第八十八話 安心のひととき
明日の予定を思い出す。
――『穢れを扱う者』たちの研究施設で、未知と危険が静かに私たちを待っている。
でも、まだ考えない。
今はゆっくりと休む時間だから……。
落ち着いた時間が流れていた。
お姉ちゃんが先に寝てしまってからは、静けさが一層増したようだった。
フィリエルは窓際で街をじっと見つめている。
口元がわずかに緩み、普段の緊張はどこかに置き忘れたようだった。
その背中から、小さな安心が伝わる。
手元のカップから立ち上る湯気をそっと撫でる仕草は、自然に部屋の静寂と溶け合っていた。
アルマは机の上で、光を反射する小物を手に取り、夜空色の瞳で私たちを確かめる。
「こいつも凄いな! これも魔人の工芸品?」
その小さな手が光を反射させ、机の上で星のように瞬いていた。
微かな笑い声も混じり、夜の静けさを柔らかく揺らしている。
「そうだよ、ニア。ここでは、壊すことよりも守ること、作ることを大事にしてるんだ」
ニアは、次々と小物を手に取っている。
『わぁ』と声を漏らす目が、魔法のように輝いた。
時折、私の方に振り向き、発見したことを嬉しそうに伝えてくる。
『ララ、これ見て! きらきらしてる!』と小声で囁き、掌に載せた光を揺らしていた。
ソラノアは机に向かい、本を開いたままペンを走らせる。
ところどころ、ページの文字を追う視線は鋭いのに、肩の力は抜けている。
彼の筆先が紙を擦る微かな音も、部屋にそっと響いていた。
読み手としてだけでなく、この瞬間の“世界”を受け止めようとしているようだった。
たびたび、ニアやアルマの小さな声に目を向け、笑顔を返す細やかな気遣いも見える。
ページをめくるたび、机の上の小物が光を反射して揺れると、ソラノアは『お、また光ったな』と小さく声を漏らしていた。
私は借りた児童書の続きを読みながら、ふと顔を上げる。
その先には、灯りに照らされた家族や仲間の姿。
言葉にしなくても、ここには『守られる日常』がある。
外の世界で幾度も失ったものを、静かに取り戻させてくれる――そんな時間だった。
「なぁ、ララ。ここで……ずっとこうやってたいな」
ニアが、そっと手を伸ばしてきた。
「そうだね……。きっといつか、どこかでゆっくりと暮らす日もくるのかな?」
ここでは、日常と希望が、静かに重なり合っている。
だから私は、小さく微笑んだだけだった。
今はただ、この穏やかな時間を抱きしめて。
未来がどんな道を示そうとも、私たちは進み続けるのだから。
――私は、児童書の項を閉じ、心の中で呟く。
『また、旅を続けよう』と。
柔らかな魔光に包まれ、夜の温もりと明日への決意が交わる。
それは、この街がくれた、確かな贈り物だった。
翌朝。
目が覚めた瞬間、静かすぎて、少し息をひそめたくなるほどだった。
物音はある。
足音も、食器の触れ合う音も、遠くの笑い声も。
なのに――。
その全てが、昨日までの戦場のように遠く、静まり返って聞こえた。
まだ、目は完全に覚めていない。
ゆっくり起きると、見慣れない天井が目に入った。
昨夜ここで眠ったことを思い出して、ようやく現実に戻る。
窓の外には、谷底の街の光が揺れていた。
朝なのに、空はまだ明るくない。
ここでは、灯りが太陽の代わりをしている。
それでも、不思議と暗いとは感じなかった。
むしろ――、守られているみたいだ。
ただ、その朝の光だけは、どこか重たく見えた。
指先に触れる空気の密度にも、ほんのわずかな違和感がある。
それでも、静かに、世界のどこかが動いている。
そう思った瞬間――、理由もないのに、息を止めていた。
扉の向こうから、軽やかな足音が近付いてくる。
「起きてる?」
アルマの声。
「……うん」
そう答えた自分の声が、思ったより細く聞こえて驚いた。
「朝ごはんできてるよ。みんな先に起きてる」
扉越しでも分かるくらい、彼女の声は弾んでいる。
その明るさに、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。
「いま行くね」
布団を抜け、床に触れた足先にひやりとした感触が伝わる。
冷たい。けれど、嫌じゃない。
穏やかな朝の空気が、胸にゆっくりと広がっていく。
窓の光に照らされ、壁や床もわずかに温かさを帯びていた。
目が覚めていく。
支度を整えて扉を開けると、朝の匂いが流れ込んできた。
甘い香り。温かな湯気。
小さな笑い声。食器の触れ合う音――。
それぞれが混ざり合って、朝の優しいリズムを作っていた。
昨日の夜とはまた違う、朝の温もりが満ちていた。
それなのに、なぜか私は、まだ眠りの暗闇の中にいるようで、現実と混ざり合った不思議な感覚だった。
――廊下を抜けると、いつもと同じ光景が広がった。
……ああ。私、少しだけ安心していたんだ。
「あっ、ラクラスちゃん! おはよ!」
アルマが手を振る。
湯気の向こうで、ニアが口いっぱいに何かを頬張っていた。
そして、皿の上のパンを指差しながら、嬉しそうな笑顔で私を手招きしている。
「なぁ、ララ、こっち来て!」
口の中のものを飲み込むと、ニアは私を急かすように声を掛けた。
「ちょっとだけ待ってね」
私は微笑み返し、椅子を引いて隣に座る。
ニアは両手でパンを抱え込み、小さな口でちょこんとかじった。
「んぐ……これ、うまっ……! なにこれ、甘いのに軽い!」
「ふわふわで甘いよね! ラクラスちゃんも食べてみて」
アルマが私の分の皿を差し出す。
指先が触れ合った瞬間、手に温かさが伝わり、自然と笑みがこぼれた。
「ありがとう、いただくね」
ひとくち頬張ると……ほんのりとした甘さが胸の奥まで優しく広がり、思わず目を細め、自然と笑みが零れた。
アルマが小さく手を叩き、『おいしいでしょ?』と笑うと、ニアも嬉しそうに両手を挙げて喜ぶ。
「ニア、それで三つ目」
「え、まじ?」
「数えてたから!」
お姉ちゃんの声は、いつも通り落ち着いている。
いつものやり取りにアルマたちが加わって――、朝の食卓はとても楽しい時間になっていた。
ソラノアが椅子に座ったまま、こちらを見上げた。
「よく眠れたか?」
「うん。ぐっすり」
本当にその通りだった。
部屋には、甘い香りが満ちていた。
焼きたてのパンの湯気が、朝の光にほどけていく。
アルマが、焼きたてのパンを手際よく取り分け、笑顔をこぼす。
ニアは、取り分けてもらったパンが乗った皿の模様を指でなぞっている。
向かいでお姉ちゃんが、指先に付いた粉を払う。
アルマの小さな笑い声に連鎖するように、ニアも思わず笑う。
フィリエルは小さく微笑み、私も同じように頷いた。
言葉はなくても、伝わる温かい空気。
その雰囲気が、堪らなく愛おしかった。
外の光もまだ、柔らかく揺れていた。
フィリエルはカップを持ったまま、その窓辺の光を見ている。
その横顔は、祈りの前の静けさのようで、時間が止まったかのように見えた。
私は視線を落とす。
白い皿。整えられた食卓。揃えられた椅子。
手に触れる感触、耳に届く声、鼻をくすぐる甘い香り――。
どれも、確かに私たちのものだと実感できる。
だから――、大丈夫。
何も変わらない。
今日は、昨日よりもきっと、前に進める。
この朝のひとときを胸にしまったら、研究施設へ向かう準備を始めよう。
谷底に灯る光は、私たちの歩みをそっと支えてくれる。
私は、未来を抱くように両手を胸の前でそっと重ねる。
そのまま目を閉じて、深呼吸する。
たったそれだけ。
瞬くようなひとときに――世界の息吹と呼吸が静かに重なり、胸が深く満たされた。
「面白い」「続きを読みたい」「作者を応援したい」と思ってくださった方は、ブックマークと評価をいただけたら幸いです。




