その四
「運命とは、まこと数奇なものよな」
昏く澱んだ空気に包まれた工房の一室で、魔術師は一人ごちた
部屋の中央と天井には魔法陣が構築されているが、それが駆動している様子はない
それなりに広い一室なのだが、部屋にあるものと言えば古びた机と椅子、そして幾つかの書棚
殺風景とすら言える部屋模様は、まるで魔術師の心像を表しているようだ
「それにしても、ああも容易く倒されるとはな」
魔術師の視線は机の隅に置かれた写真立てに向かう
そこには3人の人物の姿が納められた写真があった
一人はかつての魔術師
その隣には傲岸不遜を体現したかのような男
そして魔術師ともう一人の男に挟まれる形で立つ、少女の姿
ふっ、と魔術師は昔を思い出すように遠い眼をしながら笑った
「お前の不肖の忘れ形見が、この私を殺しに来るか」
あの頃はまだ簡易的な魔術すらろくに扱えもしなかった少女が、自分を殺しに来る
実の父親に屑の烙印を押され、実の父親に犯され、実の父親を殺した少女が、自分を殺しに来る
これだから人生というものは捨てたものじゃない
魔術師は自分でも驚くほどの歓喜に打ち震えながら、少女の来訪を待った
―――写真に写る少女の瞳は、金と銀
そして、写真の少女は―――
***
月が照らしていた
蒼々とした光
無慈悲に、無意味に、無価値に、無感動に、照らしていた
白夜町と深夜町を繋ぐ広大な草原の一角に建つ廃屋を
「うーん。今回ばかりはまずったかな……」
久遠は周囲に満ちる澱んだ大気の魔力を感じていた
それは常人なら近寄るだけで気分が悪くなるほどに汚染されている
魔術師としての才能を持たずとも勘のいい人間なら恐らく物理的な圧迫感と束縛感を感じられるだろう
ここに来て久遠は自分が踏み込んではならない領域に踏み込んだと、ようやく気付いた
だが今更戻ろうにも敵の魔術師が起動させた結界のせいで、ある一定以上は廃屋を離れられないようになっている
「結界だけ起動させておいて何もしてこない所を見ると、どうやら相手は誘ってるみたいだね」
明らかな罠に自分から飛び込んでいくのは決して心地よいものではない
しかし、久遠には大抵の事なら自分でなんとかできる自信も実力もある
それに相手の魔術師にも興味があった
「はあ。じゃ、行きますか」
言葉とは裏腹に、久遠の表情は自信に満ち溢れていた
ソレと対峙した時、久遠は己のミスを瞬時に悟った
「まいったね。まさか、アンタが相手とは夢にも思わなかったよ」
冷たい汗が全身を濡らす
「ほう。使い魔ごときが我が身を知るか」
眼前のボロボロのローブを纏った魔術師がゆっくりと椅子から立ち上がる
頭に被せてあるフードのため、容貌ははっきりとしないがその鋭い眼光だけが覗いている
何もしていないというのに全身から迸る魔力の波動が久遠を縛り付ける
「余程に教育が良いと見えるな。オマエの主人は」
バサリ、とローブを手で払いのける
長い白髪と琥珀色の瞳がローブの下から現れ、魔術師の容貌が明らかになった
強く押すだけで折れそうな華奢な体付きとは裏腹に、その顔は精気に満ち溢れている
「―――クッ! この威圧感、流石だね」
「ぬかせ。この身の魔力の波動を受けても動じぬオマエが吐く台詞ではないわ」
魔術師の言葉通り、久遠の顔には笑みが張り付いていた
それを指摘され、久遠は更に笑みを深めた
「これでも生前は魔術師でね。他人の魔力を感知すると武者震いが止まらないよ」
「なに?」
魔術師は己の耳を疑うように顔を顰めた
「生前だと? オマエは一体何を―――」
言いかけて、ふと脳裏を掠めるものがあった
「問う。貴公の名は?」
「久遠、と今は名乗っている」
魔術師の眼が驚愕に見開かれた
「あの【久遠の夢幻】かっ!! 擬態魔術を極め、【イデア】に辿り着いた存在だと!?」
「以後、お見知り置きを、【磐石の棺】よ」
驚愕と畏怖に打ち震える老魔術師に、久遠は優雅な仕草で一礼を取って見せた
「何故そのような矮小な姿になっているかは与り知らぬが……」
自らの二つ名を呼ばれた事で自信を取り戻したのか、魔術師は軋むような声を絞り出して敵意をむき出しにする
少し喋り過ぎたかと久遠は悔やんだが、もうどうにもなるまいと思い直す
「その身が体現する魔術を奪う機会である事には変わりないか」
「返り討ちになるとは思わないのかい?」
「戯言を。今の貴公に何が出来る」
「そうだねぇ。例えば……君を打ち倒す事とかね!!」
言い終わると同時、抑えていた魔力を最大出力で開放して、そのまま魔術師にぶつける
純粋で強大な魔力の波動が魔術師を襲い、その身を吹き飛ばす
「ぬぐぅぅっ! 流石は音に聞こえし大魔術師よな。そのような矮小な身になってもこれほどの魔力を出せるとわ!!」
空中で空かさず体勢を整え魔術師は壁際に着地する
久遠の開放した魔力波は咄嗟に魔術師の展開した障壁をいとも簡単に突破していた
魔術師の華奢な体のあちこちに僅かな出血が見られる
「面白い! 我が魔術がどこまで貴公に通じるか試行してみようか。存分に相手をしてくれるわ!!」
腕を大きく薙ぎ払うワン・アクションで、予め待機させておいた無属性の魔弾を放つ
上下左右に複雑な軌道を描きつつ迫り来る魔弾を見据え、久遠は詠唱を開始する
「荒ぶる風よ、滴る炎よ。我は汝らに意志を与え、意義を与える」
冷静に一つ一つを見極めて回避する久遠を眼にして、魔術師は新たな魔弾を精製して放つ
しかし、そのどれもが不自然に久遠を逸れていく
「風は弓、炎は矢と化して我が敵を撃ち穿て!」
瞬間、今まで久遠の周囲を逸れていった魔弾が炎の属性を纏い、風の加護を受けて魔術師に飛ぶ
「なに!?」
驚愕する暇もあればこそ、魔術師は魔弾で迎撃しつつ、できなかったものは障壁で防ごうとする
が、幾本かが魔術師の体を掠りローブを伝って燃え始める
「おのれぇ!!」
久遠は魔術師が消火に手間取るうちに次なる魔術の展開を試みる
「祖は石。万物の基であり素たる―――」
そこまで詠唱して、はたと久遠は気付いた
自らの呼び掛けに対して、世界が何にも変容していない事に
(“マナ”に意志が浸透しない!?)
魔術とは世界に満ちる“マナ”に、自らの意志を浸透させる事によって始めて形となる
魔術師と呼ばれる人間は、これが意識することなく行えて初めて魔術師たり得る
(この僕が魔術の起動に失敗した? あり得ないよ、そんなこと!! だいたい、さっきはちゃんと発動したじゃないか!?)
「穿て、影よ!!」
動揺する久遠の隙を、魔術師が黙って見過ごすはずもなく、消火もそこそこに最短詠唱で魔術を起動する
力強く指し示された影が隆起し、寸でのところで気付き跳び退った久遠のいた場所を一瞬送れて貫く
不恰好ながらも着地した久遠は、しかし即座に顔色を変えて更に跳躍する
その久遠を追うように、影が次々と先鋭化して槍となり追い詰める
「クッ、このぉ!!」
避けきれないと判断した久遠は叫び声を媒介に、簡易的な衝撃の魔術を起動するも、やはり魔術は発動しなかった
再び動揺する久遠に、今度はいつの間にか放たれていた魔弾が直撃する
「カハァッ!?」
吹き飛ばされ天地が逆転する視界で、魔術師が更に展開した影の魔術の発動を感じ取る
無理矢理手足を突っ張って床を蹴り、進路を変更する事でなんとか回避に成功し、痛みを無視しながら素早く体勢を整える
「ククッ! ここは我が体内も同然だぞ。如何に貴公といえど我が身に敵うまいよ!!」
魔術師は高らかに吼える
苦々しい思いでそれを見ながら、久遠は薄々ながら自分の魔術が発動どころか起動すらしなかった理由に勘付きはじめた
恐らくだが、この場は“マナ”の流れが一方方向に限定されているのだ
それも、久遠にではなく魔術師に向かって
つまり優先度が魔術師に傾いているがために“マナ”は久遠の呼び掛けに応じなかったのだ
最初に久遠が魔術を発動できたのは、魔術師が発動した魔術式に介入して権限を奪ったからである
しかし、この魔術は何度も使用できるものではないし、第一にして対象の術式が解明できていなければ全くの無意味だ
「……厄介な魔術を使うね」
「我が名の由来を忘れたか? これは当然の結果だよ」
あらゆる出来事を想定し、かつ対処できる手段で以って自らの領域内でしか戦わない魔術師
故に、【磐石の棺】
「ふむ。貴公には期待していたのだがな、この程度とは興醒めな」
先程とは違い、完全な全方位からの攻撃に久遠も回避に徹するしかなかった
上は魔弾が、下は影槍が
思考する暇もなく襲い来る攻撃に、次第に対処できなくなりつつあった
「ここまでだな。では、さらばだ偉大なる先達よ
言い放ち、魔術師は第三の魔術を発動した