その三
そして夜が来た
蒼い月
雲一つない空
明かりの消えた影絵の町
未だ夏の気配を僅かに残す秋の夜風
そんな夜風に吹かれながら、夜の繁華街を歩く一人と一匹の影
「それで、何か作戦は?」
「ないわよ。いつも通り臨機応変に、てやつよ」
殺人鬼が毎夜闊歩する繁華街を、何の緊張感も見せずに歩んでいく
誰もが怯え、閉じ篭る夜を往く者
光射さない闇の世界の守護者
彼女達を知る一部の者は、彼女達を尊敬と畏怖を込めてこう呼ぶ
【闇夜に死を招く小夜鳴き鳥】―――ナイチンゲール
***
獲物がいない
彼―――ジャッカルと呼ばれる殺人鬼は、一抹の焦燥と飢餓を感じながら思考した
昨日まではまだ頭の悪そうな連中や警官がいたのに、今日に限って誰もいない
繁華街はまるでそこだけ切り離されたように死都と化していた
光さえ、そこには見出せない
唯一の光源は月明かりのみ
頭上で観測者のごとく君臨する、蒼白い星
クソッ、と毒づくがそれで状況が改善されるわけでもない
脳髄を埋め尽くす殺人の欲求
それは、人を外れたが故に架せられた義務
誰でも、何でもいいから殺せ、と
いっそのこと別の場所を変えるか?
脳裏に浮かんだ考えを即座に却下する
忌々しい事にこの躯は契約によって縛られている
あのムカつく【魔術師】にこの場所でのみしか殺人を許されていない
クソッ、と再び毒づく
唾を破棄捨てるために俯いていた顔を上げる
と、前方から誰かがやって来るのが見えた
男の眼が爛と輝いた
獲物が来た
普段なら獲物を選ぶところだが、今夜は他に当てがないので我慢する事にした
それに昨夜は妙な女に邪魔された所為で途中で終わってしまったので欲求不満気味だ
誰でもいいから殺し、この焼けるような欲求を満たしたい
だから、殺す
そう男が思考した直後だった
「あら、待たせたかしら?」
ひどく聞き覚えのある声が響いた
黒い長髪とロングコート
金と銀の不揃いな瞳
そして黒、黒、黒、黒、黒
真っ黒い衣装
瞳と肌の色以外の全てを黒に統一した姿
昨夜と寸分違わぬ姿で、そこい女は立っている
殺せ
抑えていた筈の衝動が沸き起こる
殺せ
興奮のためか息が荒く、早くなっていく
殺せ
体全体がどうにかなりそうなほど熱い
殺せ
全神経が目の前の女の存在を殺し尽くせと叫んでいる
ニタリ、と男は哂った
そうだ、この女を殺せ
この女の所為で昨夜は行為を中断され、あの忌々しい魔術師の所に戻らなければならなくなった
それに、こいつを殺せば自由が戻ってくる
人を自由に殺せる日々が!
男は、歓喜と狂喜に支配され、壊れた思考の果てに叫びを上げた
狂ったように、否、まさしく狂った叫びを上げるなれの果てを、氷雨は冷めた瞳で見詰めた
所詮は己の快楽のために人を捨てた外道
こんなモノに哀れんでやる必要もない
必要があるのは必殺の殺意と死闘への期待
これだけで充分だ
次第に自分の顔がニヤけてくるのを氷雨は自覚はしていたが止められないでいた
久遠にはいつも叱咤されるが、この殺し合いの始まる刹那の時間に満ちる形容し難い感情のうねりは到底我慢できるようなものではない
麻薬だな、と氷雨の未だ冷静な部分はそう嘲る
殺し合いという最高の美酒に酔い浸る自分
精神を病んだ快楽追求者
―――愉しいねぇ
声に出さずに呟き、どうやらようやく殺し合いの準備が出来たらしい相手に応えて身構える
月光を反射するナイフを両手に、ジャッカルが殺意と怒気と狂喜を込めた眼光を叩き付けて来る
挑発するように指を立て、誘うように招く
「来なさい。殺してあげる」
闇に煌く閃光は三つ
それぞれ首、腹、足を狙って放たれた斬戟をバックステップで避け、カウンターで蹴りを放つ
ヴォンッ! と空気を穿つ音を立ててこちらの蹴りは空を切り、身を屈める事で回避したジャッカルが体ごと飛びつくように刺突を繰り出す
蹴りの勢いで体軸を回転させ、後回し蹴りを以ってその刃を迎え撃つ
鈍い音が周囲に響き、ジャッカルの手からナイフが弾き飛ばされる
そのまま後に跳び退って忌々しげに舌打ちをした様子を見るに、どうやら手首が折れたらしい
クスッ、と氷雨が嘲るように哂うと、面白いほどにその顔が憤怒に歪んだ
それが霞のように薄れ、爆弾か何かと勘違いしそうな踏み込みの音が空気を揺るがす
昨日の氷雨にも匹敵するほどの移動速度だ
しかし氷雨は余裕の表情でやや右後方に現れ、無事な方の手で斬りかかって来たジャッカルの攻撃をあっさりと回避する
「甘いわよ!」
そして腕が伸びきった瞬間、氷雨はジャッカルの腕を極めて投げ飛ばす
が、ジャッカルは驚異的な体反射で投げを切り返し、そのまま後に距離を取りながらナイフを投擲する
手首と肘の動きだけで投擲されたナイフが氷雨の顔面を射抜かんと迫るが、一歩横に動いてやり過ごす
逆に今度は氷雨がポケットに入れていた物を取り出し、親指一本の力だけで撃ち出す
硬い物がアスファルトにぶつかってめり込む音が響く
ジャッカルは呆然とした表情で自らの頬を掠めた物体の軌跡を辿る様に見る
それは僅か直径一センチ程度のガラス球であった
だが、ただのガラス球がいかな驚異的な速度で撃ち出されたからと言ってアスファルトにめり込むことはない
魔術的な加護によって鉄以上の硬度を持った無色透明なガラス球だ
先日、氷雨が買い物と称して玩具売り場で購入したのがこれ
詰まる所、ビー玉である
手軽で多数携帯できて、その上コストも低価格で暗器として申し分のない得物だ
「この間の闘いだけで、私が遠距離に対する攻撃手段を持たないと勘違いしたようね」
言葉尻に合わせて連続で六発を指弾として撃ち出す
ジャッカルは本能で危機を察したのか、その場から全力で退避する事で二発を掠らせる程度に抑えた
攻撃が『点』であるという事に加えて無色透明なビー玉は、暗闇で正確に視認してかわせるほど優しい物ではない
さらに、それを放つのが人類という種族のカテゴリーから突出した存在である氷雨なのだ
それがどれほどの脅威なのかは語るまでもない
次々と放たれる指弾に、ジャッカルは徐々に劣勢へと追いやられる
必死の形相で回避を続けるジャッカルを嘲笑う様に、氷雨の放つ指弾は勢いを増している
そして遂に、凶悪無比な弾丸がジャッカルの足を打ち砕いた
悲痛の叫びと怨嗟の声が響く中、無数の弾丸が肉を穿つ音が夜に響いた
血塗れのボロ雑巾と化したジャッカルが、路地に打ち捨てられたように倒れる
「さて、死ぬ前に質問をするわよ」
完全に目標を無効化したと判断した氷雨は無造作にジャッカルに近づくと、その腹を蹴って仰向けにする
ヒュー、ヒュー、と頼りない呼吸を繰り返すジャッカルの眼は既に死人のそれだ
それでも一片の慈悲を与えず、氷雨は己の使命を全うする
「あなたを造ったのは誰?」
瀕死のジャッカルの体が激しく痙攣した
最善まで死人の様だった眼は、いまや嚇怒に彩られている
「答えなさい」
氷雨の凍えるような言及さえ通じていないのか、ジャッカルは痙攣し続け―――
「―――」
そのまま息を引き取った
殺人鬼の生命が失われた事を確認すると、氷雨は重い溜息を吐いた
「結局、自分で確かめるしかなのね」
「そうだね。でも、それはいつも通りだと思うよ」
いつからそこにいたのか、路地の傍らに置かれていたポリバケツの上に、久遠がちょこんと座っていた
呑気に後ろ足で首下を掻いている姿を、氷雨は殺意を込めた眼光で射抜く
ビクッ、と久遠の体が跳ねる
「アンタ、そこで何やってんの?」
「いや、ほら。下手に戦闘に支障が出ないようにちゃんと避難していたんだよ」
「私がアンタに下した命令は覚えている?」
「勿論。敵である魔術師がこの闘いに介入してくるかどうかを確かめる、でしょ?」
「で、そのアンタが何でここにいるのよ?」
「決まっているじゃないか。報告するためさ」
シニカルな笑みを口元に浮かべ、久遠はしなやかな動作でポリバケツから飛び降りて近づいてくる
「マスター。繁華街を中心とした半径数百メートル付近に魔術師の気配は近づきませんでした」
「では、魔術の気配は?」
「先ほどその男が死ぬと同時に消えました」
「どういうこと?」
「恐らくは、その男を魔術的媒介に繋がっていたのかと」
一人と一匹がジャッカルと呼ばれていた男の死体を見る
視線の行き着く先は見開かれた、魔に染まった紅い瞳
「なるほど。そういう『瞳』か」
「ご存知で?」
「文献で見たわ。確か名は……【連枝眼】だったかしら」
多数の視線を持つ事でより状況を完全に近い形で把握する、という能力を持つこの『瞳』は、魔術によって後天的に得られる『瞳』の中では最もポピュラーな部類に入る
そんな事を記憶していた情報から整理しながら、やれやれと首を振り、氷雨は中天を過ぎた月を見上げた
「どうやら、これからが本番らしいわね」