34 繋がった心
目を覚ましてゆっくりと瞼を開けると目の前に私の愛しい人がいた。
サラサラなブラウンの髪の毛の隙間から整った顔が見える。長い睫毛の瞼は固く閉じられているが、穏やかな表情で規則的に肩を上下させ眠っているロイ様を見て私は頬が緩んだ。
キュリオ公爵に関わる証拠が見つかってから直ぐにキュリオ公爵は再逮捕された。キュリオ公爵の内通者も証拠から特定され、その顔ぶれは国の要人から警官、一般市民などたくさんの人が関わっていた事が分かった。そして、そこから芋づる式に他の貴族の不祥事も発覚し、世間は騒がしくなっていた。
貴族への批判もあったが、元々治安が良く経済も安定していたハーゲン家の領地の人々からは、ロイ様が誠実に対応しているのもあり、不満も批判もあまり聞かれていない。
ロイ様の怪我もすっかり良くなり、私がロイ様の部屋に来て、こうして朝まで過ごす事も出来るようになってきた。事件前のような穏やかな生活に戻りつつある。
(こんな風に過ごせるなんて幸せだな……)
私は緩む頬を引き締めると、眠るロイ様を起こさないように、そろりとベッドから抜け出した。
ロイ様を起こさない様に静かに着替えを済ませた。姿見の前で俯きながら髪を結い終わり、顔を上げようとした瞬間後ろから抱き締められた。
ーーー!!
顔を上げて姿見を見ると、ロイ様が私の頭に頬を寄せながら鏡越しに私を見ていた。
「おはよう……」
まだ眠気が残っているのか、眠たそうに瞬きを繰り返している。
「お、おはようございます……。あの……起こしてしまったみたいですね……」
ロイ様を鏡越しに見ながらそう言うと、「大丈夫……」と言いながら私のお腹に回した両腕に力を入れ、私の肩口に顔を埋めた。
「今日はお休みですし、ゆっくりお体を休めてください」
私は口元を綻ばせながらそう言うと、ロイ様が肩口に埋めた顔を上げた。
「ランも休んだら?」
鏡越しに目を合わせると、ロイ様は私を抱き締めたままそう言った。
「いえ、私は大丈夫です。仕事がありますし」
笑顔でそう言うと、ロイ様は私の目を見ながら私の耳元に口を近づけた。
「昨日の夜は無理させちゃったから……心配……」
ロイ様の少し掠れた声が耳元で囁かれた後、ロイ様が私の耳にフーッと息をかけた。
「ひゃぁっ!」
驚いた私は首を竦め、思わず耳を手で押さえた。それと同時に昨夜の記憶が蘇り、顔に一気に熱が集まるのが分かった。
姿見を見るとロイ様の目が意地悪く細められていた。
「ロ、ロイさーーー」
ロイ様を振り返ろうとした次の瞬間、私の唇は塞がれた。
(っ!!)
体を捩ってもキスは止まず、唇が重なったままロイ様に押されるように、私の背中が姿見に付いた。
「っんっっ!」
それと同時にキスが深くなった。ロイ様の胸を押していた私の手は、姿見に貼り付けられるように押さえられた。
「ロ……イ……っ……さっ……」
息継ぎの合間にロイ様の名前を呼ぶもキスは深くなるばかりで、頭の中が真っ白になった。
いつの間にか腰に回されたロイ様の手が、私の背中を優しくなぞった。
「っ!!!」
甘い痺れが体に走り、私は思わずロイ様の腕をぎゅっと握り締めていた。
唇が離れて目を開けるとロイ様の瞳が艶っぽく揺れていた。
「ハルには言ってあるから大丈夫だよ……」
「で、でも仕事を……」
掃除や洗濯など毎日やらなければならない事が私を待っている。
「だめ……ランと一緒にいたい……」
そう言ったロイ様はおねだりする様に潤んだ瞳で私を見ていた。
(うっ……そんな瞳で見られたら……)
ダメなんて言えない……
私は恥ずかしくて目を伏せた。瞼に優しいキスが落ち、その唇はゆっくりと頬に降りた。姿見に押さつけられていた私の手の指にロイ様の指が絡められ、腰に回された手は私の背中をさっきよりも優しくなぞっている。
体の奥からじわじわと熱いものが湧き上がるのを感じた。
「ラン……」
名前を甘く囁かれ、また唇が塞がれた。
その時ーーー
コンッコンッ
「「っ!!!」」
扉をノックする音に、私とロイ様は同時にビクッと肩を揺らし、顔を見合わせた。
「お休みの所申し訳ありません……」
というハルさんの遠慮がちな声が聞こえ、ロイ様は扉の方へ顔を向けた。
「何かあったの……?」
ロイ様はそう言うと私を抱き締めた。
(扉の向こうにハルさんがいる……)
そう思うと、心臓が早鐘のように打つのが分かった。
「アンバス様がお見えになりましたが、如何致しますか?」
(アンバスさん……?突然どうしたのかな……?)
私とロイ様は一瞬顔を見合わせたが、直ぐにロイ様は私から視線を外すと、扉の方へ顔を向けた。
「……分かった。支度するから少し待ってもらって……」
ロイ様がそう言うと、ハルさんの「畏まりました」という言葉の後、足音が扉から遠ざかっていった。
(び、びっくりした……)
アンバスさんの事も気になったが、ハルさんが扉を開けたら……と内心ヒヤヒヤしていた。速くなった鼓動は直ぐには治りそうにない。
私は閉じられた扉をじっと見ていた。
「ラン……」
名前を呼ばれて私はロイ様を見上げた。
「良いところ邪魔されちゃったね……残念……」
そう言うと、ロイ様の両手が私の頬を包み名残惜しそうに私の額に優しいキスをした。
そのロイ様の表情は、お預けをされた子供の様に残念そうな顔をしていた。
「ふふっ」
(可愛いなぁ……)
私は思わず笑ってしまった。笑った私をロイ様は不思議そうな顔で見た。
(ロイ様が可愛いからって言ったら怒るのかな……)
私は口元を綻ばせたまま、ゆっくりとロイ様に顔を近づけ、ロイ様の頬に触れるだけのキスをした。
顔を離してロイ様を見ると、驚いて目を瞬かせていた。
「……時間は……まだたくさんありますから……」
私が口元を綻ばせてそう言うと、ロイ様は一瞬だけ目を見張った後、フッと笑った。
「そうだね……」
優しく微笑むロイ様の両腕が私の腰に回り私は腰を引き寄せられた。
「愛してる……」
「私も……です……」
顔が近づき唇が触れ合う。
2人でこうした甘いひと時は、お互いを思い合っている限りまだまだこれからたくさん作っていける。
(その一瞬一瞬を大切にしていきたいな……)
私達は顔を見合わせ笑い合った。
++++++++
「突然すまないね……」
お茶を出す私にアンバスさんが申し訳なさそうに言った。
「いえっそんな、お気になさらないでください」
私は笑顔で答えた。
アンバスさんに会うのは、キュリオ公爵の証拠を見つけた日以来だ。
証拠の処理や関係者への取り調べなど警察もとても忙しくしていると聞いていた。アンバスさんの顔には心なしか疲れが出ている気がした。
その時、扉がノックされ、ロイ様が応接室に入ってきた。
それと同時にアンバスさんはソファから立ち上がった。
「久しぶりだね、ロイ君」
「お久しぶりです、アンバスさん」
ロイ様はソファに近づくと右手を差し出した。アンバスさんはその手を握ると2人は握手を交わした。
ロイ様は「どうぞ、掛けてください」と言ってアンバスさんに座るよう促すと、2人ともソファに腰掛けた。
私はそれを確認すると、ロイ様のお茶の準備を始めようとワゴンに近づいた。
「ランちゃん、やりながらで良いから話を聞いてほしい」
その言葉にワゴンからアンバスさんに視線を移すと真剣な目をしたアンバスさんが私を見ていた。
「はい、分かりました」
私がそう言うと、アンバスさんは優しく微笑み言葉を続けた。
「キュリオの処罰が決定したよ」
アンバスさんのその一言で部屋の空気がピンと張り詰めたのが分かった。
「爵位の剥奪は早い段階で決定したが、昨日お家の取り潰しが決まった……。それに、終身刑として死ぬまで投獄される事になったよ」
私はティーポットからカップにお茶を注ぎながら聞いていた。
「そうですか……」
ロイ様が頷きながら答えた。
「この情報は今日の午後に公表される事になってる。先ずは君達に伝えておきたくてね……」
「わざわざ来て頂いてありがとうございます」
「いやいや、突然押し掛けてすまなかった。それともう1つ大事な話をしたかったんだよ……」
私は屈んでロイ様の前にカップを出しながらその会話を聞いていた。
私がテーブルから離れてワゴンに近づいた時、アンバスさんがソファから立ち上がるのが分かった。
ワゴンからアンバスさんへ視線を移すと、アンバスさんは私を向き姿勢を正していた。
「??……アンバスさん……?」
真剣な目をしたアンバスさんは私と目を合わせると唇を噛み締め、口を開いた。
「ランちゃんに謝らないといけない事がある……」
「え……?」
その真剣な表情のアンバスさんに、私は向き合って姿勢を正した。
「ランちゃんの記憶のお陰で証拠が見つかり、多くの事件や事故が解決されてたくさんの人が救われた……しかし……」
そう言ったアンバスさんは苦虫を噛み潰した様な苦しそうな表情に変わった。
「君の母親の罪を償わせる為の証拠が不十分なんだ……」
その言葉を聞いた時、アンバスさんの言いたい事が分かった。
母を殺した罪をキュリオ公爵に償わせる事は出来ない……
「本当にすまないっ」
アンバスさんが勢いよく頭を下げた。深々と頭を下げたその姿は、体の大きなアンバスさんが何だかとても小さく見えた。
「ア、アンバスさんっ!顔を上げてくださいっ!」
私は慌ててアンバスさんの肩に手を置いた。
「いやっ上げられないっ!」
頭を下げたままのアンバスさんが強い口調でそう言った。
困った私はロイ様へ視線を向けると、ロイ様も困った表情をしていた。私は頭を下げたままのアンバスさんに視線を移した。
母を殺した証拠は私の記憶の中にしかない。
元々物的証拠も状況証拠も不十分で犯人が分からなかったのが、私の記憶が蘇ったことで犯人はキュリオ公爵だったと分かった。しかし、幼い頃の記憶は信用性に欠けるため、それを証拠に罪を問う事は難しい。
母を殺した事を今更キュリオ公爵が認めるとも限らないし、認めた所で処罰の決定が覆るとも思わない。それはもう分かっていたことだった。
「アンバスさん……私なら大丈夫です。もう覚悟はしてましたから……」
私がそう言うとアンバスさんはやっと顔を上げた。
私は辛そうに眉を寄せるアンバスさんを見ながら言葉を続けた。
「正直、期待していないわけではなかったです……でも、幼い時の記憶だけでは難しい事は分かっていました」
アンバスさんは私から視線を外す事なくしっかりと私を見てくれていた。私はそんなアンバスさんの目を見据えて言葉を続けた。
「母は例え自分が死んだ罪をキュリオ公爵に償わせることが出来なくても……母が守った証拠達がたくさんの人の役に立った事を知って、今頃天国で喜んでいると思います。……それに……」
私は笑顔をアンバスさんに向けた。
「母の事をここに居るみんなが知ってくれています。アンバスさんにロイ様、ハルさんにアルフレッド様に……サチさんも……。何よりもみんなの記憶に私の母がいる。そして私の中にも……」
私はそう言って胸に手を当てた。
目を閉じると花畑で私に微笑む母の姿が瞼に蘇る。以前よりもずっと近くに母が居るような気がする。
「それに……私はもう1人じゃない。大切な人がそばに居てくれています……」
私はそう言いながらロイ様を見た。
ロイ様は優しく微笑んで、私を見守ってくれていた。
私はアンバスさんの目を見据えて、姿勢を正した。
「こうして今の私があるのは皆さんのお陰ですっ。アンバスさん、ありがとうございます!」
私は深々と頭を下げた。
アンバスさんは記憶がなかった私をずっと気にかけてくれた。私には感謝の気持ち以外に何もなかった。
「ランちゃん……」
アンバスさんの声に私は頭を上げると、申し訳ないという顔の奥に安堵が混ざるような複雑な表情をしていた。
「全く君は……っ」
アンバスさんは大きな溜め息を吐いた。
「ランちゃんは本当に強いよ……。そんな君に甘えてしまいそうだ……」
そう言って頭をガシガシと掻いた。
「ランちゃん……ありがとう……」
アンバスさんは顔をくしゃりとさせ、困った顔をしながらそう言った。
++++++++
「こんな所まで見送ってもらって申し訳ないな……」
俺とランはアンバスさんを見送る為、門の外にいた。
「いえ、気をつけて」
俺がそう言うと、アンバスさんは微笑んで俺の隣にいるランに視線を移した。
「ランちゃん、困った事があったら俺を頼ってくれ。……と言っても必要ないかもしれないが……」
アンバスさんはそう言うと、俺を見た。
「ランちゃんを頼んだぞ」
アンバスさんは右手を差し出しながら言った。
「もちろんです」
そう言って俺が差し出された右手を力強く握り締めると、アンバスさんは満足そうに笑った。
その様子をランは泣きそうな顔をして見ていた。
アンバスさんと手が離れ、「じゃあ」と言ってアンバスさんが馬車に足を掛けたその時、「ア、アンバスさんっ」とランが引き止めた。アンバスさんは驚いて振り返った。
「お疲れの様なので……お体に気を付けて下さい……」
ランの言葉を聞いたアンバスさんはフッと笑って頭を掻き、ランの前に右手を差し出した。ランがその手を握ると、アンバスさんはランをぐいっと引き寄せた。
アンバスさんはランの肩を抱き締めながら「アルの気持ちがわかる気がするよ……」と言って笑い、すぐに体を離した。
ランの顔は見えなかったが、驚いて固まっているのが後ろ姿から分かり、俺は思わず口元を緩めた。
「じゃあ、また」
アンバスさんはそう言った後馬車に乗り込み馬車は動き出した。
俺は馬車を見ながらランに近づいた。
ランは小さくなる馬車をじっと見ていた。
俺がランの手を取ると、ランが顔を上げ俺を見た。そのランの顔はどこかすっきりとしていた。
(本当に強いね……ランは……)
俺はランの手を握り締めた。
「さて、これからどうしようか……?」
「???これから……?」
不思議そうに見上げるランに俺は笑みが零れた。
「予想外の客人のお陰で早く起きたから……今日は休みだし……」
俺はランの手を引きながらそう言って屋敷の門をくぐった。
「そうですね……洗濯とお掃除と……」
ランの言葉を聞いて俺は足を止め、ランを見た。
(……メイドの仕事の事を言ったわけじゃないんだけど……)
そう思いながらも、仕事に誠実で一生懸命なランに愛しさが込み上げてくる。
きょとんとしているランの頬に触れようとした瞬間、強い春風が吹いた。
強い風にランから視線を外して顔にかかる髪を払いながらランを見ると、ランも強い風に目を緩く閉じていた。
風で舞った庭の葉がランの頭に乗っていて、俺はランの頬に触れようとしていた手で頭に乗った葉を取った。
「葉っぱついてる……」
俺が取った葉を見たランは、上目遣いで少し照れながら顔をくしゃりさせて「ありがとうございます」と笑った。
俺はその顔を見て息を呑んだ。
ランのその表情は、あの日あの時出会った女の子そのものだった。
薄っすらと頬を染め、左右色の違う瞳が弧を描く目の奥でキラキラと光っている。
俺はランの頬に手を伸ばし指の背で頬を撫でた。
(やっぱりあの子はランだったんだ……)
忘れもしない俺の初恋の女の子は、今、俺の目の前で微笑み、俺を見ている。
俺を大切な人に選んでくれて、俺を愛してくれている。
例え昔の俺との記憶が蘇らなくても、目の前にいるランが俺で幸せを感じているだけで、こんなに俺は幸せを感じられる。
「もうすっかり春ですね……ポカポカ陽気で気持ちいいです……」
庭へと視線を移しながら微笑むランに愛しさが込み上げ、俺は両手でランの頬を包み、こちらを向かせた。
「ロイ様……?」
「……いい事考えた……」
「……?」
不思議そうに首を傾げて見上げるランに口元が緩んだ。
「あの花畑に行こう」
俺の言葉でランの目が見開かれた。
「今頃満開だと思うし……」
ランは言葉に詰まっているのか、じっと俺の顔を見ていた。
「どう……?」
確認の為もう一度聞くと、ランの瞳はキラキラと輝き、待ちきれない子供のように嬉しそうな表情に変わった。
「是非、行きたいですっ」
そう言うと、頬を包む俺の手にランの手が重なった。ランは「楽しみだなぁ……」と呟いて目を伏せた後、何かに気付いたように目をパチリとさせて俺を見た。
「そうだっ、サンドイッチを作って花畑で食べるのはどうですか?あっ、それともパンケーキの方が良いかな……う〜ん……」
俺の手に頬を包まれたまま、百面相の様に表情が変わるランに俺は思わず吹き出してしまった。
「ランの好きにして良いよ……」
俺が笑いながらそう言うと、ランは少し考える様に「そうしたら……」と言いながら視線を外した。
「両方にしましょうかっ」
そう言ったランは満面の笑みを俺に向けた。
「ふふっ、ラン欲張りすぎ……」
俺は笑いを堪えきれず笑いながらそう言うとランは照れた様に目を伏せた。
その表情が可愛くて俺はランの額に触れるだけのキスをした。
「両方なら早く準備しないとね……」
そう言いながら俺が笑うとランは嬉しそうに笑った。
「直ぐにやる事をやってしまいますねっ」
ランは「よしっ」と言いながら俺の手から離れ、屋敷へと歩き出そうとした。
「ラン……」
俺は名残惜しくてランの手を握って引き止めた。
「待って……」
ランは一瞬驚いて目を丸くしたが、直ぐに照れながら笑った。
どんなに触れても、どんなに一緒にいても足りない。ランを想う気持ちが溢れて止まらない。
(ランの事好きすぎる……かな……)
俺はランを見ながら自分の頬をツンツンと指をさしてランに頬を向けた。ランは目を見張ったが照れながら俺に近づくと頬に唇を寄せた。
ランの唇が頬につく瞬間、俺は顔を動かしランの唇に唇を重ねた。
「っロ、ロイ様っ」
驚いて唇が離れたランを逃さないように腰に腕を回した。
「もう少しだけ……」
俺がそう言うとランは渋々といった表情をしながらも、照れながら俺に体を預けてくれる。
(俺って幸せ者……)
心の中で繰り返しランへの想いを唱えながら、ランの唇についばむ様なキスをした。