4 作戦変更
4作戦変更
英会話スクールのクラスメイト、ミソノはリツコの話を聞いて涙がでるほど大笑いしたけれど、お願いのほうは快く承知してくれた。
「わかりました。今日からしばらく一緒に帰ればいいんですね」
リツコはとりあえず胸を撫で下ろしたが「いやー、あたしてっきり二人が付き合ってるもんだと思ってました」と言われ、ぎょっと彼女の顔を見返した。
たしかに。リツコが帰って行くすぐあとをいそいそと追いかけるユウジの姿は、端からは示し合わせているように見えなくもない。
リツコはつくづく自分の遅すぎる「エウレーカ!」を呪った。よくよく考えてみればユウジとて三十前後の独身男性なのだ。だがリツコは無意識のうちに彼を「既婚者、不惑以上、高校生以下」と同じ脳内フォルダに入れていたのだった。
「そりゃそうですよ。あの人エントリーしてないもん」
ミソノの説によると、男女を問わず身なりをきちんとしていない人というのは恋愛という試合にエントリーしていないと見なされても仕方がないのだそうな。ユウジの昭和を思わせるような眼鏡と髪型は、自分は恋愛などどうでもいいと主張しているようなものだと。
「ボアマンを相手にするとはリツコさん意外に趣味悪い~って思ってたんです。いやー、違ってて良かった」
顔をしかめてやめてくれと言おうとしたところで、ふとひっかかる。ぼあまんとはなんぞや。
ミソノはリツコのきょとんとした顔を見て「あ、そうか。退屈事件のときはまだリツコさん入会してなかったんですもんね」と一人うんうんと頷いている。
退屈事件。それはユウジの入会直後のこと、カフェでの歓談中に起きた。
新入りの彼を快く受け入れたみんなは、会話にひきこむためにいろんなことを質問した。どんな仕事をしてますか。どんなことをするのが好きですか。リツコもそうしてもらった記憶がある。しかし二回目以降は減った。そりゃそうだ。いつまでもちやほやしてくれるはずがない。話に入りたければ自分から参加すればいいのだ。大人なんだから。
しかし話しかけてもらえなくなってからの彼はつまらなそうにそっぽを向いてソファにふんぞり返っていたのだそうな。その態度を見かねた古参の人が話しかけた。
「Are you bored? (退屈なんですか?)」
彼は答えたそうだ。
「Yes,I'm bored. (ええ、退屈です)」
言うか、普通、そういうこと。リツコの口はあんぐり開いた。
「だからわたし、言ってやったんです。So,You are boringって」
受動態のYou are bored.ならばあなたは退屈させられているという意味だが、進行形のYou are boring.だと……
あなた自身が退屈な人だという意味になるのだ。
「……で、彼の反応は?」
ミソノはうふふっと可愛らしく笑いながら、
「意味わかんなかったみたいです。ぽかんとしてました」
そう。ユウジは意外と英語力がない。受験英語の勝者にありがちなパターンだが、難しい単語は知っているし、文法も使いこなせる。文章でなら。なのに会話となると……つたないのだ。
それの一件があってから、ユウジはボアマンとか、ミスターボアとか、英会話退屈男とか呼ばれているのだそうだ。
言われてみれば、古参の人たちが何かの符丁らしきその言葉を囁きあっているのを、耳にしたことがあるような気がする。彼のことを指していたとは知らなかった。
「そういう相手なんですから、遠回しにしていたらだめですよ。はっきり断らないと」
リツコはひるんだ。
「でも……」
「リツコさんは、相手が自分と同じだと思ってる。こないだダニエルが言ってたじゃないですか。日本を出たら、空気読んでくれることを期待しちゃいけないって。はっきりとNOって言わないと通じないって」
「……日本だし。日本人だし」
「あれだけ価値観も常識も違ったら、ほぼ外国人です。宇宙人同然です。はっきり言わないとわからないんです」
「……でっ、でもね。いまはまだ、そこまでするほどのことじゃ、なくない?」
電話番号を聞かれたなら、夕食に誘われたなら、交際を申し込まれたなら、リツコだってきっぱりと断れる……と思う。
けれども現在のところ、駅まで一緒に歩くだけなのだ。
「……まあ、確かに」
ミソノも認めた。
「そこがボアマンの卑怯なとこですよね」
安全な場所からは出てこない。そのくせ強引。
ミソノが「ま、とりあえずやってみましょう」と言ってくれたので、リツコはほっとした。
いま、自分は「逃げた」とわかっていた。ユウジに嫌われたくないわけでもないのに、どうしてはっきり断れないのか、自分でもよくわからなかった。