第五十三話 静謐なる煌めきの果てに
深い青を湛えた空の下、エンシェント・ジュエルの水庭では、風すら宝石の香りを纏っていた。
日差しは翡翠のようにやわらかく、噴水から舞い上がる水粒は虹の欠片のように空中で煌めいている。
白い石畳の縁を縫うように咲く透明花が、そっと揺れた。
休養に入ってから六日目。
予定どおり、明日には、私達はこの地を離れる。
中庭に並ぶ白銀のベンチに腰掛けたミスティアが、風にそよぐ長い髪を片手で押さえながら、私たちに笑みを向けた。
「いい風だね。……旅立つ日の前って、どうしてこんなに空気が澄んで感じるんだろう」
「それは……多分、“ 終わり ” が近いって、心が分かっているからだよ」
とても穏やかなお姉ちゃんの声。その声は、寂しさが滲んだように優しい。
「……ここでの時間も、もう終わりか」
今度はニアがそっと呟いた。その強い意志を秘めた瞳には、未練や不安はなく、まるで静かな覚悟が宿っているかのよう。
ニアの状態は、ここ数日を経て落ち着きを取り戻していた。異変の兆しも薄れ、精神も安定している。
けれど、それが “ 嵐の前の静けさ ” でないとは限らない。
なぜなら、私とお姉ちゃんは、ニアのなかに流れる “ 何か ” の気配が、より深く静かに根を張りつつあることを感じていたから。
「兄様の報告書を読んだ? ……そこには、魔核や瘴気、精霊構造の相関図も載ってた」
ミスティアが資料を手に、指先でページをなぞる。
「簡単に言えば、“ あれ ” は観測されることで意味を持つ存在だった、ってことでしょ?」
「つまり……誰かが見ていたってことだな?」
ニアが眉をひそめる。
「うん。“ あれ ” を通して、何者かが私たちの行動を計測していた可能性がある。明確な意志があったかは分からないけど、まるで『何かの目』に触れていたような……」
「……試されていた。あんな化け物相手に」
お姉ちゃんがぽつりと呟く。
私もゆっくりと頷く。
「……あのジュエルソウルの魔核は、普通じゃなかった」
「まるで、『焦点』みたいだった気もする。ジュエルソウルの中核自体が、どこか遠くの視線を引き寄せる“窓”になっていたような……」
「……それで? その『視線』の正体って、分かったの?」
ニアが静かに口を開く。
その問いに、私は一瞬、口を閉ざした。
思い出すのは、あの夜のこと――。
ニアが深い眠りに落ちた後、私はお姉ちゃんの部屋に寄った。布団の中で寝息を立てていた彼女は――実は眠ったふりをして、ずっと私の気配を探っていた。
あの時、結界が軋んだ。魔力のうねり。空の膜の向こうに走る黒の縞。目に見えない “ 何か ” が、こちらを覗き込んでいた。
その直後、私は確かに聞いた。懐かしいあの声を――。
(……ラクラ姉ちゃん……)
忘れるはずがない。
幼き日、私の名前を呼んでくれた――あの無邪気なリアンの声を。
「……夢みたいな話だよ。でも、確かに聞こえた。あれは……間違いなくリアンの声だった」
「リアン……」
ニアがその名を繰り返し、ふと視線を落とす。
彼女には、リアンについてすべてを語っているわけではない。それでも、何かを感じ取っているようだった。
「その……ララ。リアンって、どういう人だったの?」
言葉を選びながら、私は静かにニアの質問に答える。
「……昔、家族だった。実の姉弟じゃないけれど……。それでも、リアンは私にとって弟みたいな存在だった」
あの頃、私はまだ小さくて。名前も曖昧で、未来もなかった。
でも、リアンがいて、アリヴィアがいて、あの家族のなかで私は初めて “ 誰か ” になれた。
だからこそ――彼を失った喪失は、私の中で癒えない深い傷跡となって消えない痛みを残している。
「……もう、会えないと思っていた。でも、突然リアンの声が届いた。まるで時間も空間も超えて、ほんの一瞬でも、再び繋がれた気がした」
「……そっか」
ニアの返事はそれだけだった。
今回ばかりは、踏み込みすぎない距離を、さすがに彼女もわきまえていた。
だからこそ、私は言葉を続けることができた。
「ニア。あなたの中にある “ 穢れ ” ……それが、何かを引き寄せたのかもしれない。無意識の感情が、魔核に残された想念と共鳴して、誰かに “ 届いた ” ……そんな仮説が、今のところ一番近い」
魔物。精霊。魔核。核に宿る感情。記憶の石。
すべてがひとつの線で繋がりかけている。
「……そして、その続きを探るために、私達は『次の場所』に行かないとならない」
私は顔を上げ、視線を未来へ向ける。
「リエージュ。『大樹の都』ブッシュドノエル。天冥の樹がそびえる、聖なる土地」
「……天冥の樹?」
ニアが小さく首をかしげる。
「天地を貫く大樹。頂は天に、根は冥に届くと謳われる。魔を退け、魂を癒す――神聖な水が根元から湧き、万病に効くと語られる――」
私はゆっくりと説明する。
「その水なら、ニアの中に残る“穢れ”にも何かしらの影響を与えるかもしれない。少なくとも、調べる価値はある」
「うん……。分かった。行こう、ララ」
ニアが、真っ直ぐに頷いた。
そのとき、ミスティアが小さな袋を差し出した。
「これ、持っていって」
手のひらほどの小袋。中には青白く光る小さな石が嵌め込まれたペンダントがひとつ。
「飾り用だけどね。余った真氷蒼石の欠片をジンに譲ってもらった。それを素材にして私がこっそり作ったの。護符にはならないけど……気持ちを込めてある」
「ありがとう。大事にする」
私はそれを胸元にしまい、しっかりと頭を下げた。
「またね、ミスティア。アイドルグループに入る話も『真剣』に考えて欲しいな」
「アイドルグループの話はともかくとして、きっと、直ぐまた会える。宝石の縁が、どこかで繋いでくれるから」
ミスティアは、宝石の街の風に髪をなびかせながら、静かに微笑んだ。
その笑顔は、確かな “ 希望 ” の光だった。
こうして、私たちは再び歩き出す。
静かなる空の下、時の底に眠る記憶が目を覚ますその時を信じて――。
今回で、第四章は終了です。
次回より、第五章「天環に揺らめく永遠」が開始となります。
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