5 失われた記憶3
私は殺風景になった自分の部屋をゆっくりと見渡した。
ふと部屋の柱を見ると12歳の時に書いた落書きが残っている。
私はゆっくりと近づきそれに指を沿わせた。
(ふふっ……懐かしいなぁ……)
孤児院に来て8年。ずっとこの部屋で生活してきた。
孤児院に来た子供は基本的には里親の元へ行く。
例外を除いては……。
私はもちろんその例外。
私の場合はこの目が理由だった。
里親候補は皆口々に、気味が悪い、本当は病気なんじゃないかといって私を選ぶことはなかった。
それでも私は平気だった。この孤児院にはたくさんの友達がいたから。
孤児院に入った頃は、目を理由にいじめにあったりもした。しかし、いじめていた子達が次々と里親の元へ行き、私が古株になると自然といじめもなくなり、私はみんなのお姉さんの様に慕われる様になった。
気付けば孤児院に居られる18歳までここで生活していた。
(もうこの部屋とお別れかぁ〜)
「ランちゃん」
思い出に浸っていると、部屋の入り口にマリアさんが、入り口の柱に背中を預けるように立っていた。
マリアさんは私がこの孤児院に来た時からこの孤児院の寮母さんをしている。
学校の事から恋の話まで何でも話を聞いてくれて、いつも私を支えてくれた人。
「ついにこの日が来たね〜」
マリアさんも部屋を見渡した。
「来ちゃったね」
私が笑顔で答えると、「寂しくなるなぁ〜」と、マリアさんはそう言って寂しそうに笑った。
「実はランちゃんに言わないといけない事があるの。ちょっと良いかな?」
「?」
急に真剣な顔になったマリアさんに不安を抱きながら、マリアさんと寮母室に向かった。
寮母室に着くとマリアさんはお茶を淹れてくれた。私はゆっくりとそれに口をつける。
「言ってなかったでしょ?ランちゃんが孤児院に来たの時の事……」
その言葉を聞いて、体が緊張するのが分かった。
私には孤児院に入る前の記憶がない。
もちろん両親の事も覚えていない。
でもそれは今まで何となく聞いてはいけない気がしていた。
いや、聞くのが怖かった。
自分は捨てられたのかもしれない。そう考えると知らないままでも良いのかもしれない……そう思ったりもした。
自分がなぜ孤児院に入る事になったのか……。
これから独り立ちする私にとっては、自分を知る良い機会なのかもしれない。
いずれは知る事になるのだと思って、何となく心構えはしていたつもりだ。しかし、いざその話題を前にして、顔が強張っていくのが分かった。
「ランちゃん」
名前を呼ばれて、私はハッと顔を上げた。
「聞きたくないなら言わない。突然だしね……。聞くかどうするか考えてからまた聞きに来ても……」
「ううん!大丈夫。もう独り立ちするんだもん。自分の事、ちゃんと知りたい」
話を聞くのは正直怖い。
でもそれ以上にこれからは1人で生きていくんだという決意の方が大きかった。
「分かった」
そう言うとマリアさんは古いアルバムを出して私の前に広げた。
そこには集合写真があった。
「ランちゃんはこれ……」
指さした先を見ると、全く覇気がない無表情な子がそこにいた。
「もしかして……これ私なの?」
「びっくりでしょ」
マリアさんはクスリと笑った。
「ランちゃんはね警察の人がここへ連れてきたの」
「警察?」
「何でも、1人で泣きながら歩いてたみたい。お母さんが、お母さんがって言って泣いてたって言ってたわ。覚えてない?」
「うっ……全く……」
思い出そうとするも全く記憶になかった。
「ここに来た時、ほとんど無表情だったの。感情を見せないってよりは、感情を無くしちゃったって感じだった」
私は写真の自分を見つめた。
「カウンセリングをしたらね……強いショックが原因だろうって事だったけど……」
私は写真の自分を指さした。
「こんな調子だったら何が原因かも分からないよね……」
私は自嘲気味に言った。
話を聞いていても全く実感が湧かない。
(まるで他人の話を聞いているみたい……)
「何で1人でいたかは分からないんですか?」
「うん……。それは分からないの。でも……」
マリアさんはそう言うと、部屋の机の引き出しから1枚の名刺を取り出し、私に差し出した。
私はそれを手に取る。
「その名刺の刑事さんが何かあれば僕に連絡をって置いていった名刺なの。ランちゃんが来てすぐは連絡を取ってたけど……今は全く。その人なら何か知ってるかも」
私は名刺の名前を見た。
「もう8年経ってるからどうか分からないけど……」
私は名刺を見つめた。
(……ちゃんと自分の事、知らなくちゃ)
「私に何かできる事ある?」
マリアさんは優しく聞いてくれた。
(でも、もうマリアさんに甘えてはいられない)
「大丈夫……ちゃんと、自分から聞いてみる」
名刺を持つ手が少しだけ震えていた。
「うん……分かった」
そう言うとマリアさんが名刺を持つ私の手を自分の手で優しく包み込んだ。
私が顔を上げると、私の顔を見て微笑んだマリアさんは私を優しく抱き締めてくれた。
「無理しないでね」
「うん……。……今まで本当にありがとう」
そう言うと、私を抱き締めるマリアさんの腕に力が入った。
「いつでも相談に乗るし……会いに来て良いからね」
「うん……」
我慢していた涙がどんどん目に溜まっていった。
「応援してる……」
「……う……ん……」
溜めていた涙が溢れ、マリアさんの服を濡らした。
体が離れ、マリアさんを見るとマリアさんも目が赤くなっていた。
「2人とも泣きすぎだね……」
私がそう言うと、マリアさんは「本当だね」と言って2人で顔を見合わせて笑った。
+++++++++
(ここだ!中央警察署!)
私は名刺を握りしめ警察署の前にやってきた。
(名刺の人……アンバスさんには会えるかな?)
孤児院を出てからその足で直ぐにここへ来た。
自分が孤児院に入った理由と経緯が本当にこの場所で知る事が出来るかは分からない。
(それにしても、自分の事を知る為に警察署に来るなんて不思議な感じ……)
私は意を決して警察署の中に入った。
警察署は想像していたよりも随分と静かだった。
案内と書かれたプレートのある窓口に、若い女性が座っている。制服を着ているから婦人警官なのかもしれない。
「すみません」
「はい。お困りですか?」
若い女性は柔かな笑顔で答えた。
「あの……ここにアンバスという名前の刑事さんはいらっしゃいますか?その人に話を聞きたくて来たんですが……」
「お名前をよろしいですか?」
「ランと言います。孤児院から来ました」
女性は何やらメモを取り、少々お待ち下さい。と言って椅子から立ち上がると窓口から離れた。
女性を目で追うと、奥で何やら話をしているようだ。
私は手に持っている名刺を見た。
(会えたらどうしよう……。なんて聞けば良いのかな……。それよりも私の事、覚えててくれてるのかな……)
そんな事を考えながら、心臓の鼓動が少しだけ早くなったのを感じた。
「こんにちは」
突然声をかけられ振り向くと、中年の男性が立っていた。
「あぁ!やっぱり君か。大きくなったね」
「あ、あのぉ……」
「おぉっと、すまない。俺がアンバスだ。やっぱり変わらず目の色が違うんだね」
(あ、会えちゃった……)
どうしようと思いながら言葉を詰まらせているとアンバスさんが優しい笑顔で私を見た。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ……って言っても難しいかな……?」
そう言いながら頭を掻いた。
「立ち話もなんだからこちらにどうぞ」
そう言って、奥に通された。
「こんな部屋しかなくてごめんな〜……」
アンバスさんが申し訳なさそうにお茶を運んできた。
その部屋は謂わゆる取調室という場所だ。部屋を見渡すとマジックミラーと思われる鏡や小さな小窓が1つある。
「いえ、突然来てしまったのはこちらですし……」
私がそう言うと、アンバスさんは「悪いね」と言いながらテーブルにお茶の入ったカップを置いた。
アンバスさんはテーブルを挟んだ向かいの椅子を私の斜め前に動かした。
「ここに来たのは、当時の事をマリアさんから聞いたからかな?」
そう言いながら椅子に腰掛けた。
「はい、マリアさんに名刺を頂いて……」
私は手に持っていた名刺をテーブルに置いた。
「懐かしいなぁ〜……」
アンバスさんはそう言うと名刺を手に取って眺めた。
「もったいぶってもしょうがないから本題に入ろうか?」
アンバスさんは私に視線を向け、私の様子を伺っている。
「はい……」
私はそう言って、アンバスさんの顔を見つめた。
「泣きながら1人でいた事は聞いたかな?」
アンバスさんは名刺をテーブルに置きながら言った。
「はい、聞きました。……お母さんって言いながらって……」
「そうなんだ。俺は別件で外に出てて、普段は通らない道をたまたま歩いていたら、向かいから泣きながら1人で歩いている君を見つけたんだよ」
「君はお母さんがって繰り返し言っててね……。俺はお母さんはどこかって聞いたんだ。そうしたら君は煙が立ち上っている場所を指さした」
アンバスさんは一呼吸置いて続けた。
「その場所へ行くと、家が燃えていた」
そう言うと、私の顔を見た。
(火事……)
胸がざわついた。
「俺たちが着いた時には家全体に火が回っていてね。君はお母さんがって言いながら家を指さして泣いていた」
「……」
(私……何も覚えていないや……)
マリアさんの時と一緒。他人の話を聞いているみたい。
「後日、現場を確認したら女性の遺体が発見されて……身元は分からなかったけど、いろいろ調べたら君と血縁関係があると分かった。君のお母さんである事は間違いないだろう」
「……お母さん……」
私は俯いて呟いた。しかし実感がない。
母親の顔も思い出せない。
虚しさが胸をいっぱいにした。
「思い出せない?」
私の気持ちを読み取ったように、アンバスさんが聞いた。
「……はい……全く覚えていないです。母の顔も……分かりません」
アンバスさんは「そうか……」と小さく息をつき話を続けた。
「君を保護して署に連れてきてからも君はずっと泣き続けていたんだけど、署で君をどうするか相談している間に静かになってね」
「顔を覗き込んだら君は無表情になってた。それから君は何も話さなくなって……専門家にカウンセリングをしてもらったりしたけど、名前以外分からなくてな……。先生が言うには記憶がなくなっているようだって。結局、どうする事も出来ずに孤児院に連れて行ったんだ」
私はマリアさんに見せてもらった写真に、無表情に写る自分を思い出していた。
「当時のカウンセリングの先生曰く、精神的ショックから自分の無意識のうちに記憶をなくす事はあるそうだ。ある種の防衛反応で、子供なら尚更らしい」
「それと、記憶は消された訳ではなく、無意識に閉じ込めてられているだけだとも言っていたよ」
アンバスさんはそこまで言うと私の目を見た。
「外部の刺激などで不意に記憶が戻る事もあるそうだ」
私は目を見開いた。
「き、記憶が戻るんですか……?」
「あぁ、でも戻る事はごく稀で戻らない事も多いらしいけどね」
(記憶が……戻るかもしれない……)
母親の事を思い出せるかもしれないという期待が一瞬よぎるも、真実を知るという不安の波が押し寄せる。
私は膝に置いた両手を握りしめた。
「それと……」
アンバスさんは立ち上がると、用意していたのか1冊のファイルをテーブルに置いた。
「これは……?」
私は顔を上げてアンバスさんを見ると、アンバスさんの目が真剣な目に変わった。
「君の……火事についての記録だ。」
「っ!!!」
私は目を見開き息を呑んだ。
「実は、火事は放火の疑いがある。この中にも書いてあるが、火の気のない所から出火している可能性があってね」
そう言うと、咳払いをした。
「この近辺で放火が何軒も起きていてそいつの仕業だと始めは考えられていた」
「……?」
(考えられていた……?)
私の疑問に答えるようにアンバスさんは続けた。
「この火事から数週間後に放火犯が捕まったんだ。でもそいつは、この家の放火はだけは認めなかった……」
その言葉を聞いた時、胸騒ぎがした。
記憶のない私……、犯人は別にいる……。
「カウンセリングの先生が言っていた。君の記憶が無くなったのは母親の死によるショックだけではない気がするってね……。だからずっと俺は気になっているんだ。もしかしたら……」
アンバスさんはそこで言葉を切った。
私の心臓が音をたてて鳴り出した。
(犯人の顔を見ているかもしれない……)
そう考えた時、頭にズキッと痛みが走った。
私がこめかみに手を当てると、アンバスさんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
私は大きく深呼吸をして口を開いた。
「もしかしたら……私が犯人の顔を見た可能性があるって事ですか……?」
出来るだけ平静を装って答えたが、声が震えている事に自分でも気付いた。
「あぁ。その可能性があると俺も考えている」
アンバスさんはそう言うと、ファイルをゆっくり私の前に滑らせた。
「見たくないなら無理にとは言わない。只でさえ今までの話にショックを受けているだろうからね……」
私はファイルを見つめた。
この中に火事に関する詳細が書かれている。
(これを見たら……記憶が戻るかもしれない……)
そう思った時、また頭に痛みが走り、私はまた大きく深呼吸をした。
心臓の鼓動はますます早く強くなっている。
私が震える手でファイルの端に触れた時、アンバスさんの手が私の手に重なった。
その手は大きくてゴツゴツしていたが、とても暖かかった。
「火事にあった家の写真も、女性の遺体の写真もある……。本当に良いのかい?」
私はアンバスさんの顔を見た。
真剣な目の奥に私を心配しているのが分かった。
私は真っ直ぐその目を見つめ返した。
「……はい」
私はそう言って表紙をめくった。
そのファイルには、時、場所、現場の詳細が事細かに書かれていた。
私は静かにそれに目を通していく。
アンバスさんはそんな私を何も言わずに見守ってくれていた。
当事者であるのに記録を読んでもピンとこない。胸騒ぎが少しずつ落ち着いていくのが分かった。
何ページ目かをめくり写真を見た瞬間、ドクンッと心臓が跳ねた。
その写真には燃え尽きた家が写されていた。壁と屋根は燃え尽きてなくなり、柱が一部分だけ残っている。
心臓の鼓動に合わせて鋭い痛みが頭に響いた。
「っっ!!」
(頭が痛いっ!)
思わず両手で頭を押さえた。
何故か写真から目が離せない。
「っ……うっ…」
胸に何かが詰まったような感覚がして呼吸が乱れた。
(息が……苦しい……)
「いっ……や……」
ガタッーー
私は写真から目を離さず椅子から勢いよく立ち上がった。その勢いで椅子が倒れた。
私は写真から後ずさった。
「ゃん!…ちゃん!」
遠くで誰かの声がする。
頭痛はますます酷くなる。
息が苦しい…!
(いやっっ!助けてっっーー)
次の瞬間、断末魔のように私は叫んで意識を失った。