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黒紫色の被写体  作者: はんなりぼんやり
1/9

第1章:この京の地にて

初投稿となります。

非常に拙い文章であり、大変恐縮です。

本当に少しずつ、更新していけたらと考えております。

最終的にそれなりに長いものとなる予定ですが、読んでいただけたらとても嬉しく思います。


「おいしい」は世界で一番幸せな言葉だと思う。そう彼女は言った。「おいしい」と彼女が言うときの笑顔は確かにとても素敵だ。

 ここは京都の西側、西大路御池にあるカフェで、様々な標本や植物が飾ってある。麻で織られた暖簾をくぐり、スライドの扉をからからと開けると、陽の光が差し込んだテーブルがいくつも並べられている。この店は奥に伸びた造りとなっていて、手前にテーブル席、奥にキッチンと併設されたカウンターがある。カウンターの背後と、テーブル席の天井は窓があり、その日の陽の明かりを取り込んでいる。テーブルは透明で、テーブル板の下にはたくさんの植物や鉱石が飾られている。また、壁には多彩な色を持つ石が並び、図鑑が本棚を埋めている。テーブルの数は比較的少なく、カウンターが四、五席と、二人掛けが五つあり、いずれも植物と陽の色で葉桜の緑のような色に包まれていた。僕らは入り口に近いテーブルに向かい合って腰掛けていた。十月一日の水曜日、今日の大学講義はお互いにない。寡黙な店主以外に誰もいない温室で、彼女はとてもよくしゃべった。

「世の中の小説って大体一人くらいは無敵な人がいると思うの。そういう人に主人公が相談する場面とかあると、あーもう大丈夫だろうなあって思うし、彼らはそういう時の手助けがもう天才なの。そういう人がいると小説って退屈に思える時もあるのだけれど、それ以上に主人公ってうんざりするくらい何度も苦戦するじゃない?そういう時に役に立つようなアドバイスであったり、お助けアイテムであったりを事前にプレゼントしてるのよ。何手先までも読んでたりしてね。」

 初めて彼女が話しかけて来た時は、身振り手振りがとにかく多い人という印象だった。出会ったのは大学の近くの喫茶店だった。今年の八月、つまり大学二年生の夏で、期末試験を間近に控えていた。その喫茶店は今いるカフェとは違い、コーヒーを楽しむために特化させた、渋さを持った少し古びた空間だった。

「でね、私もそういう人になりたいの。たくさんの伝手があって、いつも飄々としてて、必要な時に求められる前にふらっと手を差し伸べるような、そんな人がいいのよ。どんな職業でもいいの。携帯ショップの店員でもいいし、鳶職でも構わない。とにかく私はそういうヒトになりたいの。」

 当時、期末試験を両手に収まらないほどに抱えていた僕は、隣に座った人のことを考える余裕がなく、一心にノートとテキストを行き来していた。ノートのページが大量に消費され、テキストが次々にめくられてはマーカーが引かれた。彼女は、マスターと軽く喋った後、僕が落ち着くのを待っていた。

「私はそういう人になれると思っているのよ。小学校の時からちょっと教室にいたずらしても見つからなかったし、高校で隠れてノートパソコンをいじっててもすごい偶然でバレなくてセーフだったりするの。こういうのって多分俗にいう才能だと思うし、これを役立てない手はないって私自身が強く訴えてくるの。」

 日差しの角度が変わり、標本箱のアメジストに反射した光が温室を華やかにした。綺麗に磨かれ、手入れされた爪が艶やかに光った。

 あの日、僕らが初めて出会ったあのとき、試験勉強がひと段落するまで、彼女は僕の手元をずっと見ていた気がする。いや、彼女を見る余裕がなかっただけで、実際にはずっと見ていたのだろう。視線はずっと僕の右手に注がれていて、僕にはそれを感じることができた。ペンを休めると、彼女は親しげに話しかけてきた。曰く、僕と同じ大学の同期、二年生であること。理学部に所属していること。出身が長野のため一人暮らしで、得意料理はミネストローネとだし巻き卵。そして名前は秋野涼音。

 涼音はそれらの内容をほぼ息継ぎなしで話し尽くした。実際には息継ぎをしていたのかもしれないが、僕には全くそれを感じさせなかった。そして彼女がそれを話し終えたとき、その時まで全く気づかなかったが、涼音の目が紫を帯びた深い黒であることに気づいた。その黒は黒曜石のような強さと水滴のようなたゆたさを持った色で、僕はその色に強く惹きつけられた。そして、これもまたそのあとになってから、涼音がとても美しい人であることを認識した。黒紫色の瞳は潤いを持って光を反射し、小さな口元は常に微笑みを湛えていた。涙袋の際立つ印象的な瞳と、少し控えめな口元は彼女の穏やかさを象徴していた。少し丸みを帯びた顔立ちだが、すらっとした鼻が印象をシャープにさせていた。全体的に線が細く、肩くらいまで下ろした黒髪は内巻きのウェーブを描き、光の加減でその色を栗色まで幅広く変えた。おそらくレーヨン生地であろう素材のさらっとした白シャツをまとい、細身のジーンズを履いていたが、それらの素朴さがより彼女を引き立てていた。そして、その日のうちに僕は彼女に被写体をしてほしいと依頼していた。今でも不思議なのだが、ほぼ無意識的に「写真を撮らせてほしい」と頼んでいる自分がいた。彼女は少し驚いた表情をした後、「私でよければ。」と言って少し笑みを深めた。そして僕に連絡先を記した紙片を渡し、二度振り返って去っていった。

「小学校のいたずらって一体どんなことをしたのだろう?」と温室の僕は尋ねた。

「それはもう色々よ。今思えばどうしてそんなことをしたのか全くもってわからないのだけれど、当時はとにかく必死だったのだと思う。だって、誰も私がするいたずらに気づかないって、それはそれで透明人間のようで悲しいことじゃない?」

「ふむ。」僕はいった。

このカフェに来てからすでに二時間以上が経過するにも関わらず、涼音のペースは止まらない。昨日も講義の後、それなりに長い時間話を聞いた気がするのだが、話題の種というのは彼女にとっては尽きせぬものらしい。それでも彼女のする話はどれを取り上げてもきれいな物語だった。涼音の過去は、彼女が綴ることでとても華のある歴史となって語られていた。

「ねえ、新山くんって自分が死んだ後のことを考えたことはある?死んだ後自分がどうなるかじゃなくて、自分が死んだ後のこの世界について。」

「僕は考えたことがないかな。考えてもどうにもならないこととか、なにも変わらないことなら初めから考えないようにしてるんだ。考えることで今の気分が沈んでしまうのがもったいなくて。」

「新山くんの言うとおり、確かに考えてもどうにもならないのだけれど、ついつい考えちゃうのよ。私が死んでも、私の生の痕跡はどこかに残るじゃない? でももし、万が一、私の痕跡が何も残らなかったら、誰の記憶にも残らなかったらって思うととても怖いの。自分が生きてきた時間も痕跡も、誰も覚えてなくて、なんの不整合も起きずに世界は回り続けるの。そんな世界が、私にはとても怖い。」

 彼女の瞳は本当にきれいな紫色をしている、と僕は思う。光の加減によってその紫色は濃淡を変化させ、彼女の表情を様々に写した。さらに僕らは一時間ほど話してから店を出た。先に僕が暖簾をくぐり、続いて彼女が外に出た。僕の背丈が百七十程度に対して、涼音は百五十五くらいなので、自然と見下ろす格好になる。ただ、今は高めのヒールを履いているらしく、普段よりも背が高く感じられた。

 このカフェは大通りに面しており、それらは京都の碁盤の目を形成している。大通りと言っても平日の日中は交通量が少なく、バスやトラックがまばらに走っているだけだ。駐車場の数やその値段から、京都の移動にはバスか地下鉄が手頃で、僕らも地下鉄に乗ってここまで移動してきた。観光地である京都の中でも、どちらかといえば住宅の多いこのエリアは観光客が少なく、とても静かでありながら、遠くに山を見ることができた。涼音が外に出ると、大通りに跳ね返った光は一気に輝きを増した。比喩などではない、と思う。盆地とはいえ、十月にもなるとすでに日中でも涼しさが少しずつ顔を覗かせている。その涼しさとともに漂う微粒子が、彼女がいることで一気に輝度をもつのだ。きっと涼音に撮らせてほしいと頼んだのも、この不思議な力があるからだろう。涼音はおそらく気づいていない。彼女は遠くにある山を見つめ、ゆっくりと歩き出した。僕は手元のカメラでそっと彼女を撮った。彼女の髪にピントを合わせ、すそ野から色づき始めた山を背景に収めた。シャッター音に彼女が振り返り、すこし気まずそうに笑った。この瞬間が、僕には一番好きだった。彼女には不思議な力がある。春にはパステルカラーの色彩がより深い色づきを持ち、夏には鮮やかさをよりくっきりとさせる。涼音を引き立たせる背景を探さなくても、彼女がいるだけで背景が華やぐような、そんな不思議な力だ。

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