第五十話 影の中の記憶
宝石城の窓辺から見下ろすエンシェント・ジュエルの夜景は、まるで地上に降りた星空だった。
私は腰をかけ、きらめく街の光をただ黙って見つめていた。
遠征の疲労は身体に残っているはずなのに、なぜか目だけは冴えている。
城は高台に築かれていて、街の全景が見渡せる。魔力を帯びた光源石が通りの上を等間隔に漂い、夜風がそれらをすり抜けていった。
部屋の奥では、お姉ちゃんがシドから借りた魔導通信機を手に、黙々と文字を綴っている。
一方、鏡の前ではニアが濡れた髪をタオルで拭いていた。風魔法を使えば一瞬で乾く。でも、それをお姉ちゃんに頼もうとしないのが、ニアらしい。たぶん――無意識に、そうやって自分を落ち着かせているんだと思う。
その静けさを破るように、ぽつりと声が落ちた。
「……なんか、変なんだよな」
ニアだった。
「どうかしたの、ニア?」
私は椅子から立ち上がりながら訊ねた。
「さっきから……自分の目が、他人のものみたいに感じるんだ。奥の方に、妙に冷たい何かが沈んでてさ」
彼女は鏡越しに睨むように右目を覗き込む。
「疲れているだけじゃない? 今日、たくさん食べていたし……」
「『冗談』じゃなくて。風呂上がりにふと見えたんだ。自分の右目が――宝石みたいな、濃い赤に染まってんのが」
私は思わず、お姉ちゃんの袖をぎゅっと掴んだ。――怖いものは、怖い。
「赤……。あの、記憶を封じる魔導石、“ 意思の記憶 ” の色……?」
「そう。それで思い出したんだ。あの石……あれに似てた」
ニアの声が、わずかに震えた。部屋は再び静寂に包まれる。
カチ、カチ……。
壁掛け時計の針が、夜の空気を切り裂くように音を刻む。
「ねえ、ニア。ジン達が言っていた『穢れ』のようなものって話……、もしかして、関係あるんじゃないかな」
「だとしたら、あたし……もう、おかしくなってんのか?」
私がお姉ちゃんの方を見た。すると彼女は通信機をそっと置き、こちらへと歩いてくる。
「……まだ断定はできない。でも、魔力の状態なら調べられるかも。ニア、魔力を少し解放してくれる?」
ニアは黙って頷き、手のひらを開いた。
お姉ちゃんは風の魔力を練り、そっとその手に触れる。
――その瞬間。
「……っ」
お姉ちゃんの眉がぴくりと動いた。
「どうしたの?」
「……魔力が、すり抜けていく。まるでニアの身体が、風そのものを拒んでいるみたい。しかも、魔力の通り道が……、歪んでる。空間そのものが、捻じれているような感触」
「呪い……じゃないの?」
「それにしては反応が鈍すぎる。まるで、正体がわからない何かに触れているみたいで……悍ましい」
私はお姉ちゃんの腕にしがみついた。
「お姉ちゃん、私の魔力でも試してみる? 何か分かるかもしれない」
「うん、お願い。闇魔法の防壁を構築してみて」
私は手を伸ばし、闇の魔力を編んだ――けれど。
「……届かない」
まるで、手を伸ばした先に “ 空っぽの器 ” があるような。魔力が触れるはずの『核』が、存在していない。
「風には反応して、闇には無反応……? こんなの、初めて……」
ニアは苦笑して言った。
「……まるで、自分の影だけが、誰より先に腐っていくみたいだな」
影――。
その言葉に、私は朝の違和感を思い出した。
「……ニア。あのね、今朝、貴方の影……動きが、遅れていた気がする」
「遅れてた?」
「うん。ニアが動いたあと、影がワンテンポ遅れて、床に滑っていた。あれ、絶対に普通じゃない……」
お姉ちゃんも眉をひそめ、ニアの足元に目を落とす。
今は普通に見える。光源石の灯りを浴びた影は、床にぴたりと沿っていた。
けれど、どこか……輪郭が曖昧な気もする。まるで、そこに“もう一つの気配”が潜んでいるようにも感じて寒気がする……。
「魔力でも触れられない『異常』。その正体は――」
お姉ちゃんの言葉が止まった。
それ以上は、今は言わないという判断だったのだろう。
私は再び、お姉ちゃんの服の裾を強く掴んだ。
そうしないと、不安で立っていられなかった。
「ニアの中で、何かが動いてる。“ 意思の記憶 ” に似た……けれど、違う何かが」
「……わかった。無理に干渉するのはやめよう。私がもう少し調べてみる。ティラミスに戻ったあとにスーちゃんにも報告するね」
ストロー博士のもとに戻るまでに私達ができること――
それは、見落とさないこと。感じ取ること。
カチ、カチ、……カチ――。
時計の針の音だけが、城の静けさを切り裂いていた。
まだ見ぬ答えは、蠢く影の、そのさらに奥に、――きっと、潜んでいる。