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黒紫色の被写体  作者: はんなりぼんやり
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第3章:雨の数の記憶

 佐久間教授との話を終えた僕は、そのまま背もたれに体重を預け、ゆっくりと目を閉じた。今は教授の話を整理しなくてはならない。五感のうち、最も割合の大きな視覚を遮断することで、少しだけ頭の回転に処理を割ける。そのまま体感で五分ほど、僕は考えることに没頭した。僕は外から見たら寝ているようにしか見えなかっただろう。しかし教授は何も言わなかった。教授の話はおおよそ二十分ほどだったが、その内容はひどく僕を混乱させた。僕は一度大きく息を吸って頭に酸素を届ける。それからおもむろに口を開いた。

「つまり、涼音はあとひと月で、この世界から消える、ということですね。」

「その通りだ。その対処法は現在わかっていない。厳密には死ぬわけではないが、僕らは彼女と話す機会を、恐らくは永遠に失う。」

 僕はもう一度目を閉じ、思考に集中した。

 教授の話した内容は、涼音のとある体質についてだった。

「質量を持つ情報はきみの身近にいる。」

 教授はそう言った。その言葉だけで、僕は全身を一本の細い針が貫くのを感じた。

「秋野クンはね、先ほどの並行世界を渡る単一個体だ。」

「彼女の体質は三ヶ月に一度発現する。彼女は先ほど話した単一個体に近い存在だ。だが、厳密には異なる。彼女は現在も、この一秒で無数に分岐した並行世界のどれにも存在している。例えば、今僕が新山クンに二択の問題を突きつけたとする。君が前者を選んだ世界と、後者を選んだ世界、その両方に秋野クンは存在する。これは僕らにとっては極めて普通のことだ。そのため、先ほどの単一個体とは違う。」

 佐久間教授は一度言葉を区切り、冷めかけたコーヒーをゆっくり飲んだ。

「しかし、彼女の体質は、それらの無数の分岐した彼女を、三ヶ月区切りで一つに収束させてしまうものらしい。三ヶ月という期間に分岐した並行世界にいる彼女は全て消滅し、今までいた並行世界のラインとは全く違う場所に、ランダムに移動する。三ヶ月で分岐した世界にいる全ての秋野クンは一つにまとめられ、僕らからは、彼女は消えたように認識される。重ねて言うが、三ヶ月に一度、彼女の存在はリセットされ、全く異なる世界に飛ばされてしまう。」

 そこで教授はもう一度話を区切った。

「それでは、彼女は今年十一月にリセットされ、僕らの前から姿を消す。彼女ともう一度会うことは、おそらく天文的な確率で不可能、ということですね。」

「天文学的な、というのも愚かな確率だろう。今、この瞬間も世界は無限の分岐の只中にある。我々は粒子の移動すらも厳密に定義することはできない。それらは不確定な可能性、つまり確率で示される。この世の粒子一つ一つの挙動を考えれば、今の分岐の数は、数えるという概念では量れない。」

「僕は彼女のこの体質について、秋野クンがこの世界に来た直後から相談を受けていた。よって彼女は当然ここの学生ではない。しかし、彼女が大学生の域を軽く超えた、深く広大な知識を有していることを知った。自らの移動の経験を素晴らしい解釈で僕に披露した。それを聞いたら信じるしかないさ。ちなみに、彼女の経験則では、世界を移動しても、その世界にもともと彼女がいたように改変が起こらないらしい。前の世界で大学にいても、家を借りていても、友達がいても、世界を渡ってしまえば何も残ってはいない。彼女はその世界を突然訪問した、パスポートのない外国人みたいなものさ。」

「涼音は孤独だったのですね。」

「そのとおりだよ。そして、これからも孤独だ。彼女は分岐した三ヶ月間の記憶を引き継いでまた移動する。それはつまり、三ヶ月の間に生まれた信頼や幸せを失う悲しみを、並行世界の数だけ感じているということだ。これは普通耐えられるものではないだろうね。僕はそれをなんとかしたいと思ったんだ。だから彼女に学籍を与え、様々な調査を行なっている。」

「僕には何ができるのでしょうか。」

「君には、残りのひと月、彼女とこれまで以上にたくさんの思い出を作ってほしい。それが秋野クンの望みだ。僕が彼女の立場なら、三ヶ月限りの交友関係なんて作らないだろう。事実、他の世界では常に彼女はひとりだったらしいよ。それでも今回、君に対してはとても強い関わりを求めている。僕も聞いていない理由が、秋野クンにはきっとあるのだろう。彼女がこの世界でも孤独にならないように、寄り添ってくれないだろうか。」


 教授室を出た僕は、涼音がいる図書室に向かわず、理学部棟五階の連絡通路に置かれた椅子に座った。この場所は屋根のある連絡橋のようになっていて、外の空気に触れることができる。外は涼音の言っていたとおり、すでに大粒の雨が降りしきっていた。五階にいるにも関わらず、雨が地面を叩く音がかすかに聞こえた。この場所はとても静かだ。五階の部屋は空き部屋であったり、使用頻度の低い部屋も多いため、この連絡通路を通る学生は本当に少ない。そのため、何か考え事が必要な時、僕はここで目を閉じることにしていた。

 僕はきっと、涼音のことが好きだ。それは以前から薄々感じていたことだ。意識して考えないようにしていたが、教授の話を聞いてしまってからはもう疑いようがなかった。息を思い切り吸い込むと、そこには雨の香りがした。それと少し、潮の香りがした。ひと月、と僕はぼんやりと考えた。ひと月というのはあまりにも短い期間だ。そして、この話を教授が話したのも、彼女の考えなのだろう。今僕にできて、彼女が望むことはなんだろうか。考えてもどうにもならないことは初めから考えないようにしてきたが、この話だけは考えずにはいられなかった。今までを望むなら、僕は何も知る必要はなかっただろう。僕は彼女と話をしなくてはならない。

 そのまま僕は二十分ほど動かなかった。頭が酸素を使い過ぎたせいか、身体がぼんやりと重い。薄い膜で包まれたような気怠い感覚だった。雨はまだ激しく降りしきっていたが、地面を跳ねる雨音はもう聞こえない。僕は立ち上がって腕を手すりにかけ、体重を後ろにかけて大きく伸びをした。涼音のいる理学部図書室は実験棟一号館の一階にある。僕は連絡通路を実験棟の方に渡り、そのまま階段で一階まで降りた。この激しい雨の日でも、学部四年(bachelor 4、通称B4・学士)や修士二年(Master 2、通称M2)、博士生(Doctor)は実験室にこもっているようだった。みな白衣をまとい、自らの論文を進めているのだろう。佐久間教授と親しくなった関係上、理学部の学士や修士、博士の人の顔と配属研究室はおおよそ把握していた。階段を下りながら、すれ違った人の名前や研究室を思い出しているうちに、目的の場所に到着した。


 理学部図書室には涼音以外に人がいなかった。ここには書庫以外に検索や計算を行えるタワー型コンピューターやプリンター、様々な企業からの求人パンフレットなども置かれている。この図書室は一階のかなりの面積を占め、東西にのびた構造を持ち、さらに入口が三ヶ所もある。一番東側の入口から順に、数学・物理系書庫、生物・化学系書庫、コンピューターエリアに分かれていて、これらは中で繋がった大きな一部屋となっている。彼女は設置されているパソコンで何かを検索しているようだ。蛍光灯の明かりに照らされた髪はゆるく一つ結びにされ、少し茶色を帯びていた。僕は涼音の後ろ姿をぼんやりと見つめた。軽快な打鍵音が途切れ、彼女はこちらに振り向いた。椅子が回転し、そのまま彼女と身体ごと向き合う形になった。

「思ったより早かったわね。もう少し時間がかかると思っていたのだけれど。」

「考え事においては、僕に限らず短距離選手の人は多いよ。佐久間教授もどちらかと言うと直感を大切にする人じゃないかな。」

「そうね。長い時間ぼんやり考え続けるよりも、短い時間で素早く潜った方が効率的だと思うわ。教授の話を聞いて、新山くんはどう思った?」

「僕は、今まで以上の何かを君と共有したい。これまでの関係を維持したいだけなら、教授や君から説明を受ける必要なんてないはずだ。君は意識的かどうかは別としても、今まで以上の何かを求めて僕に話した。違うかな?」

「きっと、そのとおりだと思う。私は新山くんに、この世界での生き方を教えてもらった。でも、それでは足りないのだと思う。私はあなたに、『それ以上』を要求している自覚がある。それについては本当にごめんなさい。」

 彼女は立ち上がり、深々と頭を下げた。僕はどうしたらいいのかわからなかった。三歩で届く距離にもかかわらず、それぞれが違う列車のホームにいるような感覚だった。佐久間教授の話が、急に現実味という重みを持って、僕の頭に浸透した。どうしても、ひと月という実感が湧いてこない。どうしても、彼女を真っ直ぐに見ることができない。

「僕は、できることなら君の隣で、これからも力になりたい。でも、まだ整理できていないことが多すぎる。」

 僕は下を向いたまま、それ以上何も言葉が出てこなかった。彼女は顔をあげると、一歩進み、僕を見つめた。

「新山綴くん。あなたにお願いしたいことがあるの。」

「私を、撮ってくれないかな。今まで以上に。」

 僕は肩に下げた鞄にぼんやりと視線を移した。そこにはポートレート撮影に使っているカメラとレンズが収まっている。これは入学当初に一心にアルバイトをして買ったもので、当時の僕にはとても大きな買い物だった。レンズは数種類持っていて、今は、近くの料理などを撮る用と、遠くの人物を撮る用が入っている。風景撮影のために始めたカメラだったが、今となってはポートレートの小さな展覧会に出展できるようになっていた。

「わかった。」

 彼女は少し目を細めて微笑んだ。僕はその目を見て、視界が狭まるのを感じた。

 帰り道についたころにはすでに雨は止んでいた。僕らは大学を後にし、そのまま地下鉄の駅へと向かった。僕と涼音の家は西院という場所にあり、互いの家の距離は二百メートルほどしかない。西院は観光地ではなく住宅街、あるいはビジネスエリアとして発展していて、京都市街の中ほどにありながら、観光客の混雑の影響を受けないという利点がある。また、路地を少し分け入れば、そこには古民家や小さなカフェが点在していて、非常に住みやすい街だ。西院には地下鉄を乗り継いで移動した。駅前のドラッグストアでいくつかの食料を買った後、僕らはそれぞれの家へと向かった。下宿先は駅から徒歩五分ほどの距離にある二階建てのアパートで、僕の部屋は二階の、階段を登った一番手前の角にある。涼音の家は僕の家のさらに奥側にあり、方向がほとんど同じのため、僕の家の前で解散するのが慣例になっていた。買い物を終えてからアパートまでの間、僕らはずっと無言だった。駅前は大通りの交差点になっており、交通量が多いため比較的賑やかだが、路地に一本入ると、そこは所々に古い家を残したとても静かな街だ。日没にはまだ時間があるが、京都の周囲は山々に囲まれており、夕暮れは早い。僕のアパートの前に着くと、涼音は立ち止まり、僕に背を向けたまま足元を見つめていた。家の前の路地は車が一台通れるほどの幅で、人通りもとても少ない道だ。先ほどの雨の影響で路面は濡れ、そこかしこで水たまりが暖色を帯びて光っていた。

「僕は君が消えると聞いて、精神の一部をもぎ取られたような気分になった。かつて、僕は心を許した人と突然に縁を切られた。あるいは自然に切れてしまったのかもしれない。どちらにしても、僕はもうあの悲しみを心に受け入れる余裕が残っていない。君をこの世界に留めおく方法は何も残されていないのかな。」

「方法は、一つもないわ。私が三ヶ月限りなのは、前々から定められていた摂理のようなものだから。低きに流れる水とか、空が青いとか、そういうのと同じ尺度なの。今までにも、私は何度も抗った。でもやっぱりうまくいかない。時間の流れはとても硬く、誰も越えることはできない。」

 彼女は顔を上げ、微笑んだ。その笑顔にはどのような感情が含まれているのか、僕には読み取ることができなかった。そこには雨の香りだけがあった。

 残りのひと月を一生の覚悟で、僕は生きなくてはならない。

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