第五十二話 時の底で微睡むもの
ニアが眠りについたあと、自室へ戻る前にそっとお姉ちゃんの部屋を覗いた。
――灯りは落とされ、光源石に宿る微かな魔力だけが、星影のように淡く揺れている。
扉を静かに閉じ、私はベッドの傍へ歩み寄る。
布団に身を沈めたお姉ちゃんは、穏やかな寝息を立てているように見える。
けれど――分かっている。これは演技。ただ、目を閉じているだけ。
お姉ちゃんの長いまつ毛は、微かに震えている。きっと気配に気付いている。眠ったふりをしたまま、私の様子を窺っているのだろう。
声をかけずに私は窓辺に腰を下ろす。
しばしの沈黙が部屋を包み、夜の風がひとすじ、冷たく部屋を撫でていく。
その静けさを裂くように、封空天環の結界が軋んだ。
風ではない。あれは音ではなく、魔力のうねり。 “ 何者か ” が結界に触れている。
……誰?
私は気配を探る。けれど、それは結界の外縁をかすめ、するりと逃げていく。まるでこちらの視線を避け、見えないところに潜んでいるように。
「お姉ちゃん……、起きてるんでしょう?」
私がようやく声をかけると、ひとつ息を吐き、お姉ちゃんがゆっくりと身を起こす。
「ばれてた?」
「寝息、そんなに穏やかじゃないし。それに……いつもはもっと、ね」
「もっと……?」
「――なんでもない」
「もったいぶるな妹よ。そんな子にはこうだ!」
不意に私をくすぐるお姉ちゃん。でも、それが堪らなく嬉しい……。
「……くすぐったい」
「ふふ、ごめんごめん。ほら、こっちへおいで」
布団のなかへ私を招き入れ、優しく抱きしめてくれるお姉ちゃん。その温もりにふれた瞬間、心の底から安堵が広がった。
「温かい……。心が落ち着く」
「うん。さっきはタイミング逃しちゃってごめんね。ララちゃんとニアの話、途中から聞いてた。不安定なニアを支えてくれて、ありがとう。よしよし。今夜はお姉ちゃんに沢山甘えなさい」
「……ありがとう。嬉しい」
冗談まじりの口ぶりで私を包んでくれるお姉ちゃん。
でも、私は見逃さない――その瞳の奥、やわらかな光の奥に、確かに“決意”が灯っていたことを。
「……ねぇ、お姉ちゃん。ニアに魔力干渉を試みたとき、感じたんだ。まるで……空っぽの器に手を伸ばしているみたいで……『核』が、存在してないような感覚……」
「やっぱり……」
お姉ちゃんは腕を組み、しばらく考え込む。そしてぽつりと口を開いた。
「魔物と精霊のことを考えていて気付いたことがあるんだ。ねえ、ララちゃん。どちらも “ 核 ” を持ち、魔力を介して周囲に影響を及ぼす存在……、そして、“ 支配 ” の一族でもあったよね?」
「そう、だね……」
私は息を呑む。思い出したのは、かつて故郷を襲った赤い悪魔のこと――。
あの悪魔は、“ 核 ” を通じて下位の魔物に『魔力干渉』を行っていた。
「……ということは、ジュエルソウルに込められた想念が、核を通じてニアの中に流れ込んでいる可能性があるってこと?」
「そういうこと。ニアが “ 記憶を封じる石 ” みたいな瞳になったと訴えたあの時……、リュミエールの想いが私たちに流れ込んできたあの現象と同じことがニアに起こっていたのかもしれない」
「宝石型の魔物……。魔核と精霊核……。記憶の石と感情の干渉……、ニア……」
お姉ちゃんは、静かに頷いた。
「エンシェント・ジュエルは、『宝石の守り手』の末裔が統治する都市。その人々の “ 感情 ” や “ 想念 ” が、魔物の性質に干渉していたとしても、不思議じゃない」
「つまり……、ニアの感情と共鳴して、魔核に “ 揺らぎ ” が起こっている……?」
「それだけじゃない。もしかすると、彼女の魔力が何か『未知の存在』を呼び覚まそうとしているのかもしれない……」
二人して、窓の外を見上げた。
封空天環の空に、星々が冷たく瞬いていた。まるで、 “ 何か ” がこちらを見下ろしているかのように。
「……誰かが、呼んでいる気がする」
お姉ちゃんがぽつりと呟く。
私も、それを感じていた。名もなき “ 何か ” が、結界の向こうからこちらを覗いている。
不気味なのに、懐かしい。
――もしかして……私自身も、何かに“繋がりかけている”……?
その時だった。
――カチッ。
ゴーン……、ゴーン……。
塔の鐘が鳴る。
一刻を告げるその音は、時を刻むのではなく、まるで『封を破る音』のように響いた。
そして次の瞬間――空が、軋んだ。
星々が、一瞬、呼吸を止めたかのように沈黙した。
結界が波打ち、空の膜の向こうに “ 黒の縞 ” が走る。
「っ、ララちゃん! 何かが来る!」
お姉ちゃんの声に、とっさに魔力を展開する。
結界が、内側へと吸い込むように圧を増していく。
そこに私がお姉ちゃんを庇うように前に出た、その時だった。
(――……ラクラ姉ちゃん……)
冷たく、優しく、懐かしい声――。
けれど確かに “ 私の記憶のなかでくすぶる ” 幼き日のリアンの声だった。
(……っ!)
私は反射的に振り返る。だが、そこには誰もいない。
窓の外で――ほんの一瞬、金と白の光がただ交差しただけだった。
「……ララちゃん? 今の、まさか……」
お姉ちゃんの問いに、私はゆっくりと頷いた。
「……リアン、だった。気がする」
結界の軋みは、やがて静まり、星々は再び瞬きを取り戻した。
けれど――あの “ 声 ” と “ 気配 ” は今も確かに残っている。
何かが、動き始めている。
静かに、確実に。
次にそれが姿を現すとき、ニアも私も……逃れられない “ 対価 ” を問われるだろう。
夜は、まだ深い。
封空の空の奥、そのさらに下層――。
私とお姉ちゃん二人だけが触れた、“静寂の断片”。
――それは、時の底で眠る存在の、微かな微睡み。『深層の記憶』が静かに目を覚ます、最初の夢だったのかもしれない。