間章・河野
とある山奥ーーー
目の前の惨劇……何の罪もない一人の社畜がトラックに轢き殺されるその音を河野彰は目を強く瞑り聞いた。
こんな非道な事をまともな神経で聞けるはずがない。
だから身体の震えは臆病ではなく、正常な反応だ。
だがそれでもざわめく心に耐え兼ねて私は雪月に繋がったスマホの電源を切り、窓の外に放り投げた。
どうにもこのスマホが汚らわしい物体のように思えてならない。
どうせここから行く世界にスマホなど不必要だ。
捨てても惜しくはない。
「殺したよ……全ては終わった」
「……っ!!」
気配もなくトラックに戻って来た赤毛の男に、私の心臓が大きく脈動する。
驚かせるな……この異世界の蛮人め!!
そう罵る対象は、信じがたいことに異世界の住人なのだ。
遡ること一週間前、「本当の」同窓会が開かれたその日、余興として行った異世界召喚。
とある古ぼけた本に書かれていたその内容を、酔いに任せて行ったことが全ての始まりだった。
まさか本当に異世界への門が開き、そこの住人が現れるとは思わなかった。
彼は名を「スルト」と言い、なんでも異世界の王様だと言う。
自らの王国に自分達を勇者として招待する……そんな都合のいいことを言ってきた。
ただしその条件として、一人の生贄が必要だと言う。
あからさまな悪魔の取引。
王様だという事が本当だとしても、こいつは人間ではなく悪魔の王ではないのか。
そんな疑問を覚えたのだが……そう、私はこんな取引なんて断ろうと思ったんだ。
その時、頭によぎったのは学生時代の充実していた日々とは落差が激しい、社会人としてのつまらない日々。
地位だけの能無し中年に頭を下げ、優秀な俺が……その優秀さを理解されず、こき使われる。
学力よりも身体能力よりも……ゴマすりとコネがモノを言う、自分にはどうしようもない世界。
気付けば俺と同窓会のメンバーはスルトの手を取っていた。
その後に「大学の先輩たる雪月の兄貴」に連絡。
相談の末に犠牲にする人物を雪月に決めた。
誰も反対しなかった。
同窓会のメンバーも。
雪月に兄も、そして母親も……。
「スルトさん……これで私は異世界とかに行って優遇されるんですか?」
どこにでもいそうな、おばさんとおばあさんの中間たる七十に近しい女性が、赤毛のスルトにぶしつけに質問する。
彼女の名前は小冬音……雪月の母親だ。
今回の雪月抹殺に彼女は加担している。
息子を生贄にすることに彼女は納得している。
だが私としては本当にそうなのか疑問で仕方がない。
もしかして何かの致命的な勘違いが重なり、彼女は殺されたのが自分の息子と知らないのではないか。
だとすれば……私は異世界で母親の壮絶な敵討ちを受けるのではないか。
今は亡き私の両親ならば私がこんな目に合ったのならばそうしただろう。
恐る恐る彼女にその事を聞くと、返ってきた答えは意外な物だった。
「あの子の目が嫌い、声が嫌い、顔が嫌い……表情が嫌い、態度が嫌い、生き方が嫌い」
そして母親から出てくる息子の悪口。
私はそれを静かに聞いた。
「疲れたと言い訳にして家事を手伝わない……注意してもお酒を飲み過ぎる、夜中に奇声を挙げる、怒っても改めない……私の言う事を聞かない」
「……」
「あの子と私は……合わなかった」
長々とした不満……その最期のセリフが真実なのだろう。
生理的に合わない。
なんか嫌い。
関わりたくない。
そんな理性ではどうしようもない感情。
母親と言えどその前に人間だ。
例え息子だとしてもどうしようもなく合わない事もあるだろう。
どうでもいい人間ならば、あるいは殺害し、自分の栄達のために犠牲にしても罪悪など感じない……それも自然な事だ。
心の中のもやもやとした感覚が消え去るのを感じる。
肩に乗っていた重い何かが霧散していくのに気付いた。
これは運命なのだ。
雪月がこうして悲惨な最期を迎えるのは運命。
私が何かしなくてもこうなることは決まっていた。
「でも、ゆきちゃんは好き……ずっと一緒にいましょうね」
彼女が隣にいた雪月より少しばかり年上の青年に抱き着く。
表情の薄い、病的に肌が白いその青年は雪月の兄、雪兎だ。
私の大学の先輩。
法学部を取り、卒業後に弁護士を目指し……就職できずに十年以上もニートを続けている。
自らの不甲斐なさからか、母親の言いなりになっているらしい……どうやらその母親のお気に入りらしいが。
(どうでもいいな)
どのみちこの家族に私は関係が薄い。
兄・雪兎とは学部も学年も違い、ただサークルが一緒だったというだけ。
雪月に至ってはただの同窓生に過ぎず、確かにクラスメイトだから気まぐれで挨拶することぐらいはあったが、顔もまともに思い出せない程度の間柄。
卒業アルバムをひっくり返す……そして義理で雪月の家に電話をかけ、本人の代わりに兄貴に繋がる。
その二つが重ならなければターゲットに選ばれることすらなかったぐらいだ。
そんな事よりも今後のことを考えるべき。
(やり直そう……自分の人生を)
一年前に親は海外旅行で事故に合って死んだ。
もう親に気兼ねする必要はない。
今、同窓会に参加した十一人の仲間と一緒ならばなんだってできる。
心は晴れやかだ。
学生時代のサッカー部時代を思い出す。
輝かしい未来を目指していたあの青春が帰ってくる。
俺は……幸せだ。