第6章:枯山水
予想通り、光明院にはほとんど人がいなかった。まだ色づきの浅いもみじの足元には芝が植えられており、それらは手入れが行き届いていた。光明院は観光地として有名な東福寺の一部であるが、観光名所の紅葉エリアから若干離れていることからか、混雑時期でも比較的穴場のスポットだ。涼音が御朱印の記録を依頼している間に、僕は撮影の許可を得ることにした。趣味程度のものであれば撮影許可が必要な場合は限られるが、展覧会等に出展する可能性がある以上、許可は礼儀として必要なことだ。幸いなことに許可はあっさりと下り、僕らは光明院で最も有名な円形窓に通されることになった。
光明院の内部は古くからある平屋の住居のように吹き抜けた構造となっていて、庭に面した壁側は左側が縁側、右側が円形窓となっていた。縁側の奥は畳の部屋が三部屋にわたって続いており、襖が開かれていたため、まるで一つの大部屋のようになっている。庭は枯山水のように石庭で、奥の方には紅葉や銀杏が植えられていた。僕らはまず縁側に腰掛け、撮影の準備を始めることにした。ポートレートにおいては様々な撮影方法が存在するが、遠くから風景と被写体の全身を入れるのではなく、必ずぼかしを入れるのが僕のこだわりだった。僕は数メートルの距離を開け、ファインダーをのぞいた。涼音の伏した瞳が正面の庭園を見据えた。ああ、これだと思った。気づけばシャッターを切っていた。
黒紫色。
彼女の瞳は、小さい時に公園で何気なく見つけたガラス玉に似ていた。
次に僕は縁側から外に出て、三脚を立てた。ちょうど屋内を背景にする構図になる。そしてファインダーをのぞき込む。石庭の白さが自然のストロボとなって涼音を照らす。僕は一心にシャッターを切った。ここには人も、落ちる葉もない。時間の流れが止まっているようだった。世界から取り残されたようなこの世界で、彼女は眩しく、あまりに儚すぎた。ほっそりとした腕が真珠のようにきらめく。僕は胸が苦しくなった。二人で話すとき、たしかに涼音はそこにいる。しかしファインダー越しの彼女は実体感が薄く、僕をどうしようもなく不安にする。そして、あとひと月という猶予はあまりに短く、僕の心を残酷なまでに圧迫した。
「ちょっと待っててね。」と彼女は言い残し、手提げの一つを持ってどこかへ向かった。僕はその間、縁側に腰掛けながら石庭と向き合った。鳥の声がした。
撮った写真のチェックをしようか、とも思った。しかしそれを僕はしなかった。石庭は何も語りかけてはこなかったが、石庭を通した自分が声をかけてくるようなそんな予感があった。禅を皮切りとする行動というのは、およそ自らと対話するような、そういう意味合いを含んでいるというのが持論だ。この石庭との会話もきっとそういう事柄の親戚なのだろう。僕は時の止まった縁側に座し、葉が落ちないのをずっと見届けていた。
涼音が戻ってきたのは、それからさらに少し時間を置いてからだった。葉が一枚落ちてしまいそうなくらいには時間がかかった。彼女は浴衣だった。桃の色だ。上半身は白だが、下にいくにつれて桃色のグラデーションがかかっていた。袖の部分には控えめな花が彩られていて、春のような落ち着いた印象を与えた。
「どうかな。似合うかな。」と涼音は伏し目がちに聞いた。
「うん。ものすごく。ものすごく似合っているよ。」
事実、浴衣は涼音にとてもよく似合っていた。むしろ違和感すら覚えないくらいに、涼音に浴衣は馴染んでいた。少し動くと、浴衣の隙間から涼音の細い首が見えた。僕は息が苦しくなった。このリアリティを失う怖さが、急に足元から這い上がってきた。やがてその冷気が僕の体を上り、体の芯が冷えていくのを感じた。僕は目を閉じ、その想像を追い払う。大丈夫。涼音はそこにいる。一度深く呼吸して体の空気を入れ替える。
僕らは窓の前に移動した。この窓はただ丸くくり抜かれているだけではなく、内側に幾何学的な格子の木枠が組まれていて、差し込んだ陽だまりの影が不思議な形を描いていた。涼音は窓から少し離れたところに座り、その影を静かに見つめた。陽だまりの反射がストロボになる。僕は反射的にカメラを構え、そのまま数枚のシャッターを切った。浴衣の存在感がより際立つ構図だった。カメラではなく記憶に、その姿を必死に焼き込んだ。
そのまま僕らは、小一時間ほど撮影を続け、その日の撮影は終了となった。