3 作戦実行
3作戦実行
困ったことになった。リツコは頭を抱えた。迂闊だった。
現在おつきあいしている人はいない。しかしユウジとそういう関係になるなど、ネイルの先っちょのラメの小片ほどにも考えられなかった。
いまのところ社会人の礼儀としてにこやかに対応してはいる。けれども話をすればするほど、つくづく思うのだ。この人とは恋人はおろか、友人にさえなれない。
脈がありそうだと誤解を与えてしまった原因のひとつは、ユウジと話す時には必要以上に笑顔になっていたからかもしれない。だって気をつけてそうしていなくては「退屈そうな顔」をしてしまいそうになるから。
ユウジの話はつまらない。好む話題が文句や自慢だからというだけではなくて。
そこにリツコが入る余地がない。
例えばユウジがスクールの授業内容について「あれでは中学生レベルだ」と文句を言っているとする。リツコが受験英語ではないのだから易しい単語を使いこなすほうが大事なんじゃないか、などと自分の意見を述べたとする。すると反応までにしばしの間があるのだった。
そんなときの彼の表情は、不思議そうですらある。どうして絵が口をきいたのだろうとでもいうような。
そしてとってつけたように「まあ、fluentlyというのも大事な要素ですけどね」などと呟き、再び何事もなかったかのように一方的な自説の陳述に戻るのだった。
しかもフゥーエントゥイーなんて発音しやがる。流暢さって言えばいいじゃん普通にー、ラジオパーソナリティかオマエはー、とリツコがこっそりため息をついているのも知らずに。
つまりユウジがリツコに期待しているのは、ひたすらにユウジの言葉にうなずくこと。まあそうなんですかすごいですね。自分の意見は口にせず。感心しながらにこにこと。
そんなのは会話じゃない。接待だ。仕事でもないのにやってられっかそんなこと。
やってくれると信じて疑わないのは、脳天気なのか。傲慢なのか。世間知らずなのか。
というわけで、対策としてリツコは「さっさと帰る作戦」を考案した。授業が終わるやいなや即座にスクールを出てしまおう。
スクールにはカフェが併設されており、英語で歓談するスペースとなっている。しばらくそこでおしゃべりを楽しんでから地下鉄の時間を見計らって「シーユー」と帰るのがこれまでの行動パターンだった。楽しみにしていた時間なのだがしかたない。何度かこうすれば彼もリツコの気持ちを察してくれるだろう。
しかし夜道を歩くリツコの背後から近づいてきたのは小走りの足音と、「リツコさあ~ん」という呼びかけだった。
リツコの隣に並ぶと彼は言った。
「どうしたんです。今日は早いんですね。用事でもあるんですか」
ええ、あなたを避けましたので。……なんて口にできるはずがない。
しかし答えるまでのややしばらくの間と、曖昧な返答から言外に匂わせたものを読み取るのが日本人の心得というものではないか。
しかし彼はあまり日本人ではないようだった。英語もたいしてうまくないけど。
「それならそうと、言ってくださいよ。追いかけるの大変でしたよ」
えっ。
一瞬、歩みが止まった。あんまり驚いたのですぐには返す言葉を見つけられなかった。
「今日の授業はつまらなかったですねえ。ジェイムスは授業の準備が甘すぎる」
と、ユウジが何事もなかったかのように話し始めたので、リツコは言い返すタイミングを失った。
だってワタシとアナタは別にそういう仲では……約束して一緒に帰っているわけでは……。ぐるぐると文章にまとめられない言葉が飛び交う頭で、リツコは自分に言い聞かせた。いやこれは初回だからだ。何度も繰り返せば鈍い彼だっていつか気づく。そうに決まってる。
しかし何度同じことを試みても、ユウジはなぜリツコが早くに帰るようになったのかなどとは考えてみることすらないらしく、当然のように追いかけてきてはリツコの隣に並ぶのだった。
作戦は、変更せざるを得ない。リツコは苦い思いで考えた。