予測万能村
1
あらかじめ連絡を入れておいたはずなのに、訪問先のカツミ爺は不在だった。伝言メモが残されていて、今から東端の畑に行くと本人の声が聞こえた後に、機械の声で日付と時刻のタイムスタンプが再生された。今から四十分ほど前の時刻だ。カツミさん怒っているのかな、と小さくつぶやいてから、白衣の男は録音ボタンを押して伝言を吹き込んだ。
「村立病院の医師の黒川です。お約束の時間に遅れてすみませんでした。今から東端に向かいますが、念のためにこうして伝言しておきますね」
伝言パネルが生体認証を求めたので、彼は左目をカメラの位置に近づけて記録させた。機械の声が、伝言を一件お預かりしましたと抑え気味の抑揚でていねいに答えた。
村はずれの東端までは歩いて二十分ほどだ。黒川は少しの間考え込む様子を見せたが、すぐに止めてあった自分の自転車を押して山へと歩き出した。搭載機能の電動アシストを使えば軽く漕ぐだけ楽に行けるはずだが、あえてカロリー消費を意識して歩くことを選んだわけだ。どうせなら上り坂で今日の分を消費しておこう。後が楽だし、帰りの下り坂で発電しておけば、その分の電力売却でポイントも稼げることになる、ということらしい。
歩き始めて間もなく、黒川の大柄な体のすぐ脇を軽トラックが通り抜けた。通り越した先で止まった車から、アキラ爺が人なつっこい日に焼けた顔で声をかけて来た。
「これはせんせ、こんなところでトレーニングですか?」
額に汗が吹き出し始めていた黒川が、それを拭いながら答えた。
「ああ、アキラさん。いや今ね、カツミさんの所に行ったら東端の畑だっていうので、こうやって会いに行くところなんです」
「その自転車、アシストついてるってのに、何でまたそうして歩いて行くんですか」
「いや、ちょっとね・・・」
「なんだったら、この車に乗って行きますか?カツミんとこまでなら、ちょっと遠回りすればいいことだから」
「ご好意には感謝しますが、たぶんボクが乗るとリミッターがかかると思いますよ」
まぁやってみましょう、とアキラ爺は素早く車を降りると黒川の自転車を軽々と持ち上げてトラックの荷台に置いてしまった。自転車の固定に、横のあおりに結ばれていたゴムを引っ張る動作も手慣れている。あれよあれよと言う間に、黒川は追い立てられるように助手席に座らされていた。シートからはみ出そうになる体を、神妙そうに縮こまらせるのに苦労の様子だが。
「あれま、やっぱりダメか・・・」
モーター始動を繰り返してみたが、トラックに動く気配は感じられなかった。メーターパネルでは、カロリー消費推奨ランプが警告を発して、搭乗者に歩くことを熱心に勧めていた。倦むことなのないランプの点滅を見て、アキラ爺が軽く舌打ちした。横に座っていた黒川がこれ以上は無理、というぐらいに身を縮ませた。
「じゃボク、降りてみますね」
そう言って黒川が車を降りると、まるで何事もなかったようにモーターが回り始めた。
「お医者なら、こんな面倒なことに巻き込まれないで、制限を解除できるって聞きましたよ」
アキラ爺が聞いてきた。
「確かに、緊急の場合ならどんな車も制限解除で動かすことはできます。でも、それをやるには厳密な条件があるんです」
「こんなお節介なこと、なんかの役に立ってんだろうかね」
「そりゃ、このおかげで世の中の肥満率がぐっと下がりましたからね。それに合わせて有病率も下がりました。やっぱりこのカロリー消費推奨システムが、予防効果を表しているんだと思いますよ」
「そんなこと言ったってだよ、今みたいに人に親切にしたいと思っても、車が全然言うことを聞かないのは腹が立つね。なんでもかんでも先回りしちゃうというのだって、もう余計なことはしないでくれ、て言いたくなるよ」
運転席の窓から身を乗り出すようにアキラ爺が声を荒げた。
弁明するようにつぶやく黒川の声は、頼りなげだ。
「予想できる危機は、できるだけ広範囲に回避しようというコンセプトですからね。それが今では、世の中の隅々まで定着してしまいました」
「おかげで、あんたらお医者も、正直な話、患者不足で困っているわけなんでしょ?」
そうだ、その話でこんな村はずれまでやって来たんだ、と黒川はつい一時間前のことを思い出した。
2
村立病院は、村役場や郵便局などが並ぶ幹線通りから少し奥まった場所にある。川沿いの敷地内には、桜並木や噴水の広場などを巡る散歩コースもあって入院患者らの目を楽しませていた。しかしそれは昔の話で、今では入院する患者は珍しくなり、散歩コースには、もっぱら近くの保育園児のはしゃぐ声が聞かれるだけになっていた。今日だって、昼前の散歩に十数名の子どもたちが保育士に引率されてやって来ていた。
院長室の窓越しに、広場の様子を見ながら、白髪交じりの男が後ろに控える男に話しかけていたところだ。
「かつては無医村だとか、限界集落とかの言葉が取り沙汰されたが、今ではすべて昔の話だ。そうだろ、黒川君」
「はあ、まあそう言えると思います」
「どんな辺地にも病院が建ち、医療の地域格差は解消され、若い世代も地方定住を選ぶようになった。おかげで、病院も保育園も一見しただけでは見分けがつかないほどだ」
「ああ、あの子たちですね。いつも行儀がよいので、感心してみているんです」
「そうか、君もそうやってあの子らの散歩を見ていたのか」
「はい、あの今一番右横の子、緑色の短パンの子が時々やんちゃなことをしますが、それがまたユニークで」
「ああ、あの子だな。分かる分かる」
院長が黒川に応じて外の様子に目を凝らすと、部屋の端の椅子に座っていた痩せぎすの男が軽く咳払いをした。院長と黒川がその方をちら見してから、再び向き合った。
「つまり話しておきたいのは、そうしたかつての大問題が、今では解決や解消したことのつぎのことなんだ。事態の改善に貢献したのは、あのカロリー消費推奨システムだと言われている。それとそこから派生した、あらゆる予測システムが人びとを病老死苦から解き放った」
「私なんか、疲れたからって甘い物でも口にしようとすると、たいてい糖尿病予測値が跳ね上がって、すぐに警報音です」
「そういう時は、代わりの物で我慢してるんだろ?」
「はい、たいていは」
「たいていは、っていうことは、そうじゃない時もある?」
「はぁ、ちょっと言いにくいんですが、自分宛の処方箋でブドウ糖投与を処方します」
「それだと点滴になっちゃうだろ」
「はい、そこが難点なんです。やっぱり口で味わいたくなりますからね」
部屋の奥から大きめの咳払いが聞こえてきた。二人は、ちら見もせずに向き直って、居ずまいを正した。
「では要点を事務長から話してもらいましょう。高山さん、お願いしていいですか?」
院長の言葉に男が鷹揚に立ち上がり、二人に近づいて来た。
事務長の話は、村立病院の存立を脅かす状況の手短な説明だった。あらゆる場面に利用され出した予測システムが、既存の組織やある種の職業に急激な影響を及ぼしている実例が挙げられた。病気も怪我も、ほとんどが予測システムで回避されている事実。
風邪引きの予測値が上がると、子どもの草サッカーでもボールに組み込まれたセンサーが反応して転がらなく。汗を拭いて着替え済ませると、やっとボールは転がり出す。工事現場で寝不足の塗装工が足場を踏み外しそうになるのをセンサーがカウントしていて、一定以上の転落予測値になると足場からロックされてしまう。犯罪や非行の予測も精度が格段に向上した。スーパーの売り場で庖丁を手に取ろうとした際に、強盗予測値が上がれば庖丁は棚に固定され微動だにしなくなった。食べ物を買う際にも、それが老化予測値を上げる選択だとレジを通過できなくなるのだった。
それらのシステムは、個人の生体情報が各所のセンサー機器でいつでも参照されることが前提となる。個人の情報と人類全体の途方もない量の統計情報が、一瞬にして比較検討される。そこで少しでも社会に損失を与えそうな可能性が計算されると、警告が発せられ行動は制限される。たいへんな技術革新のたまものであった。
しかし、個人情報の登録そのものは任意だった。その登録内容をどの程度までにするかも個人で自由に指定することができた。しかし、ほとんどの人はデフォルトのまま登録した。そうしないと、「登録内容自己指定者」とカテゴライズされ、そのこと自体で例外予測値を上げることになったからだ。それはたいてい面倒なことを呼び込むことになっていた。そうした珍しい存在である、自己指定者の一人がカツミ爺だった。
「今や病院と警察は閑古鳥が鳴いています。誰も病気しなくなって、怪我もほとんどない。悪さをしようにも、道具になる物が使えなくなる。こうして人びとの暮らしから、心配事はどんどんなくなってしまった。もちろん、そのこと自体はたいへん喜ばしいことであります。でも・・・」
事務長の高山がそこまで言いかけると、それまで彼に話を任せていた院長が彼の言葉を引き取って急に話し出した。
「でもそこでだ、このままだと病院自体が必要がないと見なされてしまいそうなんだ。つまり病院のリストラだ」
話を途中で取り上げられた高山は、恨めしそうな目で院長を見上げてから、自分でも話を付け加えた。
「警察と病院の機能を統合して、予測値の補正や問い合わせだけの受付事務所にする計画が、全国的に進んでいるらしいのです」
黒川が驚いた声を上げた。
「それって、ここがつぶれてなくなるってことですか?」
「その可能性を話しているのです」
高山が、大仰に感嘆の声を漏らした黒川の反応に大いに満足した顔でそう答えた。院長は、さらに黒川を驚かせようとしたのか、それだけではない、と前置きの言葉を発してから、おもむろに小声で話し始めた。
「警察はそのリストラを阻止しようとして、村内に犯罪や交通事故が増えるような仕掛けを、秘密裏に計画しているらしいのだ」
「まさか、そんなことはないでしょう」
「そのまさかが、密かに進行しているから恐ろしいのだ」
院長の話すひそひそ声に合わせるように、事務長の声もひそひそとなって、それに続いた。
「しかし、なかなかうまく事は進んでいないようです。ちょうど良い交通事故を起こしたいと思っても、事故りそうな奴を車で走らせようとするとセンサーが反応して動かすこともできない」
「じゃどうしようとしてるんですか?」
黒川がそう問うと、いっそうのひそひそ声で、高山が耳打ちするように黒川にささやいた。
「最近、なんでもない場所で落石や崖崩れがあったでしょう」
「ああ、数件続いていましたね。雨の後でもないのに」
「どうやら、あれがそうらしいんです。その他にも警察は、センサーを誤魔化せるように土をかぶせた下にうっすら油を撒いておく実験もしているらしいのです」
事務長の秘密めかした話に、院長がさらに付け加えた。
「後はあれだな、鴉を手懐けて人の家から物取りをさせようという計画もあるようだ。そうしうておいて、やれ窃盗犯だと騒ぎ立てれば、警察の出番が増えて一挙に注目が集まるっていう皮算用だ」
「皮算用?皮算用って・・・、捕らぬ狸の皮算用。でもそうじゃなくて、盗る鴉の皮算用か・・・」
黒川は、自分の駄洒落の出来に、にんまりしていた。
3
自分の名前を呼んで話しかけてくる人が居る、黒川はそう気づいて返事をしなけりゃと思った。
「せんせ、黒川せんせ。どうしたんですか、何だかにんまりしてますけど」
「ああ、アキラさん、こりゃどうも失礼しました」
軽トラが快調なモーター音をさせている。運転席からアキラ爺が心配そうな顔で黒川を見ていた。
「ちょっと思い出したことがありましてね。盗る鴉の皮算用って言っても、やっぱり何だか分かりませんよね?」
「なんだいそりゃ、そのトルカラスっていうのは?」
「いいやいいです。それよりもアキラさん、最近、車がスリップしたって話、どこかで聞いたりしませんでしたか?」
「あるある、西山橋の近くの何でもない所で、中学生の自転車が滑って転んだって話があったな。あと、野球場のそばでは小学生が自転車から・・・」
「自転車だけですか?自動車のスリップで、事故になったという話はないですか?」
「だって事故はほら、予測システムのせいで、今では滅多に起きたりしないもんだろうさ」
「ええ確かにそうなんですが・・・」
黒川はアキラ爺から、なかなか聞きたいことを聞き出せないでいた。それは当然な話で、肝心の警察が実験しているかもしれないという質問の動機を隠したままなので、相手は何を聞きたがっているのかピンとこないのだ。
近くの畑のはるか上空で、ヒバリの甲高い鳴き声がした。黒川が質問を続けた。
「確かに事故は起きにくいのですが、そこを何とか、無理にでも事故にしてしまえそうな話ってことですが・・・」
「もし、事故に遭いそうな奴が居るとすれば、まぁカツミぐらいなもんだろうな。何せあいつは、自己情報を登録してない珍しい偏屈オヤジだからな」
「ああ、やはりカツミさんですか。確かにカツミさんは、病院にも医療データの登録がほとんどなくて、どんな病気に罹りそうかどうかの予測ができない人ですからね」
「それで、今日、カツミんとこへ出かけるってことなのかね?」
黒川はアキラ爺から急に話を振られて、大いに慌ててしまった。確かに、今日カツミ爺に会うのは、そのデータ登録がない予測不可能性があることで、彼に何とかお願い事をしようとにこうしてやって来たというわけだったのだ。
「このままでは警察に先を越されてしまう。誰も事故を起こさない中で、唯一、事故を起こしそうなのは、自己情報を登録していないカツミ爺だけだ。彼なら予測システムが働かないので、警告を受けないままに仕掛けられたスリップ場所に突っ込む可能性があるというわけだ」
院長はそう言ってから、黒川に大事な使命を言い渡した。
「いいか、警察のリストラ阻止にカツミ爺が使われる前に、彼と会うんだ。そうして何とか説得して彼に風邪を引くか、大怪我をするかを頼み込むんだ。彼だけが病気や怪我の可能性がある人物だからな。そうしたことがあれば、やっぱり村に病院がなければ心配だということを、村人に大大的にアピールできるわけだ」
横に控えていた事務長も、畳み込むように言葉を継いだ。
「特異な病原性の大病だとかえって病院が疑われる可能性があります。ちょっとした風邪で充分です。昔は、ちょっとした風邪なんか誰も病気だと騒ぐこともなかったのですが、今では風邪でも大騒ぎになりますからね。それで充分なんです」
「そうじゃなければ、手のひらに擦り傷を作って血をにじませる怪我でもいい。そんな傷など、昔は誰も怪我だなんて思わなかったものだ。でも今では血を見るだけで、何でも大怪我にされてしまうからな。だから血がにじむぐらいの傷でいいんだ。そこのところを何とかカツミさんに分かって貰って、ちょうどよい病気や怪我をしてもらえるように、ぜひ頼んで来てくれ」
院長は最後には黒川の手を両手で握って懇願するようだった。
「そう言えば、朝から駐在所さんもカツミのことを探し回っていたなあ。あいつの畑はどこだとか、何時頃に行っているのかとか、他に立ち寄りそうな所はどこかとか、やけに熱心に聞いて来てたけど、なんか気になることでもあったんだろか」
アキラ爺のそのつぶやきを聞いて、黒川はさらに慌ててしまった。 「えっ、警察もカツミさんに会いたがっているんですか?」
「そういことになるわな」
「それは急がなければ。アキラさん、悪いけど車でカツミさんの所まで連れて行ってくれませんか。お願いします」
「と言われたって、あんたもさっきやって見たとおり、カロリー消費の警告が出て・・・」
「助手席じゃダメでも、荷台なら大丈夫でしょう」
「そ、そんな所に乗って大丈夫なんですか?」
「今は、それぐらいのこと、なんでもないです。とにかく早くカツミさんに会わないことには、先を越されてしまう。そんなことになったら、たいへんですよ。ぜひ、急いでお願いします」
軽やかな身のこなし、とは言えないが、黒川が大きな体を何とか軽トラの荷台に載せると、運転席のアキラ爺に合図した。モーター音が大きくなり、電気自動車は坂道を登り始めた。
予測システムは、荷台の黒川をカロリー消費推奨の対象として感知しなかったようだ。事故予測値も荷台に搭載した荷重を危険だと計算しなかったらしい。唯一警戒したのは、二人の様子を物陰から伺っていた駐在所の島谷巡査長だけだった。彼は、異様なほどの真剣な眼差しで彼らを注視していたが、車が動き出すとすぐさま無線で本署と連絡をとった。本署からは、すぐに指示が返って来たらしい。軽トラの後を追うように、彼が運転する巡回用の白スクーターが坂道を音もなく登っていった。
4
東端の畑までは数回の上り下りを通り抜ける。大きなカーブを曲がりきった先に控えているのが、最後の上り坂だ。軽トラがカーブに差し掛かると、その先にある坂の手前に人だかりがあるのが見えた。派手な原色のコーンが並ぶ前に警察の制服姿も並んでいる。アキラ爺が荷台の黒川に検問があると告げた。
「こりゃ警察に先を越されてしまったな。アキラさん、悪いけどあの手前で横道に入ってもらえませんか。あそこで止められたら、簡単に通してもらえない気がします」
「でも、そんな逃げるように道を外れたら怪しまれるでしょう。それに例外予測値が跳ね上がって車がロックされるかもよ」
「それなら、非常事態だと宣言します。緊急に患者を診察しに行くんだってことにしてしまえば、データ照合の間はセンサーの動きを封じ込めておけるはずです」
「へえ、そりゃおもしろそうだ」
車は検問の手前で左に分かれる細い農道に入り込んだ。荷台では黒川が手にした携帯ツールに、自分の名前やらパスワードやら緊急コードの数字やらを大声で告げて生体認証も進めていた。突然横道にそれて行く軽トラを見て、検問の警察官たちが大慌てで何事かを喚き合っている。脇道を進む軽トラを追いかけようと、道路脇に止めていた車に乗り込んだ。ヒバリの声しかしていなかったそれまでの静けさを破って、パトカーのサイレンが鳴り響いた。
「何だよ今になって大騒ぎし出して・・・」
軽トラの後ろをそっと追いかけていた白スクーターから、島谷巡査長の独り言がもれた。脇道を進む軽トラとそれを追跡しようとするパトカーを冷ややかに見ていた。
「何が起きるか分からないから、できるだけの対策をしておいてくれって言っておいたのに」
彼がつぶやく先で、農道のぬかるみにタイヤを空回りさせているパトカーが、威勢良く泥を後ろに跳ね上げていた。ちっとも前に進まないのに、サイレンだけは辺りを威圧していた。
「駐在の島谷です。農道の出口に先回りします。もしかすると逃走車両が途中で再度脇道にそれるかもしれません。各出口の封鎖を手配してください」
無線の声が問い返してきた。逃走車両は、どうして勝手に動いているのか、なぜ例外予測値のリミッターが働かないんだ、と説明を求めている。
「それはたぶんですが、荷台に乗っている医者が非常事態を宣言したからだと思われます。ということは、警察車両は照会結果でその宣言が却下されるまでの間、非常事態をサポートするように指示されます。このままだと追跡どころか、逃走を手伝うことしかできなくなります」
無線の声が切迫したトーンで、ではどうするつもりなんだ、と聞き返してきた。
「車が動かなくなったら、歩くしかないでしょう」
島谷巡査長はそう言って無線を切った。白スクーターのスロットルを開いてみると、モーターの回転音が高まった。これならまだ大丈夫だ、と彼は軽トラの前に先回りできる道を探して加速した。
アキラ爺の運転は荒っぽくはないが、かといって慎重でもなかった。荷台で必死に掴まっていた黒川は、何度も振り落とされそうになりながら、後ろに迫って来るパトカーに怯えていた。しかし、それがだんだん遠のいて行くのを不思議な思いで見ていた。軽トラなら問題なく走れる農道だが、パトカーの大きく重い車体だと道幅からはみ出そうになるらしかった。
すると運転席からアキラ爺の叫び声が上がった。
「前を見て。後ろじゃなく、前がたいへんなことになっている」 車は急停止し、黒川は荷台の鳥居部分に叩き付けられそうになるのを必死で堪えた。トラックの先で声がするので黒川がそちらを伺うと、そこには駐在の巡査長が立って拳銃を構えていた。
「車から降りて、こちらに歩いて来なさい。言う通りにしないとやむを得ず発砲する。逃げようとしても無駄だぞ」
運転席からアキラ爺が情けない声で聞いてきた。
「せんせ、あんなこと言ってるけど、どうしますか。諦めて相手の言うとおりにしますか?」
「そんな必要はないです。このまま突っ切りましょう。あんなこと言っても、撃てっこないです」
「どうしてそんなこと言えるんですか。もし本気で撃ってきたら洒落では済みませんよ」
そう聞いてきたアキラ爺に、黒川が自信ありげに答えた。
「今は非常事態になっています。警察はこちらのサポートをするようになっています。だからこっちに向けて発砲しても、玉が出たりははしないはずなんです」
「ホントですか?じゃこのまま車を動かしますよ」
軽トラが高回転のモーター音を発したので、駐在は慌て出した。もしかして突っ込んで来るのか。そうだとしたら、自分は引き金を引くだろうか、それともこの場から身を引くか。ウィーンと甲高い音の後にギアがつながる音がして車が動き出そうとした。その時、
「待ちなさい」
と両者の間に飛び出した人影があった。
「あんたたち、一体なにを勘違いして馬鹿な真似やってるの」
両手で自分のズボンをたくし上げている恰好の一人の女性が立っていた。
「あっ、あんたはカツミんとこのサナエさんでないか」
「あれま、そこに居るのはアキラさんでないの」
顔見知りだと分かって、車のモーターは急に静まった。
「それにあんたも、いつまでそんな物騒な物を出してるの」
駐在も拳銃を下ろして、ホルスターに戻した。
「あの人って、カツミさんの奥さんなんですか?」
黒川の質問に運転席から降りたアキラ爺が頷いて答えた。
「サナエさん、こんな所で何してたんだ?」
「ちょっと用足ししてたら、とんでもないことになって、一体何が起こったっていうんですか」
「何かね、病院と警察とが、両方でカツミんとこに行こうとしてたみたいで、その取り合いの最中だったんだわ」
「何でうちのトウちゃんが、そんな取り合いになるんだ?」
「それはよく分からないけども、カツミさ、今どこにおるんだろうか?」
「さっきまでそこに居たんだけど・・・」
全員が見やった先には、草の生い茂った間にゴザが敷かれて、二三の荷物が置かれたいた。でも人影は見えなかった。
「ちょっとサナエさんさ、用足しって何やってたんだい?」
とアキラ爺が聞き出そうとしたが、サナエさんは、あれうちの人はどこへ行ったんだろうか、と取り合おうとしなかった。
黒川も駐在の島谷も、何だか拍子抜けしてしまい、一向に行方の知れない、登録内容自己指定者のカツミ爺のことを思いやった。どこかでヒバリがまた鳴き出した。あの高さからなら、カツミ爺を見つけ出せるのかもしれないなぁ、と思った。でも、じゃ見つけ出してどうするんだ、と自分に問い返してみた。ヒバリもそんな詮索のために、あんな高く飛び上がっているわけでもなさそうだった。