交わした言葉の一つひとつが、今も胸の奥で静かに響いている。
アリヴィアの言葉、サフィスの言葉、そして仲間たちの想い――。
――でも、私は知っている。
どんな未来が待っていようとも、私の夢は、私のものだということを。
目を閉じると、あの日の約束と、交わした言葉たちが胸の奥で光り続けている。
――リアンを救う。そのために、私はもう迷わない。
その決意だけが、眩しい光の中で私を支えてくれていた。
シドとサフィス、ルインが見送る中、私たちはミスティアの案内で帰路に向かってその一歩を進めた。




