第5章:箱庭の水滴
三日金曜日の今日は、昨日までの気候を忘れたかのような暑い日だった。今年は比較的涼しい夏だったが、昨日までの涼しさに慣れていたためか、三十度を超える日差しは僕らに堪えた。涼音は紺色のロングスカートに五分袖の淡い青色のシャツを着ていて、髪は高い位置で一つ結びにまとめられていた。歩くたびにその髪はさらさらと左右に揺れ動き、細い首筋がまばゆく反射した。服装や髪型について、僕は事前に何も指示はしていない。しかし彼女がどんな服装をしていても、それは写真の一枚になった。
今日の目的地の光明院は、大学からバスで向かうことになる。東山エリアに属するこの地は、紅葉の時期になると多くの観光客で賑わう場所で、特に円形に縁取られたのぞき窓からの紅葉が人気だった。今の時期は紅葉にはまだ早く、平日ということもあって人も少ないだろうと予想していた。実際にバスに乗り込むと、そこには運転手以外に誰一人、乗ってなどいなかった。僕らは一番後ろの五人掛けシートの端に座り、窓側の彼女は外を眺めた。
窓枠に軽く肘をかけて風景を見るという構図は、誰であれ、ある程度は様になることが多いが、涼音は別格だった。僕は写真を撮ることも忘れたまま、目的地までその姿を受け止めることしかできなかった。
やがて最寄りのバス停のアナウンスがかかると、彼女はそっと上体を起こしてブザーを点灯させた。窓枠から上体を起こし、ブザーに触れる、その動きにすら、僕は流れのようなものを見ることができた。茶道の礼儀のような、洗練された動きがそこにはあった。僕らはバスを降りると、そこから続く坂道を登り始めた。道の両側には多くの店が立ち並んでいて、いくらかの観光客が散見された。まだ十時にも関わらず、モーニングということで多くのカフェが開いている。涼音は店前に置かれたお品書きを見ては、別の店へと次々に渡っていった。
ふと、坂道の中腹ほどに差し掛かって彼女は振り向いた。
「写真を撮る前になにか冷えたものを食べたい。新山くんはどう?この暑さはどうかしているわ。」
「そうだね。僕もこのままではとろけてしまいそうだ。このあたりのお店できになるところはあった?」
「それならここがいいかな。雰囲気が外観から伝わってくる感じがするの。」
涼音が暖簾をくぐった店は、おそらくは古民家を再活用したカフェであった。「sccaraphaes」と書かれた扉を開けると玄関と靴箱があった。店員に促されて店内に上がると、奥には小さな縁側がある。このカフェは奥に正方形の吹き抜けの中庭があり、その周囲を取り囲むように縁側が配置されている。入口から縁側へ続く道には左手に行くつかのテーブル席と、右手にキッチンとカウンターが置かれていた。僕らは奥の縁側席へ通され、横に並んで腰掛けた。他に客はいないらしく、苔の生えた中庭ではスズメが二羽戯れていた。彼らの横には小さな皿が置かれており、おそらく餌であろう穀物が入っていた。外の風が縁側をぐるりと吹き抜け、絞られた日差しが中庭を照らしていた。
「とてもいいところだね。君のセンスにはいつも驚くよ。」
「ありがとう。でも私もこんな綺麗な縁側があるとは思わなかったわ。今日の目的地はもう近いの?」
「今ちょうど坂を半分と少し登ったところだよ。あと十分もかからずに着くだろうね。ただ今日はアルバイトがあるから、夕方には解散でいいかな。」
「ええ。それは全然気にしないで。私も大学に行こうと思っていたから。」
店員がやってきて、鈴音にメニューを渡した。少し厚手の藁半紙のような紙には、地元の野菜を特に多く取り入れたメニューが並んでいた。この店は特にモーニングセットなどを用意していないらしく、数多くの料理が印字されていた。涼音はメニューを一心に上から下まで眺め、僕に紙を渡した。どうやらすぐには決まらないらしい。僕はメニューを受け取って聞いた。
「目を通して気になったメニューは?」
「ここ、たくさんありすぎて迷うわね。特に気になったのは、麹を使ったオムライスに、お麩の厚揚げ、それから京野菜のトルティーヤあたり。」
「冷たいものは食べなくていい?」
「ここの気温がすごく快適で、すっかり忘れていたわ。せっかくの目的を消してしまうのもなんだか哀しいし、朝食の後に頼みましょう。」
「わかった。」
僕は店員を呼ぶと、オムライスと厚揚げ、京野菜のサンドイッチを注文した。
「新山くんの意見が全然反映されていないけどいいの? もっと食べたかったものはないの?」
「僕が食べたかったのは今注文した三つだよ。」
「三つ完全に一致させるのではなく、ひとつだけ外す気遣いができるのはとてもいいところだと思うわ。ありがとう。あとでデザートも見ましょう。」
風に流された雲によって中庭を照らす光が減少し、漂う粒子がきらきらと光った。今日は雨の香りがしない。僕らは特に話をしなかった。もともと話し上手というわけではなく、涼音が静かな時は自然と僕らの間には沈黙が横たわった。しかし、その沈黙はいくつもの会話を含んだような沈黙だった。僕はその沈黙の中で中庭を見つめたまま微睡んだ。中庭と僕と涼音の間に繋がりはない。しかし僕らは閉じられた完全な輪の中にいた。やがて店員がやってきた。
すぐにだしと卵の香ばしい匂いがそっと上ってくる。店員が下がると、涼音はそっとカテラリーボックスから箸を取り出し、僕に渡した。
「私たちの世界は確かに閉じているかもしれない。この中庭と縁側のように。でも上には開かれた世界があって、そこでは鳥が飛んで、星が落ちては浮かぶの。そういうのって、狭いようでとても広いと思わない?」
「そうだね。そこにこんな美味しいものがたくさんあれば、僕はもう最高だ。」