第一話 小雪舞う夜の記憶
完璧なまでの暗黒に染まる空。憂いを帯びた緋色の月が闇夜に浮かんでいる。
星々が夢幻と思わせるほど月が美しい……。
ここは、冷たい静寂が支配する深く暗い森の奥。昼間でも温かな陽の光がほとんど届かない。
そんな暗がりさえ、底なしの闇へと飲み込まれてしまうのだから、瞳に映った景色に感嘆の言葉さえ失ってしまうのも仕方がないこと――。
森には開けた場所が僅かにあって、まさに今、私が居る場所がそう……。
足元には、一面に広がる紅い花。目の前には、蒼く綺麗な小さな泉。泉は月を映し、見上げた空には穢れを知らない純白の花びらがヒラヒラと舞い落ちる。月明かりに照らされて仄かな紅い光りを纏う花びらが幻想的だった。
降り注ぐ花びらはやがて泉の水面を揺らし、微かな波紋を作る。
波紋が広がる度、泉に覗く月の顔が歪められるという光景が延々と続いていた。
目の前で絶え間なく移ろう風情。
花々の絨毯に腰掛け、一人その景色を眺めているうちに、荒んでいた私の心は少しだけ軽くなっていた。
微かに冷たい風が、時折私の頬を掠める。その冷たさが心地良い。吐く息は白く、肌寒い。
人開未踏の地にこれほど美しい場所があることを果たしてどれだけの人が知っているのだろう。そんなことなど私には分からない。確かなことは、ここが私にとって『特別な場所』ということ。
「赤……」
情熱的で刺激的。興奮を覚える鮮やかな色。人々の命の鼓動を躍動させる優雅で知的な色。
眼前に咲き乱れた薔薇色の花たちからは爽やかな香りが漂う。
しかし、その香りが私に清楚で純情な気分を彷彿させることはない。
私の知っている赤が幸せなわけ……。
だって、現実は――。
鉄臭く、生温かい。 時に鮮明でサラサラとしていて、時にドス黒く濁ってドロドロとした血の赤。ベタベタとシツコク纏わりついて、私の心を錆つかせる。
常軌を逸した精神を宿す肉体。人々が最期に遺す惨色。それが『垢』になって私の身体に染みついている。
狂気の沙汰を振り払い、屍の山を束ねる。それを繰り返す日々――。
一面に広がる赤い海。苦悶の表情を浮かべ、微動だにしなくなり、物言わぬガラクタのように地べたに転がる躯たち。
綺麗な景色なんて微塵さえも思うはずがない。そんなわけ、あるわけない。
私が流してきた涙の色もきっと赤い。私に降る雨も、何もかも。
災厄をもたらす悪魔でさえ、私を見たら思わず呪われたような気持ちになってしまうに違いない。私の方がよっぽど悪魔じみているのだから……。
魔の滅びは無力で綺麗な魔力光に戻るだけ。情が乏しい分、救いはある。大義も立てやすい。
人の滅びは凍結、燃焼、刃。選択肢はあっても、赤い色を見ないことはない。情がある分、後味が悪い……。勝てば正義。負ければ悪。大義も道徳もない。
そもそも死戦で手段を選んでいたら殺られる。思考、神経、感覚、全身全霊全てを研ぎ澄まし、最短最善の方法で冷酷非情に確実に敵を断つ。躊躇すれば相手に付け入る隙を与えかねない。
私は、死を司る者。私の存在自体が『死』そのもの。死に愛され、死に誘い、死を弄び、死をもたらし、死を持て余し、死後の魂さえも終わりのない破滅に導く死の祝福。
漆黒の闇を纏い、希望の光ごと絶望の淵に堕としてしまう闇の加護。
私は、運命の悪戯を支配する月の力と、凍てつく冷気の世界に誘う水の力を宿し、凄惨な殺戮を繰り返す罪人。重ねた罪の果てに安らぎを求めて彷徨う咎人。
例えこの世界が誰かの幸せの代償に、誰かが不幸という対価を差出すことで差し引きゼロにしてバランスを保っているとしても、その自然の摂理さえ捻じ曲げ、光を掴むことを許さない強大な力を生まれながらに与えられてしまった独りぼっちだった女の子。
禁忌の力は壮絶な不幸を生み出す巨悪の触媒。その力の前では、全ては儚い砂の欠片のようなもの。
私が力の代償に支払わされた対価。眠りの中で広がる世界、現実世界の活力『夢』。
希望の光を灯し、心を豊かに満たし、命が輝きを放つために必要なひとつの生体要素。自らの意思に関係なく剥奪され、失わされてしまった私の強い憧れ……。
こんな力さえなければよかったのに―― って、無慈悲な運命を何度怨んだことだろう。
この哀しみと孤独の果てに私は絶望以外の何を手にするのだろう。
――神様って本当に不公平……。
翼を奪われ、自由に空を飛び廻れない籠の中の鳥のような日々。鳥たちは綺麗な声で囀り、美しい旋律を紡ぐことができるのに、私は断末魔の叫びという不協和音を奏でることしかできない。
時には深い傷を負いさえしたけれど、覚悟を決めて臨んだ死線を私は制してきた。ただ生き抜いてきた。
それが私、ラクラス――。
「雪……」
考えごとをしていると、肌に冷たい感触を覚えた。
いつの間にか月は陰り、薄っすらとした雲が空を覆っている。
年中気温が低いこの地では、突然雪が降りだしても何も不思議なことではない。
それなのに、暗がりの雪は少しだけ切なくて、そして、悲しくなる。
落ち着きかけた私の心も束の間。今の私は小さな温かさに触れた瞬間に溶けてしまいそうなくらい危うく、そして覚束ない。掴みどころのない状態に違いない。
魔力が満ちて空気が澄んだこの森は、精霊たちが羽休めに集まる憩いの場であるという迷信がある。辺り一面が時々イロトリドリのキラキラとした光彩で満たされるのは、その精霊たちの戯れによって引き起こされているのだともいわている。
光が星のように瞬いて見えるから、この森が『星砂糖の森』と呼ばれてきたというのが、私が知る伝承。
雪降る夜の光の芸術は、格段に美しい。
こんなにも気分の落ち着かない時だからこそ、その光景が無性に愛おしい。
小雪混じりの暗闇は、あの時のことを思い出してしまうから……。
あれはそう、七年前。私が物心着き始めて間もない八歳だった時のこと――。