第9章:酔雨
「数年前に聞いた話なんだけどね。東北の方に小さなバーを構えている男がいたのよ。そして、結論から言えばその男は繰り返しを生きていたの。」
十日金曜日の今日は、ひどい雨が降っている一日だった。ここのところずっと晴れていたため、毎日のように撮影していたが、その間の鬱憤を晴らすかのような凄まじい雨だった。朝からこの京の盆地へ流れ込んだ雲は、多量の雨だけではなく相当な風をもたらした。今日は屋外の撮影はできそうもないし、ましてやどこかの遠くの屋内まで移動するのが躊躇われる雨だった。僕らはそれぞれの住まいの中間あたりにある小さなカフェに朝から集まり、ずっと話をしていた。この店は若い男性が一人で切り盛りしていて、地元の野菜を使用したサラダパスタが看板商品だった。店に入ってすぐに僕は辛味噌にあえたひき肉の乗った麺、涼音は麺つゆベースのさっぱりとしたサラダパスタを頼んだ。屋根を叩く雨の音と、店主の奏でるコップの音だけが聞こえた。もちろん店内には僕らしかいない。
「その男は店の近くにある崖が好きだった。雨ざらしになって、徐々に削られてできた岩肌を見ていると、心を風が凪いでいくようだった。そしてある日気づいたの。毎日来る乗客が同じことに。彼らはみんな同じ話題を口にして、同じものを注文していった。そして、同じ一日のはずなのに、崖は目に見えて欠けていった。」
涼音が外を見る。外は雨が腰の高さまで跳ね上がりそうな土砂降りだった。
「欠けた崖を見て男は思った。『ああ、なんて美しさなんだろう。日に日に洗練されるこの変化は一体なんなのだろう。この崖の変化を見届けられるのならば、この永遠の一日を何度繰り返してもいい。』ってね。」
「ふむ。」と僕はいった。
「その男は昼にひたすらに崖を愛でた。そして夜になると毎日同じようにグラスを磨き、同じ客に毎日同じカクテルを提供した。そんな日々をずっと繰り返したの。」
「僕ならきっと、頭がおかしくなってしまうだろうね。」
「でもその男は毎日が幸せに満ちていた。その日々が永遠に続くことを願っていた。でも、もちろんそれは永遠ではなかった。」
「というと?」
「男が繰り返しを続けていたある日、崖の変化が急に大きくなった。今までは平均的に、それでもはっきり分かる程度に削れていたものが、その日は大穴が開くような、ごっそりとした空洞を形成していた。男はショックを受けたけれど、それでもしっかりとバーを経営した。でも、その日、客は誰もこなかった。それで、違和感を覚えつつも諦めて店を畳もうとしたとき、急に棚のグラスが崩壊したの。」
「それはどうして?」
「さあ。それはわからない。でもひとりでに崩壊したグラスはカウンターの床にどんどんと積み上がり、破片がうずたかい山を作った。男はそれをただ眺めていることしかできなかった。そして、翌日崖を見にいくと、そこには何も残っていなかった。崖があった名残すら残されていなかったの。まるで初めからそこが平野であったかのように、そこには田んぼが広がっていた。」
「不気味な話だね。」
「そうね。でもきっと、その男は報いを受けたのよ。自ら享受している幸福に対して何も報いなかった、その報復を受けたのよ。誠実の反面がただ何もしない人間であるように、その男は罰を受けるに値する罪を犯し続けていた。」
それからもずっと雨は降り続けた。昼過ぎくらいに僕らは昼食を注文し、四時くらいに解散した。今夜のアルバイトも、これほどの雨ならばさほど混むことはないだろう。バーというのはその特性上、あまりにひどい雨や熱帯夜には人が減る傾向にあると僕は考えている。今日のように、一日中ダムの放水のような雨が続くようであれば、おそらく客足は遠のくだろう。僕は傘をさし、涼音を送り届けてから最寄りの地下鉄へ向かった。どんよりとした夜が始まろうとしていた。