第五十四話 それぞれの朝
暗闇に揺らめく優しい光が白む刻に溶け出す頃、私は城の渡り廊下を抜け、中庭へと足を運んだ。
空はまだ少し眠たげで、遠くの町並みは靄のように霞んでいる。
この高台から見渡す美しい町の全景も、肌を撫でる風も、澄んだ空気も、人々との温かい生活も、すべてがもうすぐ終わってしまう――そう思うと、……寝てなんていられなかった。
ここで過ごした七日間は、本当にあっという間だった。休養といっても心は休まらず、気付けばこれからのことばかり考えていた。
私は、この地での思い出が詰まった真氷蒼石をそっと見つめる。
触れた瞬間、指先が冷たくなるはずなのに、どこか温かみを感じる。体の奥に染み込むような魔力が、静かに、でも確かに流れ込んでくる。思わず小さく息をのむ。
その青は、深海に沈む宝石のように、息を潜めた静けさと神秘を湛えている――まるでアリヴィアの海色の瞳を思わせる美しさ。これほどのものを生み出せるジンの技術には、改めて敬意を覚える。
「ララちゃん、真氷蒼石……ちゃんと持ってる?」
そう言って私の肩をそっと抱くお姉ちゃん――。
早朝、部屋を抜け出そうとした私の気配に気づいて、一緒に中庭まで来てくれたのだ。
「……うん。大丈夫」
私は、お姉ちゃんの温かな腕をぎゅっとして抱えて、小さく答える。
その笑顔を見ると、少しだけ呼吸が楽になる気がした。
真氷蒼石――これを使ってリアンの記憶に干渉する。それがどんな結果になるのか、誰にもわからない。
少し離れた場所では、ミスティアとアリヴィアが並んで立っていた。
二人も、旅立ちの朝の時間を惜しんでいるのかもしれない。
ミスティアは今日も凛としていて、夜明け前の空を思わせるような薄い瑠璃色の長い髪が、朝の光を受けて揺れるたび、淡い輝きを放っていた。
陽の当たる場所にいる彼女を見ていると、あの戦場での姿がまるで嘘だったかのように思えてならない。
アリヴィアはその横で静かに佇んでいた。何も語らぬ瞳の奥には、全てを見通す深さがある。ただそこにいるだけで、周囲の想いも状況も、そのすべて汲み取ってしまうように見える。
理知的で、計画的で、器用。だからこそ誤解されがちだけど――でも、本当のアリヴィアは、誰よりも繊細で優しい。幼い頃から知る『姉』の私には、その本質がわかる。
そして、その能力がゆえに、まるで舞台の幕が上がる前にすべての筋書きを決めた演出家のような空気さえも纏ってしまうことも。
私達に気付いた二人が、こちらへ歩いてくる。
「ラクラス、もうすぐお別れだね」
儚げで澄んだ声。ミスティアの声は、一度聞いたら決して忘れない。少し寂しげで、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「……そうだね。ここで止まってしまうわけにはいかないから――」
「……ラクラスは、強いね。わたしは、すぐに心が揺らいでしまうので……」
少し弱々しく見えた横顔に、なんとも言えない気持ちになってしまう。でも、深入りはしない。踏み込めば、固めた決意が崩れてしまう気がするから。
お姉ちゃんとアリヴィアは、そんな私の心を察して、そっと見守ってくれている。
「ララちゃんは、ちゃんと分かっている子だからね」
「……だと、いいな」
そう返すと、アリヴィアも「ふふっ」と優しく微笑む。
その笑顔に救われる自分がいることを、改めて思い知る。
少し遅れてルインが現れ、誰かを探す素振りをしかけて、すぐに止めた。
きっとニアの声が聞きたかったのだろう。そんな彼を、皆がそっと見守る。
アリヴィアがルインに近付く。
「兄様、親友が旅立つ日は、やっぱり寂しいね」
「そうだな……。皆が出発する前に、顔を見ておきたかったんだ」
「ルイン、いろいろありがとう。ここでの生活は、本当にかけがえのない思い出になったよ。ミスティアをアイドルグループに勧誘する件でこれからもお世話になるからね。マネージャーの『ニア』が寝ているのは……まあ、許してあげて」
冗談交じりに、でも気を利かせたお姉ちゃんらしい言葉。
ルインも微かに口元を緩めている。
「メルト、そう言ってもらえると助かる……」
「なんのなんの、私の『完璧な計画』のためだからね! 別に、あんたのためにやってるんじゃないんだからネ!」
少し調子に乗り始めたお姉ちゃんを見て、思わず笑いそうになる。
ルインは完全にお姉ちゃんのペースに乗せられていた。
ミスティアも、そんな兄の様子を嬉しそうに見つめている。
一方で、アリヴィアにとってはこの光景も、この先の展開も、すべてが計算通りなのだろう。彼女の頭には、ずっと先の未来まで筋書きが描かれている――そんな気がした。
ミスティアがこちらへ向き直る。
「ラクラス、無理はしないでね。私の大切な親友に何かあったら、すごく悲しいから……」
「……うん、ありがとう」
それ以上、彼女は何も言わなかった。でも、私を見つめるその瞳には静かな光と優しさを感じた。それは、戦場の冷徹さとは違う、確かな温もり――。
いつの間にか、私も彼女に心を許していたのだと気付く。
だから、別れが名残惜しくて仕方がない。
私の視線は無意識にお姉ちゃんを追っている。
その視線を感じたお姉ちゃんが、静かに優しい声をかけてくれた。
「大丈夫だよ……また会える。でも、寂しいね」と。
――そして、束の間の朝の時間が過ぎていき……。
やがて、出立の時を告げる時計台の鐘が鳴り響いた。
ただ、どこか空虚な不安がいつまでも私の胸を撫でている。でも、それ以上に、リアンの止まった時間を取り戻すと決めた揺るぎない決意が私にはあった。
別れを告げるため、シドのもとへ歩みを進めるなか、その背後から、ミスティアの視線を感じた。
その視線には剣のように鋭く、それでいて、何かを守るような優しさがあった。
――見守ってくれている……
心の中で小さくそう思い、前を向く。
「ララちゃん、大丈夫?」
私は、お姉ちゃんの問いに、小さく笑って頷く。
――リアンを救う。その先に、何が待っていようと、もう迷わない。
冷たい空気の中で、真氷蒼石が微かに輝き、その温もりが私の手の中に優しく伝わっていた。