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生家にて

『生家にて』


私はオーストリア帝国のブラウナウで生まれた。父は優秀な税関職員、母は心の優しい専業主婦だった。

綺麗な金髪碧眼で生まれた私は「高貴な」を意味するアディという名前を付けられた。今日から私はアディとして生きていくのだ。

私の父、フロイスは中学校を卒業した直後に靴職人となるも、税関職員へと転職した。父は、ブラウナウから少し離れたリンツという街で働いていた。さすが、国内で3番目に発展しているだけあって、父の周囲には大学や商業学校で専門の教育を受けてきた人間ばかりだった。しかし、父はその中でもかなり優秀な税関職員だったらしい。仕事を覚えるのが早く、人当たりも良かったそうだ。そのかいがあってか、彼の学歴で到達できる最高の地位であるリンツ税関の上級事務官にまで昇進した。

父は税関職員を辞めると、退職金と恩給を多く受け取っていたため、これまでのように仕事をすることなく、自宅で家族と過ごす時間を多く取るようになった。

父親は中学校卒業という学歴にコンプレックスを持っていたらしく、私には「勉強をするように。そして官僚養成学校へ入学すれば将来は安泰だ。」と、毎日言っていた。

しかし、私は絵を描くことが好きだった。将来は画家になりたかった。父がリンツで働いていた時には、毎日絵を描いて母に褒めてもらっていたものだ。だが父は、私が絵を描くことを許さなかった。


私は、父に直接訴えてみることにした。自分がどれほどの覚悟と情熱を持っているかということをきちんと話せば、話を聞いてくれると思ったのだ。

「お父さん、僕は画家になりたいんだ。この絵を見てよ!これは近所の教会、こっちは広場の噴水だよ。」

「アディ、このスケッチブックいっぱいに描いてある絵は全部お前のものなのか?」

「そうだよ。特にこの教会がお気に入りなんだ。3日もかけて描いたんだもん。」私は完全に興奮していた。これまで父に堂々と絵を見せたことは無かったからだ。

「ねえお父さん。僕は絶対に画家になりたいんだ。画家として修行することを認めてほしいんだ。」父に見せた絵は全て力作だった。絶対に父を納得させられると思っていた。

だが、父はそれを黙って暖炉に投げ捨てた。

「なんでよ父さん!酷いよ。どれも一生懸命描いた絵なんだよ?」

「はあ。お前が今まで絵にどれほど時間をかけてたのかは知らないが、その時間を勉強に使っていれば、多少は賢くなることができただろうに。」

「勉強が何だよ。父さんは僕を官僚養成学校に入れたいんでしょ?僕はそんな所に入りたくないよ!絵が描きたいんだ!」

「入りたくない、か。入ることができない、の間違いではないか?試験まで絵の道具は全て預かる。受かったら好きなだけ絵を描かせてやる。」

「本当に、受かったら好きなだけ絵を描いてもいいの?」

「ああ、もちろんだ。ただし、落ちたら二度と絵について考えるな。」


私は死ぬほど勉強した。絵を描くために。これまで絵を描いてばかりいたせいで、足し算や引き算もおぼつかなかったが、1ヶ月もしないうちに掛け算や割り算ができるようになった。この半年後、晴れて試験に合格した。かねてより私を官僚養成学校に入学させたがっていた父は大喜びしていた。

「アディ、やれば出来るじゃないか!おめでとう。」

「ありがとう、父さん。約束の物、返して欲しいんだけど。」

「"約束"…?なんだそれは?」

「…前に、官僚養成学校に合格したら好きなだけ絵を描かせてくれるって言って僕の絵の道具を全部預かったよね?返して欲しい。」

「ああ、あれか。どうせ受からないだろうと思って暖炉で燃やしてしまったよ。それに、どうせ官僚養成学校に入学したら勉強ばかりで絵を描く余裕なんか無いだろう。勉強に集中できるし、ちょうどよかったんじゃないか?」


私は、絶対に画家になってやろうと心に決めた。官僚養成学校には行かない。受かったが行かない。そう心に誓った。


私は官僚養成学校には入学したものの、勉強をサボりがちになっていた。絵を描くというたのしみを奪われた私は、何事にも身が入らなかった。

官僚養成学校は、私の故郷ブラウナウよりもはるか遠く、首都ウィーンにあった。ウィーンはオーストリアの首都であり芸術の街だ。音楽や絵画、美しい建造物の宝庫だった。絵を描きたいという欲望がいっそう強まったのだ。

入学して半年が経った14歳の頃、私は官僚養成学校を辞めた。退学後に私が実家に帰った時、父親は激怒した。そのショックで血圧が上がって脳卒中が起こり、帰らぬ人となった。それは、私が殺したようなものだった。

私は父親が死んだというのに、少しばかりの喪失感も悲しみも感じなかった。むしろ、「これでやっと好きなだけ絵を描ける」という喜びに溢れていた。

私は母に、ウィーンの美術学校に入学して絵の勉強をしたいと告げた。母は私を応援してくれた。入学するためには、絵の実技試験に合格しなければならない。私は自分史上最高の作品を何枚も試験会場に持って行った。故郷の広場の噴水や丘の上の教会など、建造物を描くのが私は好きだった。誰にも負ける気がしなかった。

試験終了後、私は合格を確信していた。試験課題は私の苦手な人物画のスケッチであり少々出来には不安だったが、持参した私の作品を試験監督が見れば、合格することは明らかだと。そう思っていた。

しかし、結果は不合格だった。私は理由を聞きに試験監督に直談判した。

「君は人物画よりも建造物を描くのが得意なようだから、建築家が向いているぞ。」との事だった。なるほど、そういうことか。私は建築家になろうと決めた。

不合格後には実家で、最近病気がちであった母の看病をしていた。看病の傍らで、私は母に似顔絵を描いてプレゼントした。たいそう喜んでくれた。

「アディは将来画家になるんだもんね。応援してるから。」母はいつも私の夢を応援してくれた。私が美術学校を受験したいと言った時も、試験費用と宿の代金を工面してくれた。本当に感謝していた。

「ありがとう、母さん。僕絶対に立派な画家になるからね!」私は早く恩返しをしたかった。母を、偉大な芸術家の母にしてあげたかった。


看病を続けてしばらく経ったある日のこと。医者が私にこう告げた。

「お母さんは癌です。お気の毒ですが、もう長くは生きられないでしょう。」

私はその言葉の意味が分からなかった。こんなに優しくて明るい母が死ぬなど、考えたこともなかったからだ。父の死からもう3年が経ち、やっと母と落ち着いた生活ができるようになったと思った矢先の出来事だった。

「母が死ぬなんて…嘘だ。ヤブ医者め!」

「残念ですが、本当です。半年後には1人で生活することが困難になります。そしてその半年後には、恐らく、もう。」

「なんだ?つまり母はあと一年で死ぬってことか?ハッキリしろよ!」

「はい。もって1年です。正直、あと10ヶ月生きられるかどうかです。」

私は床に崩れ落ちた。私の画家になりたいという夢を誰よりも応援してくれていた母に、なんの恩返しもできないのかと。応援してくれた母に、日頃の成果を見せてあげたい。もう母が私のことを心配しなくていいように、せめて、私が画家になってから天国へ送り出してあげたかった。

ここで私は閃いた。

美術学校に受かって、母を安心させよう。私はそう決心した。

私には妹が1人いた。母の看病を妹に任せ、私はウィーンの美術学校へと再び向買うため、仕事を探し、金を稼いだ。およそ半年が経った。余命10ヶ月だった母親は、いつの間にか、あと3ヶ月しか生きられない程にまで病状が悪化していた。毎日癌の治療で苦しむ姿は、正直、見ていられなかった。母が死ぬのも怖い。それに、私が同じように癌で死ぬのも怖い。病気が憎かった。

私は急いでウィーン美術学校に向かい、試験監督に直訴した。

「お願いします。試験を受けさせてください。母が病気で余命3ヶ月なんです。美術学校に受かって、母を、安心させたいんです!どうか、お願いします。」かつて、人にこれほど頭を下げたことが、この時ほどあっただろうか。考えてみても、この時が、人に頭を下げて慈悲を乞うた最後だったと思う。

「君は、どこの部門の受験を希望しているのかね?」

「はい。建築科でございます。建造物を描くことには自信があります。」私は持参したスケッチブックを見せた。

「ほう、これは驚いた。この教会の絵なんか特に上出来だ。わかった。特別に試験を許可してやろう。ただし、合格基準は厳しいぞ?」

「ありがとうございます!精一杯頑張ります。」

私は、特別に試験を受けることを許可された。自分を唯一認めてくれた母との約束を果たすための最後の戦いだ。


通常なら1週間ほどで試験結果が分かるのだが、特別受験ということもあり、試験結果が出るまでに1ヶ月ほど待つことになった。その間私はウィーンで絵を描いていた。ひたすら描いていた。母の治療費を工面するためだ。無名の画家ではあったが、売れば多なりとも金になると思ったからだ。1日に2枚は欠かさず描いた。多い時には3枚、4枚と描いた。売れ行きはあまり芳しくない。どんなに高くても200クローネ程で鉛筆12本分の値段だった。

ワインセラーのオーナーに、私が描いたぶどうの絵を20000クローネの値段で譲ってほしいと頼まれた時はとても嬉しかった。初めて自分が正当に評価された気がした。試験結果の発表まで1週間ほど残っていたが、私は、母のためにその売上金を持って故郷のブラウナウへ向かった。

私が故郷に戻った時、母の病状はとても深刻な状態だつた。痛みで悶え苦しみ、身体は痩せ細り、ベッドから立ち上がることすらできないでいた。

父親は死に、母親も癌で余命少ない。私もいずれベッドの上で苦しみながら死ぬのだろうかと思うととても怖くなった。

医者が来ていたようなので、稼いで来たお金を渡した。

「お願いします。このお金で、どうにか良くなりませんか?」心の底から母の状態が良くなることを私は望んだ。私の夢を唯一肯定してくれた母に、自分の活躍を見せたい。恩返しがしたい。そう思ったからだ。しかし、現実はそううまくはいかなかった。

「そうは言ってもね、これはお金の問題じゃないんだ。本人の生命力の問題だよ。もう長くはないだろう。いつ死んでしまってもおかしくない状態だ。」

「…そうですか。」

「昨日の夜、呼吸が止まってしまってね。急いで処置をしたんだ。危なかったよ。」

「ということは、先生は昨日の夜からずっとここにいらっしゃるんですか?」

「いや、先週からここにいる。ほとんど寝ないで看病しているよ。でも、あまりにも疲れている時は妹さんにかわってもらってるけどね。」

「分かりました。ありがとうございます。正直、母はあとどのくらい持ちそうなんですか?」

「言いづらいけど、2、3日ってとこだろうね。」

それじゃ、合格を母に伝えることが出来ない。なんのために頑張ったのか分からない。私は泣き出していた。

「これからは僕がずっと母のそばにいます。」今までいなかった分、せめて最後の瞬間だけでも看取るろうと思ったからだ。

「ウィーンから帰ってきたばかりで疲れているでしょう。少し休んでから看病を始めた方がいい。」

「いいえ、大丈夫です。やります。」

「わかった。じゃあ君は母の状態を見張っていてくれ。何かあったら私を呼ぶんだ。」

「分かりました。」

医者は部屋から出ていった。きっと、私と母が2人で話せるように気を遣ってくれたんだと思う。

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