第九十六話 冥の巫女
封印室――いや、正確には研究施設の一角だ。
穢れを解放したあと、お姉ちゃんとニアが待つ別室――『儀式の間』に案内された。
机や機材、古い紋様の資料が並び、中央の台座には揺れる穢れが浮かんでいた。
「ラクラス、君が触れることになる」
ラウゼンの声が、静けさを切り裂く。
私は、台座の上の黒い残滓を見下ろす。
これに触れる者――穢れに耐え、世界の秩序に触れる資格を持つ者。……それが、私だと分かってしまう。
その隣に、アルマが座していた。冷たい雰囲気を宿した彼女は、自宅で見せていた無邪気で明るい様子とはまるで別人。
――空気が、変わる。
ただ、そこにいるだけで――この場が成り立っていると分かる。……アルマが、巫女だった。
光がアルマの周囲で静かに揺れる。
「準備は整ったか」
ソラノアが問う。
ラウゼンも頷く。
私の手が震える。
けれど、もう迷いはない。
穢れに触れ、『悪魔の刻印』を得ること――。
それがここに来た理由だから。
アルマの視線が私を見据える。
その瞳は、知っている者の確信に満ちていた。
私が一歩前に踏み出すのを、ただ静かに支えている。
息を整え、私は台座へ手を伸ばした。
光が指先で揺らぎ、穢れが応える。
――空気が、止まった。
音じゃない。
静けさでもない。
もっと深いところ。
世界の底で、何かが息を潜めたみたいな静寂さが漂っている。
視線を上げると、結界が揺れていた。
光で編まれたはずのそれが、水面みたいに歪んでいる。
フィリエルが一歩出る。
祈りの姿勢。
指先を胸元に寄せ、静かに目を閉じる……。
光が、応えた。
彼女の周囲だけ、密度が変わっていく――。
淡い輝きが、呼吸みたいに明滅している。
――止まらない。
結界の歪みは消えない。
それどころか、奥へ、奥へと軋んでいく。
フィリエルの睫毛が、わずかに震えた。
初めて見る表情だった。
……届かない。
「……ありがとう」
届いたのは、温かな声――。
アルマだった。
本当に、何気ない声。
みんなが息を詰めていることにも気付いていないみたいに、彼女は首を傾げて、結界を見た。
「あとは……任せて」
小さくそう言って、ただ――触れた。
なぞるみたいに、そっと指先で触れただけ。
瞬間――世界が、静止した。
光が止まる。
空気が止まる。
時間さえ、息を止める。
音が消えた。
完全な無音……。
結界が――ほどけていく。
崩れたんじゃない。
解けた。
固く結ばれていたものが、正しい手順でほどかれていく。
そして一筋。
光が道を作った。
誰も動けない。
私も息を吸うことすら忘れていた。
アルマだけが、その先を知っているように佇んでいる。
「……大丈夫だよ。もうすぐ――」
どこまでも澄んだ声。
そのとき、隣でフィリエルが、目を開いた。
その瞳は――揺れていた。
驚きでも困惑でもない、もっと深いもの。
知っている者の目だった。
唇が、わずかに動く。
「……アルマ」
迷いが入り込む余地さえ無い澄んだ言葉。
確認の声。
光の道が、さらに広がる。
しばらくして、壁面の紋様が浮かび上がった。
古い、古い文字。
見たことのないはずのそれを――。
なぜか、私は読めた。
いや、読まされた。
頭じゃない。
もっと奥。
記憶より深い場所に、直接響く。
――冥を統べる祈り手。
心臓が跳ねた。
視線が、アルマへ向く。
彼女は、困ったように笑っていた。
「私の祈りは届いたよ。さぁ、ラクラス――」
無垢な声。
……すべてを、受け止めている。
その瞬間、理解してしまった。
――違う。
この子は、触れている。
穢れじゃない、その奥にある何かに。
光が、静かに道を開ききる。
沈黙。
誰も言葉を持たない。
ただひとり、アルマだけが、いつもと同じ温度で立っていた。
世界を変えたことさえ、誰にも気付かせることなく、彼女は時を動かした。
私の手に宿った温かさ――。
それだけが、ここに在った者の魂の跡を刻んでいた。
その温もりが、ゆっくりと広がる。
手のひらから、腕へ。胸の奥へ。
鼓動が、ひとつ、深く鳴った。
黒い残滓に触れている。
でも、それだけじゃない。
その奥に、確かに残っているものがある。
言葉にも、形にもならないまま――まだここにある。
私は、目を閉じた。
拒まず、押し返さぶ、ただ、受け止める。
指先に、光が弾ける。
視界が、白く塗り潰される。
音が消え、時間の感覚が戻り始めていく。
落ちるようで、沈むようで――。
それでいて、どこにも行かない。
ただ、重なっていく。
私と、穢れと。
記憶と、残された想いと。
境界が、曖昧になっていく。
苦しくも、怖くもない。
ただ――深い。
胸の奥に、静かに何かが届く。
それは、祈りだった。願いだった。
……終わらなかった声だった。
導かれるように、それへ近付いていく。
――触れてしまった。
……もう、離さない。
指先に熱が走り、逃げ場のない場所に刻まれるわずかな痛み。
確かに、形は見えない。
でも、分かる。
私の中に、何かが残った。
それは、穢れじゃない、消えなかったもの。
終わらなかったもの。
そのすべてを――引き受けた証。
光が、ゆっくりと収束していく。
呼吸が戻る。音も、戻る。
世界が、再び動き出す。
私は、静かに目を開いた。
手のひらが、まだ熱い。
そこには、何も見えない。
それでも――確かに刻まれている。
『悪魔の刻印』。
それは、力じゃない。
奪うものでも、支配するものでもない。
ただ――。
終わらなかったものを、背負う印。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥で、ひとつだけ、静かな鼓動が続いている。
その鼓動は、私のものじゃない。
――消えていない。
その静かな確かさの中で。
アルマは、ただそこにいた。
今回で、第五章は終了です。
次回より、第六章「零に還る場所」が開始となります。
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