その六
「峠は越えましたね。後は一日安静にしていればいいでしょう」
どことなく不機嫌な含みを持つ無愛想な少女の声が告げる
「そう。よかった……」
氷雨は安堵の溜息を吐いた
憔悴さえ浮かべる氷雨の顔を、先程まで黒猫を手当てしていた少女は戸惑ったような顔をして見る
「あの、黒金先輩?」
「……あ、ああ。なに?」
いつもとは明らかに勝手が違いすぎる氷雨に、少女はどうにも話し掛け辛そうだ
それも当たり前か、と自嘲に似た言葉が浮かぶ
それほどまでに、今の自分は平常の自分とはかけ離れているのだろう
「火急、という事で先程は聞きませんでしたが……」
ちら、と所々に包帯や血止め用のガーゼが張られ横たわる黒猫を見る
その眼には静かに暗い炎が渦巻いている
「この黒猫は物の怪の類でしたね」
「ちょっと違うけど……、まあ似たようなものね」
【万能変化】と【魔術】を駆使する使い魔
世界でも恐らくは最高にして最強の使い魔に対して、物の怪扱いは見当違いもいい所だろう
だが、この二人にとってそんな違いは些細な事らしい
「それを私に、よりにもよって『神姫』である私に手当てさせるなど、今後は止めていただきたい」
「ああ、うん。悪いとは思ったんだけどね。どうしてもアンタしか思いつかなかったのよ」
氷雨の歯切れ悪い答えに少女は眉を吊り上げる
ここまで感情を素直に見せるのは、きっと私の前だけなんだろうな
そんな事を思っていると、話を聞いていない事を長年の付き合いで見切られたのか、いよいよ怒り心頭になったようだ
美しい顔が般若も斯くやと言わんばかりに引き攣っていく
「聞いているのですか!? そもそも黒金先輩は学生の頃から――――」
どうやら愚痴と説教はまだまだ続くようだ
現在時刻は午前2時57分
やはりこんな時間帯に電話でいきなり呼び出されれば、いつもは比較的大人しい彼女でも怒っているらしい
この分では少女が朝の日課を行う午前7時まで続けられるのだろう
氷雨は疲れたように溜息を吐いた
「そもそも、なぜこのような事になったのですか?」
少女――――『神姫 飛白』は不機嫌さを隠そうともせずに問うてきた
氷雨は内心、冷汗を掻きながらどう答えようかと迷う
「あー、と。ほら、最近この町で物騒な通り魔殺人が起こってるでしょ?」
「ええ。この町に住んでいる者なら誰もが聞き及んでいる事でしょう」
どうもこの子は苦手だ、と氷雨は思う
学生の時分、一つ下の後輩だったこの少女に何度も迷惑をかけた
それだけにどうしても頭が上がらない
「実はそれを追っかけてたら犯人と遭遇しちゃって……」
「まさか、それに?」
「や、ジャッカルだかジョンソンだかは始末したんだけど、その後ろにえらいのがいてさー」
「…………」
「それが実は魔術師でね。偵察に使い魔のコレを行かせたら……」
「なるほど。事情は理解できました」
飛白は居住まいを正すと真剣な表情で氷雨を見て
「つまり、先輩の怠慢が原因ですか」
ずばり言い切った
「グッ! はっきり言うわね。まあ、その通りなんだけど」
「まったく。町をウロウロしている魑魅網慮は私の管轄ですが、そういった魔術的なものは先輩の管轄のはずです」
「いやいや、これでなかなか魔術というものは面倒な世界でね。迂闊に手が出せなんだよ」
「それは退魔を司る我が『神姫』も一緒です。それに迂闊な手を打ったのは紛れもなく先輩でしょ?」
やっぱりこの子は苦手だ
心底、氷雨は思った
しかし、と冷静な部分の思考が疑問の声を上げる
曲りなりにも生前は魔術を極めた魔術師である久遠が、一介の魔術師などにこうも後れを取るものだろうか
自分で言っておいてなんだが、久遠は単独戦闘能力なら主人である自分よりも強いはずである
例え敵の懐である工房で闘ったとしても余裕で勝利できる
ならば、一体なぜこのように敗北したのか?
敵である魔術師が彼と同域の大魔術師であるか、それとも相性か
前者なら自分の勝ち目は限りなくゼロに等しい
後者であるのなら、そもそも彼は負けはしない
相性云々は確かに戦闘においては重要視されがちだが、言ってしまえばそれはただ苦手なだけだ
克服さえしてしまえばそれは弱点にはなりえない
それは嘗て、久遠が氷雨に対して言った言葉だ
「それで、魔術師としての『黒金 氷雨』はどう思っているのですか?」
その言葉に普段の怠惰な雰囲気を一変させて、【魔術師】である『黒金 氷雨』として冷徹な言葉を紡ぐ
「正直、やっかいね。魔術師としての力なら私よりも上な久遠が負けたとなると、私では相手にもなりそもうないわ」
ただ、と繋げ
「【退魔】としての私なら、少なくとも勝ち目はあるわ」
「【退魔】としてなら、ですか?」
「ええ」
力強く頷き、両眼を指して不敵に笑う
「忘れた? 私の【瞳】は、あらゆるモノを超越しているのよ」
***
魔術師は困っていた
折角、親友の娘が自分を殺しにくるというのに自分には彼女を迎えてやる用意がない
というより、迎える手段がないのだ
「ふむ。あの小娘の『瞳』は少々厄介だわな」
写真立てに映るオッド・アイの少女を見遣りながら魔術師は呟く
金と銀の瞳
自然では有り得ならざる神域と魔性の融合
世界で唯一人、二つの異なる【瞳】を有する魔術師
しかし、その魔術の才はそこらの平凡な魔術師にすら劣る
それが、魔術師の知る少女の全てだった
「よもやあのような使い魔を得るとはな。中々どうして……」
思い出されるのは、先日自分と互角以上に渡り合った翡翠の眼を持つ黒猫
かつては【久遠の夢幻】と呼ばれた大魔術師
羨ましいものだ、と魔術師は思う
魔術師にとって優れた者に師事する事は栄誉あることなのだ
その栄誉が一介の魔術師にすら劣る小娘に与えられるとは――――
「――――否。この【磐石の柩】たる私が、あのような小娘に嫉妬するなど有り得ん」
そうだ
何より優れているのはこの身、この存在たる自分自身だ
その証拠に彼の【久遠の夢幻】すら退けたではないか!
久しく感じる事のなかった高揚感を味わいながら、魔術師はしばし愉悦に浸った
「おやおや? えらくご機嫌そうじゃないか【磐石の柩】」
瞬間、魔術師は雰囲気を一変させて部屋の隅にいつの間にか現れた影を睨みつけた
「そう睨むなよぉ。俺とあんたの仲だろう?」
「キサマ、ぬけぬけと何をしに来おったぁっ!!」
部屋中の空気が震え、爆発的な魔力波が吹き荒れる
それをまるで涼風のように受け流し、影は平然と笑った
「嫌だなぁ。それじゃあ、まるで俺が悪いみたいじゃないか」
「黙れ! そもそもキサマが諸悪の根源であろう!!」
「おいおい、勘違いしてくれるなよ。俺はあんたの願いを叶えてやったにすぎないんだぜ?」
ギリリッ、と魔術師は奥歯を噛み締めた
その通りだった
そして、そう願ったのは他の誰でもない自分だった
影はしばらく魔術師の殺意を味わうように眺めた後、ゆっくりと光が届く範囲へと歩を進めた
「それによぉ、あんなに最高の獲物を見つけたんだ。最後までじっくりと味わいてぇのよ」
光に照らし出されたその姿は、二日前に氷雨によって討たれた殺人鬼【ジャッカル】であった
不思議な事に体には傷一つなく、精気が抜け落ちていた顔はいまや活き活きとしている
「クッ! 【不死人】風勢が……」
「ハハハハハッ! それはお互い様だぜ、魔術師さんよ?」
響き渡る狂笑に魔術師は苦々しい顔付きとなった
「ふん。息も絶え絶えで逃げ延びてきた分際でよく吼えるわ」
「所詮、死に抗うあんたら人間には解せぬ世界さ」
嘲る口調を正そうともせずに、しかし眼だけは怒りを湛えて睨みつける
「まあ精々、お互い仲良くあの女を待とうとしようぜ」