第8章:結露
私はナツノよ。春夏秋冬の夏に、折れた刀の乃と書いて、夏乃。
その女性は話し慣れた説明文のように、程よいアルトでそう名乗った。
「あなたはまだ五歳くらいよね? 予定ではあと三年ほどかかると思っていたから驚いたわ。」相変わらず全然驚いていないようだった。
「ここはどこなんですか? いったい…」
自分の声に驚いた。ものすごくわずかな違いだが、私の声ではない。他の誰かの声になっていた。
「まずは私の紹介からしましょうか。涼音ちゃん。私は魔法使いではないけれど、この世界のことを大体知っている女だ。」
「まず結論から言うなら、君は死んだ。私は真夏のホームであなたが死ぬのを見ていたし、今もこうして目の前のあなたを見ている。私は、どの世界にも存在する妙ちくりんな存在だ。並行世界が縦方向に時間として流れているとしたら、私は横方向にいる私と記憶を共有できる。だから、どんな世界のことも知っているし、これからどんな事象の可能性があるのかも把握している。だからこそ、この変化のない土地で私は暮らしているわけだ。可能性が狭まれば余計なことを知らなくて済むし、少なくともこの世界の私は楽に暮らすことができる。他の世界のことは他の私に任せて、私はテレビを見るみたいに他の世界を覗き見て暮らしている。」
「その死んだあなたがどうして生きているのか、簡単に説明するのは難しいのだけど、要は線路が切り替わったようなものだ。君が死ぬことが一つのスイッチだったのさ。真夏のホームの君は死に、代わりにこの長野の山奥の君になった。これからもこの生活は続くだろう。この先君はとても短い期間しか同じ場所に留まれない。なぜなら君は死んだからだ。死んだ人間が生きていること自体が不安定なのさ。不安定な可能性という概念の中でしか生きられない君は、君という意識を他の世界に逃がしながら生きていくしかない。」
私はこのナツノという女が何をいっているのか、わかるはずもなかった。しかし、あまりいい知らせではないということは直感的に理解できた。
「簡潔にいうなら、そうだね、世界が君の存在を見逃しているということだ。君が死んだということをまだ世界は知らない。だから君はコロコロと世界を移動しながら、その監視の目から逃れているわけだ。そう考えると少しはワクワクしてこないかい? 君は世界相手のかくれんぼをしているんだ。」
「かくれんぼ、ですか。」
「そうだよ。そして、私は君がかくれんぼを始めたこの瞬間から、君の保護者としてどの世界でも世話をするということになっている。これから先、君が何度時間を旅しても、その先で私が君を保護するから安心してくれていい。君は全ての並行世界においてたったひとつの存在になったが、私は対極に全ての世界に存在しているからね。」
「これからは、あなたが私のおかあさんなんですか。」
「そう思ってくれていい。まあ厳密には私は君の叔母の存在にあたるけれどね。予定よりずっと早かったが、これからはよろしく頼むよ。」
そう言うとナツノは立ち上がり、壁際のワインボトルを持ってきた。机の近くのグラスにそれを注ぐ。赤ワインのようだ。こちらまでわずかに葡萄の香りが漂い、部屋の灯りもほんの少しだけ暖かくなったようだった。
「これから夕飯を作るが、何かリクエストはあるかい? といってもあまり腕前に自信はないんだが。苦手なものがあるならそこは配慮しよう。」
「ええと。ピーマン以外なら大丈夫です。多分。」
「そうかそうか。じゃあそこに座っていてくれ。飲み物はお茶でいいかい?」
ナツノは笑って立ち上がると、そのまま奥のキッチンへ行き、ペットボトルの緑茶を渡してきた。キャップを回し、流し込む。冷えた緑茶が、体に行き渡るのを感じた。いつの間にか感じていた寒さは和らいでいて、ようやく人心地がついたようだった。
やがて何かを痛めるような音と、胡椒のいい香りが漂ってきた。しかし、私の五歳の記憶はここで一度断絶していた。翌朝ベッドで目を覚ましてナツノに聞いた話では、疲れて寝てしまっていたらしい。
それからの間、私は長野の山奥で生活した。幼稚園にもいかず、毎日ログハウスの前の草原で遊んだ。両親はいなかったけれど、寂しさは感じなかった。ナツノは昼は木こりのような仕事を行なっているらしく、家を留守にしていた。やがて夜になるとナツノと夕飯を食べ、一緒に風呂に入り、一緒に眠った。そんな生活が三ヶ月続いた。遷移が予定されている前夜、ナツノは同じ布団に入り、いくつかのことを伝えてきた。
「涼音ちゃん。君はきっとこれから自らの体質を呪うようになるだろう。それはどうしようもないことだが、どうしようもなく残酷な事実でもあるからね。そしておそらく、どの世界でも唯一君を認識しうる私に、どうしても依存してしまうだろう。でも私は、できれば君にはこの世界の人と強く深い交流を持って欲しいと思う。予定された別離であっても、私に依存するだけの無意味な生活よりはずっと確かな質感を持っているはずだ。その価値を、これからを生きる君に感じて欲しい。」
「ナツノさん。ありがとう。」
そしてその一日が終わった。
「行ったか。」と夏乃は呟く。
そこにはわずかに体温の残る布団のみがあった。