第4章:不可逆な氷
翌日から、早速僕らは一緒に行動することにした。通常、講義は必修科目と専門科目、基盤科目の三種類に分類され、必修科目については僕の在籍する生物専攻の学生が全員受けなくてはならない。しかし、今期の必修科目は二つしかなく、木曜と金曜の一限のみだった。履修登録の期限は十月の中旬まで変更できたため、僕は涼音と相談して、できるだけ同じ時間に講義を受け、空きコマを揃えるように心がけた。専門科目については、理学部で共通して履修できるものも多く、そこも揃えた。はじめ、涼音は専門科目などを共通化することに、足を引っ張るような抵抗感があったようだが、僕が押し通した。また、履修科目数もある程度減らし、自由に使える時間を増やした。二年次から科目数を減らすのは通常ないことだが、一年次から単位上限いっぱいの単位を取得し続けていた貯金があったため、卒業に差し支えはなかった。その結果、涼音と僕は木曜以外の時間を二人で使うことができるようになった。本来、涼音の在籍している物理専攻は、必修科目が相当数あるため、休みをそれほど取得することはできないのだが、涼音が佐久間教授と相談し、必修科目の履修自体を取りやめてしまったらしい。涼音曰く、どのみちあとひと月の生活であり、かつ履修登録をしていなくても受講自体はできる。とのことだった。
今日は木曜日で、僕は三つの講義がある。このうち、涼音も受けているのは二つで、佐久間教授の誘いがあったのが二限であった。一限は歴史を中心とした基盤科目で、内容は頭に入らなかった。二限の佐久間教授の講義は、履修生が多いということもあり、非常に混み合っていた。僕は涼音と共に最前列の方の席に座り、この講義の概要を説明されていた。
「この講義は、主に宇宙物理学を素粒子物理学の観点から解釈することを目的にしているの。計算過程は比較的飛ばしがちだけれど、その式から求められる結果や、その過程に用いられる定理などは丁寧に説明されるし、導出された解釈は現在の物理学を支えている。この分野は物理学全体においても比較的新しい分野と言われているわ。そもそも、素粒子物理学自体が比較的近代の学問であって、宇宙を正確に観測するようになって、初めて今日の講義内容は実証されたの。生物専攻には難しいだろうって教授は言っていたけど、新山くんならとくに心配ないと思うわ。」
やがて佐久間教授が入ってきて、プロジェクターやPCの準備を始めると、学生は自然と着席した。教授は教壇に立つと学生を見渡した。
「君たちが今存在している宇宙を記述するためには、宇宙物理学のみならず、素粒子物理学も必要とされている。ミクロとマクロの世界は一見正反対に見えて、それぞれに共通する定理が、まるで地脈のように流れているんだ。」
プロジェクターにスライドが映し出される。熱力学の量子論解釈、と題されたシンプルなもので、スライドがめくられるたびに、学生は一心にノートを取っていた。今日の講義の内容は、ミクロとマクロでの熱力学の解釈の違いについてだった。例えば、部屋に置いた氷は室温で溶け出し、水になるが、逆に、水がひとりでに元の氷に戻ることはない、というものが、マクロな世界における解釈である。一方、分子や素粒子の世界では、時間の流れが可逆的になっているため、氷も水もどちらに変化することもできる、という解釈になっている。教授は一枚、式が書き連ねられたスライドを表示した。おそらくディラック方程式の一部で、時間の可逆性を数式で示しているのだろうが、数学的な計算は僕にはわからない。周囲の学生はノートを取り続けていたが、涼音も僕も、教授の話とスライドのみに意識を合わせていた。
講義が終わり、学生は一斉に講義室を後にした。佐久間教授は片付けに追われていたため、軽く挨拶を交わして、そのまま食堂に向かった。教授と話すことがあるとしても、それは涼音のことになるだろうし、前回の雰囲気からしても彼女は席を外していたほうがいい。佐久間教授も同じことを考えているのだろう、これからは涼音経由だけではなく、僕に直接連絡をすると言っていた。
二限と三限の間には一時間の昼休みがあり、食堂はこの昼休みが最も混雑する。僕と涼音がいた理学部棟から食堂までは比較的離れており、食堂に到着した時にはすでに席は埋まっていた。僕らは食堂に隣接した購買部で昼食を買い、理学部の空いている教室を探した。小さな講義室が空いていたので、僕らはそこで食べながら、次に出かける場所のことを話し合った。明日の金曜日は午前に講義があるが、一度くらいは休んでも差し支えない。十一月ともなれば紅葉が近づいてきて、京都のどの場所も混雑が予想されるため、今のうちに回っておいた方がいいのだ。
「私は人があまりいないところがいい。人がいるとどうしても時間の流れを意識してしまうから。時間が止まったような場所があれば、それはもう最高。」
「それならば光明院にしようか。観光客の多くは、より定番の伏見稲荷に流されるから、ほとんど人はいないと思うよ。」
「京都の地理にはあまり深くないの。新山くんに一任するわ。」
涼音はおにぎりを食べ終えると、持参したPCで課題を始めた。僕も金曜の講義に備え、内容の予習を行うことにした。必須の教材はとても分厚く、およそ六百ページのハードカバーだが、できるだけ持参するようにしていた。
「それなら明日の九時半に集合にしよう。場所は西院駅でいいかな。」
涼音は頷くとPCに向き合った。僕は涼音の二列後ろに座っているため、彼女の背中しか見えない。僕らにはあとひと月しか残されていない。その間にどれだけ彼女を撮ることができるのだろう。僕はテキストを開いたまま、時間が過ぎるがままに彼女の美しい後ろ姿を見つめていた。