第7章:草滴
夜が沈む。この世界の朝────。
目を開ける。ぼんやりとした頭で時計を見ると、まだ朝の五時だった。もう一度目を閉じる。今の私にふさわしい歌を考える。与謝野晶子。
『御目ざめの 鐘は知恩院聖護院 いでて見たまへ紫の水』
目を閉じ、自らの内側にフォーカスすれば、そこはもう知識の海であった。偏りはあるし、とても狭い海ではある。しかしそこには、二十年という歳月では得られるはずのない量の知識が、茫漠たる物量が、確実に私を沈めていく。
この世界に来て、私は時間をすりつぶすほどに噛み締めながら生きてきた。彼の隣にいられるこの時間を、何よりも強く記憶し続けた。
私がこの体質を発症したのはいつからだろうか。もちろん決まっている。それは五歳のときだった。
五歳の時に、私は死んだ。あるいは死んだのだと思う。なぜならそのときの記憶は、今はもう、残っていない。
あの日、私は電車で家族と旅行に出かけるところだった。行き先はわからない。幼い私はただ無邪気に、ホームではしゃぎながら待っていた。夏のことだ。恐ろしく暑い日で、線路やコンクリートに反射した光が肌を確実に焦がしていくのが感じられた。蝉の声がした。ホームからは海が見え、太陽の光に照らされた水平線が、首飾りをつけたかのように光り輝いていた。帰省のシーズンのなのか、ホームには人が多く、私と同じくらいの子供もたくさんいた。
やがて、ホームに電車が近づくアナウンスが流れる。そのとき私はホームのやや線路寄りにいて、両親は私の横に立ち、旅のパンフレットを見ながら話し合っていた。電車が来る直前の、あの淀みに似た感覚の一瞬後、私は線路の真上を、体をプロペラのように回転させながら浮いていた。記憶が断絶していたが、後ろから強く突き飛ばされたのは理解できた。そのあとのことはあまり覚えていない。五感がバラバラだった。電車の警笛と、蝉の声と、眩しい海。激しすぎるくらいの照り返しと、空気の柔らかさと、ホームの、反応の追いつかない人々の顔────。
気がつくと、私は草むらの中にいた。腰ほどの高さの草むらだ。絵に描いたような緑色に、絵に描いたように一面に続く草の原。奥の方は森林になっているようで、地平線まで草原ということはないが、それでも相当な広さがあった。次に感じたのは気温だった。寒い。それが最初に口に出た。自らを見下ろすと、見たことのない服を着ていた。薄手の、ピンク色の長袖だ。また、その上からジーンズ生地のオーバーオールを着ていた。まるで季節が突然秋になったようだった。しかし、涼しさの類が高山のような清涼感と似ていたのは不思議だった。空は雨を蓄えた雲で覆われ、手の届きそうなところまで立ち込めていた。私は真夏のホームにいたんじゃなかったっけ? 私は死んだことも忘れ、息をいっぱいに吸い込んだ。
後ろを振り返ると、そこには丸太を組み合わせて作られたようなロッジがあった。スキー場にありそうな三角屋根の家だ。真ん中の入り口には階段があり、両側はベランダのようになっているところも典型的だ。近寄ってみると、きれいに手入れがされているらしかった。階段を上がり、扉をノックする。その時の私にはそれ以外の選択肢がなかったし、何よりその扉が私を呼んでいた。
中から返事はなかった。扉には鍵穴があったが、ロックはかかっていなかった。幼い私はどうしようかと立ち尽くしたが、他にどうする手もない。私はそろそろとロッジの中に入った。
内部も典型的な構造だった。玄関は日本のアレンジなのか下足場があり、そこで靴を脱ぐ。私の靴も初めて見るものだった。奥には左右と奥の三つの扉があり、左右の扉はそれぞれ広めの部屋につながっている。その二部屋は左右対称のようになっており、ベランダから光が差し込んでいた。正面の扉はキッチンや浴室、トイレにつながっており、部屋が少ない分、いずれも大きな作りとなっていた。
私は玄関から見て左の大部屋で家主を待つことにした。この部屋には壁際に古典的な暖炉があり、薪を拝借して火をつけた。今にして考えると、五歳ながら落ち着いていていたし、よく使い方を知っていたなと思う。とにかく私は薪をくべて、部屋に火をつけた。夏のこととは思えなかった。部屋には真ん中に大きな赤いソファが置かれていて、私が寝転んでも十分なサイズがあった。ソファの後ろには振り子時計が置かれ、今の時間を示していた。十六時。日付はわからない。
どうしてこうなったのだろう。泣いてもいいと私は思った。でも泣けなかった。今のこの状況がわかるまでは泣くことはできない。涙は感情で、それが今を理解する妨げになると私は理解していた。それを言葉として自覚はできなくとも、それくらいには利口な子供だった。
部屋はどんどんと暗くなり、やがて薪の灯りだけとなった。明かりをつけなくては、と思った。しかし薪の光は部屋全体を照らすにはあまりに弱々しかった。ソファの正面には空になったワインボトルが置かれていた。それを通して薪の光を見る。揺らめく淡い緑の光だ。私はそれに見入った。炎は不思議だった。時間の流れを感じさせなかった。夏とも冬とも知れぬ季節に、私はどうしようもなく孤独だった。時間さえも私を放置した。
どのくらいの時間が経っただろう。振り子時計の時間は見えない。やがて玄関が開く音がした。家主だろうか。私の靴が置いてあるから、きっと気づいたはずだ。やがて部屋の扉が開かれる。冷気が流れ込んできた。思った以上に外は冷えているらしい。ゴソゴソと服が擦れるような音がして、部屋に明かりが灯された。
暗闇に慣れた私は突然の灯りに目が眩んだ。やがて白が色を持ち始め、まずソファの赤を知覚した。そして、正面に立つ人影と目があった。若い女性だ。薄手の白いダウンジャケットを羽織っている。それほど背は高くない。そして、目のサイズと圧倒的に釣り合っていない大きな丸眼鏡をかけていた。顔の印象の八割以上がその眼鏡に独占されている。明らかに似合っていなかった。だが、総じて比較的整った顔立ちだと思う。化粧っ気は全くないが、美人といっても差し支えはない。しかし、その眼鏡は明らかにその人物を異質なものにしていた。
「思ったよりもずっと、君がこちら側に来るのが早くて驚いたよ。」と、その女性は言った。全く驚いていない様子で、そう言った。