その二
「君がしくじるとは、珍しい事もあるものだね」
自宅のドアを開けると同時、正面の階段の影から声が響いた
よく見ると、その影には翡翠色の二つの瞳が浮かんでいる
「……」
女性は無言でその影の前を通り過ぎ、不必要なほど大きい扉を開けて居間へと入っていく
「せっかくの獲物を取り逃がすなんて、『黒金 氷雨』ともあろう者が―――」
「黙りなさい」
付き従うように追ってきた声を遮り、女性はソファに沈み込んだ
「君がこの街に来てから処理したモノの数は、凡そ百以上。そのうち逃走を許したケースは―――」
思わせぶりに間を空ける
「ゼロ、だ」
ヒュン、と何かが空を切る音
しかし、いつまで経ってもそれが何かにぶつかった音はしない
「いい加減にして。いかにアンタでも次は本気で殺るわよ」
それが無意味な脅しである事は、彼女自身がよく知っていた
トットット、と軽い足音が響き、居間に小さな影が入り込んできた
「いけないなぁ。無意味な脅しは虚しいだけだよ?」
「黙りなさい。アンタこそ、こんな所で油を売ってないで、アレの追跡ぐらいしなさい」
「既に手は打ってあるよ」
「……相変わらず優秀ね、久遠」
「お褒め頂き恐悦至極、と答えておこうかな」
締め切ったカーテンの隙間、僅かに差し込む月光が影を捉えた
それは、猫だった
まるで闇に溶け込むような漆黒の毛皮を纏い、翡翠の双眸を煌かす黒い猫
猫は彼女の足元に座り込み、従者が主人の言葉を待つように見上げる
女性は猫を見るも、無言
一人と一匹は静かに見詰め合う
女性の名を、『黒金 氷雨』
猫の名を、『久遠』
彼女らこそ日の光届かぬ影の世界を守る者
***
六夜市
人口10万人を有するそれなりに大きな都市である
とりわけ人口の多さしか特徴のないこの市は、首都圏に近いとはいえ特に重要視されるような場所ではない
そんな市の一角、白夜町には誰もが知る七不思議が存在している
曰く、白夜町は夜な夜な魑魅魍魎の跋扈する場所
曰く、白夜町は夜な夜な巫女服姿の少女が徘徊している
曰く、白夜町は夜な夜な人が消えていく
曰く、曰く、曰く、……
そんな七不思議の一つに、実際にその存在が確証されたモノが二つある
一つは、夜な夜な巫女服姿の少女が徘徊する、というものと
そしてもう一つは、白夜町には黒い魔女が住んでいる、というものである
***
その七不思議の一つに数えられる、黒い魔女こと『黒金 氷雨』
彼女は七不思議の事は当然知っていたが、それに対して何らかの言を発した事はない
ただ己の呼ばれ方に無頓着なのか、はたまた外界からの刺激に無関心なのか
ハッキリしている事は、目下彼女が今最も気にしているのは昨夜の犯人の事だけである
「それで、場所はわかったの?」
基本的に怠惰な彼女は、昨夜そのまま寝てしまったソファーに沈み込んだままだ
クッションを抱き枕に寝転んでいる姿は、とても今年で19歳になった女性のものとは思えない
誰が用意したのか、近くにあったテーブルの上に置かれていた朝食のパンを食べながら使い魔の久遠に尋ねる
もはや己の主人の怠惰な性格には諦めが付いているのか、久遠は義務的に答える
「いや。どうも彼ってば寝床を転々と変えているらしくてね、はっきりとした寝床はわからなかったよ」
声だけで判断するなら久遠は二十代前半の歳若い男性の声をしている
もっとも、魔術師にとって使い魔の声など新しく『設定』し直せば、幾らでも変えることはできるのだが
端的に言えば、マスターである魔術師が望めば例え雄であろうとも雌の声に変えることも出来るのだ
ご都合主義ここに極まれり、だ
「で、続きは? まさかアンタが、そのままわかりませんでした、て素直に帰って来る訳ないでしょ?」
「流石、我がマスターは己の使い魔の事をよく知っているね」
「当然よ」
だって私の使い魔だし、と氷雨は続け
「まあ、そのまま帰って来てたら折檻だけどね」
と空恐ろしい事を言い放った
その言葉を聞いて、久遠はがっくりと首を落とした
「就職先、間違えたかなー」
「御託はいいわ。報告を続けなさい」
「はーい。ま、結果から言うと彼は自分の主である魔術師の工房に逃げ込んだみたいだよ」
「魔術師の? どうしてまた?」
「忘れた? 彼もまた魔術の哀れな犠牲者さ。結局のところ、一度でも魔に染まれば安息の地はないのさ」
「だからこそ、現世の地獄であり楽園へ? 馬鹿馬鹿しいわ」
断言し、氷雨は先ほどの会話に違和感を感じた
工房? 魔術師?
ちょっと待て、確かこの町には自分しか魔術師はいないはず
『管轄者』も、そう言っていたはずだ
「私以外の魔術師ですって? 一体何処に隠れていたの?」
「ああ、そのこと」
口を突いた疑問に、久遠は簡潔に答えた
「別にこの町にある、て言ってないけど」
「じゃあどこにあるのよ? 隣町? それとも市外かしら?」
「うん。白夜町と深夜町のちょうど境目、ギリギリ深夜町寄りにある廃屋。そこに工房があったのさ」
完全に君の把握不足だね、と言う久遠を氷雨は蹴り飛ばす
やらなければならない事ができた、と氷雨は思った
最善までの惰性っぷりが嘘のようにきびきびとした動作で二階の自室へと戻り、素早く衣装を脱ぎ捨てて新しい服に袖を通す
クローゼットを空けた瞬間、不快な物が視界に入ったが黙殺
薄めのセーターにロングスカート。無論、両方とも色は黒である
着替えが終わると床に放置していた大き目のアタッシュケースに色々とぶち込み、部屋を飛び出る
「ぅぅ……。ちょっとは手加減してよ、マスター」
ずりずりと這う様に居間を出てきた黒猫の首を引っ掴むと、玄関の戸を蹴破るように開け放つ
その際、ふぎゃ、という声が聞こえたが無視して施錠を行い町に向かって走り出す
「いったいどこに行こうってのさー」
「決まってんでしょ」
久遠の抗議の声を一言で切って捨て、氷雨は走り続ける
「買い物よ」