悪役令嬢の執事になった俺、毎日が命懸けすぎる
「……ロンドバス、そこに直りなさい」
その氷の礫のような声が響いた瞬間、俺──ロンドバス・カトレイユは、脊髄反射で完璧な角度の礼を取った。
背筋に冷たい汗が、一筋の蛇のように這い降りる。
目の前に座っているのは、この帝国の美しき至宝にして、歩く災厄。モンテスキュー公爵家が誇る最凶の毒花、ラファエラ・ド・モンテスキュー様だ。
「はっ。こちらに」
「この茶、ぬるいわ。あと三度高くして淹れ直しなさい。それと……この焼き菓子、形がいびつよ。作った職人の首を撥ねておきなさい」
さらりと言ってのけた。
まるで「庭の草をむしっておきなさい」程度の気軽さで、彼女は一人の人間の命を終わらせようとしている。
ちなみに、手元の魔道温度計で測るまでもなく、茶の温度は最高級の茶葉が最も香る 、八十五度。
菓子も、帝都随一のパティシエが寝る間も惜しみ、魂を削って、コンパスで測ったかのような黄金比で焼き上げた逸品である。
(……職人の首を撥ねる? バカ言え! あのおじさん、三人の子持ちなんだぞ! 昨日「やっと末娘が結婚するんだ、このマカロンが売れたらお祝いに靴を買ってやるんだ」って、涙で塩味を足しそうになりながら焼いてたんだぞ! 処刑なんてしたら、俺が夢見悪くて死ぬわ!)
俺は、一ミリの揺らぎもない執事スマイルを顔面に貼り付けたまま、静かに、かつ断固として言葉を紡ぐ。
「……かしこまりました。職人には『ラファエラ様の神の如き美学にそぐわぬ不徳を、その矮小な命を持って償え』と伝え、即座に厳重な処罰を下しておきます。……具体的には、一週間の地下牢(という名の特別有給休暇)への幽閉と、遺族への賠償金(という名の大入りボーナス)を積み増しておきましょう」
「ええ、そうしなさい。……ふん、お前だけよ。私の高潔さを理解できるのは。他の愚民どもは、私の慈悲を理解しようともしないのだから」
ラファエラ様は満足げに、不機嫌そうな美貌を少しだけ和らげた。扇を広げ、優雅に口元を隠すその仕草。ああ、今日も恐ろしいほどに美しい。
光を吸い込むようなプラチナブロンド、獲物を狙う鷹のように鋭く、それでいて深い湖のような碧眼。
だが、その中身は「気に入らないものは全て消去」という極悪ヒロインそのもの。地雷原をタップダンスで駆け抜けるようなこの生活が、俺の日常だ。
俺がこの【乙女ゲームの世界】の執事に転生して、はや三年。本来のシナリオ通りなら、彼女は数年後に、断罪イベントを経てギロチンへ送られる。
そして、その時そばにいる執事も、当然のように連帯責任で首が飛ぶ仕様だ。
(ふざけるな。俺は平穏に、老後まで貯金して、猫でも飼いながら隠居したいんだよ!)
俺の仕事は、彼女が撒き散らす破滅フラグを、彼女の自尊心を一切傷つけることなく、かつ周囲に死傷者を出さないように音速で回収すること。
悪逆非道な命を“慈悲深い超解釈で上書きする。これぞ執事の極意。
「ロンドバス。何を黙っているの。淹れ直した茶はまだ?」
「失礼いたしました。今、火の精霊が嫉妬するほどの情熱を込め、適温へと整えております。少々お待ちを」
(よし、魔道温度計……八十八度。三度上げたぞ。これで文句は言わせない。……さて、次はあのパティシエのおっさんに『死んだふりしてハワイに行け』って書いたメモを鳩で飛ばさなきゃな)
主の傲慢な要求と、世間の平和の板挟み。俺の胃は、今日もストレスでキリキリと悲鳴を上げている。
だが、主の機嫌を損ねれば物理的に首が飛び、放置すれば国が滅ぶ。まさに、毎日が命懸け。
「さあ、ラファエラ様。至高の茶が整いました。どうぞ、その気高き喉を潤してくださいませ」
心の中で「頼むから今日はこれ以上誰も殺そうとしないでくれ!」と叫びながら、俺は銀のトレイを掲げ、再び優雅な一礼を捧げるのだった。
この『翻訳執事』の綱渡り生活、一体いつまで心臓が持つのか──。
とりあえず、明日の朝食のパンが「白すぎる」という理由で小麦農家が滅ぼされないよう、今から対策を練ることにしよう。
◇ ◇ ◇
昼下がり。帝立学園のテラスは、色とりどりのドレスと贅を尽くしたティーセットで彩られていた。しかし、その一角だけは、まるで真空地帯のように静まり返っている。
中心に座るのは、公爵令嬢ラファエラ・ド・モンテスキュー様。
彼女を取り囲むように、虎の威を借る狐──もとい、家柄だけが自慢の令嬢たちが、壊れた人形のように同じリズムで扇を動かしている。
そこに、一陣の嵐が吹き込んだ。
「あの、ラファエラ様! どうしてリリアンヌさんの教科書を池に捨てたりしたんですか!?」
現れたのは、このゲームの正ヒロイン、平民出身の聖女アリア。彼女は、まるで朝日を凝縮したような眩しい正義感を振りかざし、震える指でラファエラ様を指さした。
(……ああああああ! 来た! 定番の対決イベント! やめてアリアちゃん、君の後ろに立ってる俺の心拍数が今、限界突破してアラート鳴らしてるんだ!)
ラファエラ様がゆっくりとティーカップをソーサーに置いた。カチャリ、という磁器の重なり合う音が、まるで処刑場のギロチンの刃が落ちる直前の音のように響く。
「あら……耳障りな声ね。誰の許可を得て私の庭で囀っているのかしら」
ラファエラ様の碧眼が、冷酷な光を帯びてアリアを射抜く。
「教科書? ああ、あのみすぼらしい紙屑のことかしら。文字がびっしりと書き込まれて、手垢にまみれた不潔な物体。私の視界に入るのが、それ自体が罪だと思わなくて? 私はただ、この学園の美観を維持するために、ゴミを適切な場所(池)へ移動させただけですわ」
「そんな……ひどいです! リリアンヌさんは、家計を助けるために奨学金をもらって、一生懸命勉強していたのに!」
(アリアちゃん、ストップ! 彼女に『努力』や『苦労』という言葉は、火に油を注ぐだけだ! 彼女にとって世界は、自分を美しく見せるための舞台でしかないんだから!)
ラファエラ様の口角が、残酷な三日月のように吊り上がった。
「……ロンドバス。聞き苦しいわ。この無礼な女の口を、二度と開かぬよう、そして下品な正義感を二度と吐き出せぬよう──針と糸で、丁寧に縫い合わせてしまいなさい」
さらっと、とんでもないことを言った。周囲の取り巻き令嬢たちが「ひっ……」と短く悲鳴を上げ、顔を青ざめさせる。アリアは恐怖で硬直し、大きく見開かれた瞳から涙が溢れそうになっていた。
(縫い合わせる? 裁縫かよ! 拷問官のスキルツリー解放してないんだわ、俺! しかもここで聖女の口を縫ったら、明日には教会と騎士団が公爵邸を包囲して、俺の首が物理的に飛ぶだろうが!)
「仰せのままに、我が主。……失礼いたします、アリア様。主様のお言葉です。あまりの無礼に、少々『特別な処置』を施さねばなりません」
俺は即座に、二人の間に割って入った。ラファエラ様の視線からアリアを隠すように、大柄な体を盾にする。
そして、アリアの腕を掴んで引き寄せるフリをしながら、他人に聞こえない極小の音量、かつマッハの速度で囁いた。
『アリア様、落ち着いて聞いてください。リリアンヌさんの教科書は、捨てられた一秒後に私が魔法で回収済みです。今頃、乾燥魔法で水気を飛ばし、ついでに汚れていた表紙を新品の皮張りに変えて、彼女の机に匿名で戻しておきました。……それから、今のラファエラ様は非常に危険です。焼き菓子の少し形が崩れていたせいで、朝からずっと沸点がマイナス百度なんです。空腹と不機嫌が混ざると、彼女は帝都を焼き尽くしかねない。……ほら、この私の懐に忍ばせていた特製マドレーヌを差し上げますから、これを持って一秒でも早く逃げて!』
「えっ、あ、ありがとうございます……? でも……」
『いいから早く! あと、リリアンヌさんには『足元の悪いところで本を落としましたね。以後お気をつけて』というメモも添えてあります! 彼女の努力は踏みにじられていません! だから、今は生き延びることを優先してください!』
俺は呆然とするアリアを、半ば強制的にテラスの外へと押し出した。そして、すかさずラファエラ様に向き直り、何事もなかったかのように優雅に跪く。
「ラファエラ様。あのような下賎な者の血で、モンテスキュー家に伝わる高貴な針を汚すのは、執事として忍びませぬ。……ですので、私めが責任を持って、彼女を精神的な地獄へ突き落としておきました」
「……精神的な地獄?」
ラファエラ様が怪訝そうに眉を寄せる。
「左様でございます。彼女には、自身の無力さと、ラファエラ様の圧倒的な慈悲(という名の圧力)を思い知らせる、呪いの言葉を耳元で囁いておきました。……今頃、あまりの恐怖に震えながら、甘いものを食べて現実逃避でもしていることでしょう。彼女の精神は、すでに私の手の中で崩壊しております」
実際は、俺の特製マドレーヌを食べて「美味しい……この味、なんだか心が温まる……」と、聖女らしい奇跡の回復を遂げているはずだが──。
「ふん。お前がそこまで言うのなら、今回はそれで手を打ってあげましょう。……けれど、口を縫わなくてよかったのかしら? 私、あの女の鳴き声、本当に嫌いなのだけれど」
「左様でございますか。では、次回からは彼女が現れる前に、私が彼女の進路を物理的に(迷子にする等で)封鎖しておきましょう」
ラファエラ様は「ならいいわ」と、再び冷めた紅茶に口をつけた。俺は背中にぐっしょりとかいた汗を、誰にも気づかれないように拭う。
(……ふぅぅぅ。一難去ってまた一難。でも、ラファエラ様、今『お腹すいた』って顔に書いてありますよ。早く最高級のステーキでも用意して、その暴君の牙を収めてもらわないと……)
「ロンドバス。次の授業は魔法実習だわ」
「はい、左様でございますね」
「的を狙うなんて退屈だわ。……いっそ、学園の時計塔を爆破してくれないかしら。派手な音が聞きたい気分なの」
(時計塔を爆破!? あれは帝国の歴史的建造物だぞ! 胃が、俺の胃がボロボロだ!)
「……承知いたしました。時計塔が泣いて喜ぶほどの『鮮やかな演出(という名のマジックショー)』を、私が魔法講師に掛け合って用意させましょう」
悪役令嬢の執事。
その本質は、主の暴言をエンターテイメントに昇華させる、命懸けの翻訳家であった。
◇ ◇ ◇
学園のメインホールは、シャンデリアの光が滝のように降り注ぎ、着飾った貴族たちの虚栄心と香水の香りで満ちていた。今夜は帝立学園の主催する大夜会。
壁際で控える俺、ロンドバスの視線の先には、この世の誰よりも輝き、そして誰よりも火薬量の多い主の姿があった。
ラファエラ様は、真紅のドレスを身に纏い、扇子を優雅に揺らしている。しかし、その扇子が刻むリズムは、明らかに処刑のカウントダウンだった。
彼女の視線の先には、フロアの中央で初々しくステップを踏む、第一王子エドワード様と聖女アリア。王子がアリアの腰に手を添え、優しく微笑みかけるたび、ラファエラ様の周囲の温度が物理的に数度下がっていくのがわかる。
「……ロンドバス」
「はっ、こちらに」
「あの女、さっきからエドワード様の腕に、まるで羽虫のようにまとわりついているわ。不愉快極まりない。……今すぐあの女のドレスに、後ろから火を放ちなさい。火刑よ、火刑。聖女なら、業火に焼かれても神の加護で無傷のはずでしょう?」
(無茶を言うな! 聖女だって火で焼かれりゃ熱いし、ドレスは可燃物だ! ここで火を放ったら『公爵令嬢によるテロ事件』として歴史に刻まれるだろうが!)
俺は一歩前に出て、彼女の視線を遮るように深々と頭を下げた。
「ラファエラ様、恐れながら申し上げます。……火刑、それはあまりに趣がございません」
「何ですって? 私の命令に異を唱えるというの?」
ラファエラ様の瞳に、青白い本気の怒りが灯る。扇子がミキッ……と悲鳴を上げた。
(やばい、地雷を踏んだ! だが、ここで退いたら明日には帝都が更地だ!)
「滅相もございません。ただ……考えてもみてください。今ここで彼女を焼けば、彼女は『悲劇のヒロイン』として王子の心に永遠に刻まれてしまいます。それは、奴らにとって最高のご褒美になりはしませんか?」
「……。続けなさい」
「あのような小娘に与えるべきは、死ではなく『絶望的な敗北感』。つまり、嫉妬という名の毒でございます。今ここで、ラファエラ様が誰よりも、太陽すら霞むほどに輝き、王子がその瞳から一時たりとも貴女を離せなくなる。アリア様に『自分は一生、この方の足元にも及ばない』と突きつける。それこそが、誇り高きラファエラ様にふさわしい、残酷で優雅な復讐ではありませんか?」
ラファエラ様は動きを止めた。碧眼を細め、品定めするように俺を見つめる。
「……ほう。面白いことを言うわね。……で、具体的にどうするつもり?」
「お任せください。この日のために、公爵家の隠密……もとい、腕利きの職人に用意させた秘密兵器がございます」
俺は震える指先を隠しながら、彼女のプラチナブロンドの髪に、そっと一つの髪飾りを添えた。それは、魔法銀に特殊な感応石を埋め込んだ、特注のアクセサリーだ。
「これは……?」
「ラファエラ様の魔力に反応し、周囲の光を収束・増幅させる魔道具でございます。貴女がフロアに立てば、シャンデリアの光はすべて貴女の美しさを引き立てるスポットライトへと変わるでしょう。……さあ、行きましょう、我が帝国の真の女王。貴女の美しさという名の暴力で、あの愚かな男たちの目を潰してやるのです」
「……ふん。口の減らない執事ね。……いいわ、見ていなさい。あの泥棒猫、自分の惨めさに泣き叫びたくなるほど、わたくしが眩しく輝いてあげるわ」
ラファエラ様は意気揚々と、獲物を見つけた肉食獣の如き優雅さでフロアへ歩き出した。
その背中を見送り、彼女が完全に衆目の的になったのを確認してから、俺は壁の花となって膝をついた。
(……ふぅぅぅぅぅぅぅぅ! 危ねぇ! 寿命が三百年くらい縮まったぞ! ちなみに王子には昨日のうちに、『ラファエラ様が、王子のために新しいドレスと髪飾りを新調されました。もしエドワード様が気づかなければ、公爵閣下は「我が娘を軽んじている」と判断し、次期の軍事予算の承認を見送る構えです』という、実質的な脅迫状(匿名)を届けてある!)
フロア中央では、光り輝くラファエラ様に圧倒された王子が、必死の形相で「ああ! ラファエラ! 今夜の君は……その、太陽を飲み込んだ星のように美しい!」と、慣れない美辞麗句を並べ立てていた。
ラファエラ様は「あら、当然ですわ」と鼻を鳴らしているが、心なしか頬が緩んでいる。その影で、聖女アリアは完全に放置され、所在なさげにマドレーヌを食べていた。
(……よし。王子、そのまま一晩中彼女を褒め殺せ。アリアちゃん、君は今のうちに安全な場所で美味しいものを食べてくれ。……俺は、俺はもう帰って胃薬を飲みたい……)
結果、その夜の舞踏会は『ラファエラ・ド・モンテスキューの独壇場』として語り継がれることになった。
王子と聖女の仲は進展せず、公爵家と王室の衝突も回避され、誰も死ななかった。ただ一人、緊張の糸が切れて、控室で胃を押さえながらのたうち回る執事を除いては。
「ロンドバス! どこにいるの! 王子の褒め言葉が途中で重複したわ、これは教育が必要よ! 次のフレーズを考えなさい!」
(……休ませてくれ! 執事の仕事に『ポエムの代筆』なんて入ってないんだよ!)
主の呼び声に、俺は再び執事の仮面を被り、戦場へと戻っていくのだった。
◇ ◇ ◇
深夜。喧騒の去った公爵邸は、死に絶えたように静まり返っていた。
月明かりが廊下に長い影を落とす中、俺は冷えた胃を抱えながら、主の私室へと続く厚い扉を叩く。
「……ラファエラ様、夜食とハーブティーをお持ちいたしました」
「入りなさい」
許可を得て入室すると、そこには豪華な天蓋付きのベッドの縁に腰掛け、窮屈なコルセットから解放されたラファエラ様がいた。
昼間の歩く戦略兵器のような威圧感は鳴りを潜め、プラチナブロンドの髪を解いた彼女は、驚くほど華奢で、頼りなげに見えた。
「ロンドバス。……疲れたわ。足を揉みなさい」
「かしこまりました。お疲れのご様子ですね」
俺は手慣れた手つきで彼女の前に膝をつき、絹のストッキングに包まれた細い足首を手に取った。
執事である俺だけが、この“暴君“のパーソナルスペースに入ることを許されている。これは特権というより、いつ爆発するか分からない不発弾を解体する作業に近い。
「ふふ……そこよ、上手いわね。……あなた、執事の分際で、どうしてそんなに私の扱いが心得ているのかしら?」
「光栄です。主の健康を管理するのも執事の務めですので」
淡々とマッサージを続ける俺を、ラファエラ様はじっと見つめていた。その碧眼は、夜の闇の中で不思議な深みを湛えている。
「……ねえ、ロンドバス。一つ、聞いていいかしら。……あなたは、どうして私に仕えているの?」
唐突な問いだった。俺の手が一瞬、止まりそうになる。
「それは……私がモンテスキュー公爵家に雇われた使用人であり、ラファエラ様の専属執事だからでございます。それ以上の理由が必要でしょうか?」
「嘘ね。あなた、私の『殺せ』という命令を、これまで一度も遂行したことがないでしょう?」
心臓がドクンと跳ねた。
バレていた。いや、薄々気づいてはいたが、こうして直接突きつけられるのは初めてだ。
「……。それは、私の力不足で──」
「白々しいわ。あのパティシエも、あの生意気な聖女も、あのアブラムシが湧いたバラ園の木々すら、何一つ失われていない。あなたは私の言葉をすべて、勝手に、都合よく『翻訳』して書き換えている。……これ以上の不敬があるかしら? 死罪よ。本来なら、今すぐあなたの首をギロチンへ送ってもいいのよ」
ラファエラ様の手が、俺の頬に触れた。その指先は驚くほど冷たく、そして繊細な小鳥のように小さく震えていた。
「……お気づきでしたか」
「当たり前でしょう。私を誰だと思っているの。……でも、不思議なのよ。あなたが嘘をつくたびに、私の周りから、あの刺すような視線……棘が消えていくの。みんな私を恐れ、憎んでいたはずなのに。最近は、学園の生徒たちが私と目が合っても逃げなくなった。……あのアリアとかいう小娘まで、今日、私に手作りのクッキーを差し出してきたわ。『マドレーヌのお礼です』なんて意味の分からないことを言って。毒入りかと思って犬に食わせようとしたら、あなたが横から奪って食べたけれど」
「……あれは、純粋に美味しそうだったからです。毒見という名目もありましたが、八割は食欲です」
「ふふ、馬鹿な男」
ラファエラ様が、フッと自嘲気味に笑った。その笑顔には、いつもの傲慢さは一欠片もなかった。
「……私、本当はわかっているのよ。私は、こうして棘を逆立てて、誰かを傷つけていないと、誰にも見てもらえない。……優しくなんて、したことがないから。愛されるためのやり方が、わからないのよ。……お父様も、お母様も、私に『完璧な公爵令嬢』であることしか求めなかったもの」
(……ああ。この人、ただ不器用なだけなんだ。愛し方も、愛され方も知らないまま、悪役の台本を必死に演じていただけなんだ)
ゲームの中の『悪役令嬢ラファエラ』は、ただの記号としての悪だった。でも、目の前にいるのは、高すぎるプライドという名の鎧を着込み、中身はボロボロに傷ついた、ただの孤独な少女だ。
「ラファエラ様。貴女は、無理に変わる必要はございません」
「……え?」
「貴女が『殺せ』と言えば、私が『救え』と翻訳します。貴女が『壊せ』と言えば、私が『直せ』と解釈します。貴女は、そのままで。……ただ、少しだけ、私にその後始末をさせる時間をください。貴女が吐いた毒を、私がすべて薬に変えてみせましょう」
俺が顔を上げると、ラファエラ様の碧眼が大きく揺れ、じわりと涙が溢れ出していた。
彼女はバツが悪そうに顔を背けると、俺の頭を少し乱暴に、でも愛おしそうにぽんと叩いた。
「……生意気な執事。……なら、一生、私の尻拭いをしなさい。途中で投げ出すことは、絶対に許さないわ。もし逃げたら、それこそ地の果てまで追い詰めて、八つ裂きにしてから……私の隣に埋めてあげる」
「それは……死んでも離さないという、情熱的なプロポーズと受け取ってもよろしいでしょうか?」
「死になさい、ロンドバス!」
彼女は真っ赤になって俺の肩を叩いたが、その手には力が入っていなかった。
「……承知いたしました。地獄の果てまで、謹んでお供させていただきます」
嵐のような一日が終わり、また新しい命がけの明日が来る。
だが、俺は確信していた。この不器用な暴君が、いつか本当の笑顔を見せるその日まで、俺の胃薬はまだまだ手放せそうにないということを。
◇ ◇ ◇
昨夜のしんみりとした空気は、朝日と共にどこかへ蒸発してしまったらしい。
「ロンドバス!! 今すぐ来なさい!! 出てこないと、この邸を更地にしてそこに塩を撒いてやるわ!!」
早朝。公爵邸の全窓が震えるほどの絶叫が響き渡り、俺は文字通りベッドから跳ね起きた。
まだシャツのボタンも半分しか留めていない。片方の靴下を手に持ったまま、俺は廊下を爆走し、ラファエラ様の寝室の扉を蹴破る勢いで飛び込んだ。
「いかがなさいましたか、ラファエラ様! 刺客ですか!? 革命軍の蜂起ですか!? それとも巨大隕石の衝突予測でも出ましたか!?」
「もっと最悪よ! 見てもちょうだい、この忌々しい光景を!」
バルコニーに飛び出したラファエラ様が、白磁のように白い指先で中庭を指さしている。そこには、公爵邸が誇る見事な大輪のバラ園が広がっていた。
だが、彼女の視線が固定されているのは、その端に咲く一輪の赤いバラ。その葉の裏に、米粒よりも小さな緑色の影があった。
「見て! 庭のバラに、またアブラムシがついているわ! 一匹いたということは、この土の下には何億匹もの汚らわしい虫が潜んでいるに違いないわ! 不潔よ! 吐き気がする! 今すぐこの庭を焼き払いなさい! 一葉残らず、灰も残さず、灼熱の業火で浄化してしまいなさい!!」
(……庭を焼くな! あの庭師のセバスが、三年前から「バラに名前をつけて娘のように育ててるんです」って言いながら、毎日腰痛と戦って維持してる名園なんだぞ!)
「ラファエラ様、落ち着いてください。火を放てば、この美しい邸まで延焼し、貴女の寝室に煤が飛びます」
「構わないわ! 虫と同じ空気を吸うくらいなら、私は灰の中で眠るわよ!」
(……このお嬢様、潔癖症の極北を行き過ぎて破壊神になってる。だが、ここで折れたら庭師のセバスがショックで隠居してしまう!)
俺は即座に、執事の正装を整え、凛とした声で宣言した。
「……かしこまりました。ラファエラ様のご意志、しかと承りました。『不浄なるアブラムシを根絶やしにし、バラをさらに神々しく咲き誇らせよ』との御命。このロンドバス、命に代えても全ういたしましょう」
「ええ、そうしなさい。お昼までに終わらなければ、あなたをその庭に埋めるから」
「承知いたしました。……『お昼までに、バラ園を宝石箱のように磨き上げ、私をバラの女王として迎え入れよ』という追加オーダーですね。仰せのままに」
俺は一礼して部屋を飛び出すと、即座に庭師たちを招集した。
「全員聞け! お嬢様が火炎放射器を持ち出すまであと三時間だ! 魔法を使える者は今すぐ殺虫成分入りの霧を作れ! 掃除係は葉の裏を一枚ずつ拭け! 終わったら、全員に俺のポケットマネーから高級肉を振る舞う! さあ、動け!!」
戦場のような三時間が過ぎた。昼下がり、俺は汗だくの体を着替え、何食わぬ顔でラファエラ様を庭へと案内した。
「いかがでしょうか。不浄なるものはすべて、私の魔法と執念によって『異次元(という名のゴミ箱)』へ追放いたしました。今、この庭にいるのは、貴女の美しさを引き立てるためだけに存在する清浄な植物のみでございます」
「……ふん。まあ、合格点ね。少しはマシになったじゃない」
ラファエラ様は満足げに、瑞々しく輝くバラを一輪手に取った。その顔には、先ほどまでの破壊衝動は消え、少女のような無垢な微笑みが浮かんでいる。
「……それと、ロンドバス」
「はい」
「……昨夜の……その。足のマッサージは、その……悪くなかったわ。今夜も、やりなさい。……一分でも遅れたら、不敬罪で処刑よ。わかったわね?」
彼女は顔を真っ赤に染め、ぷいっと横を向いて、足早に邸内へ戻っていった。
(……はいはい、処刑ですね。マッサージの予約承りました。というか、もうそれ『夜の指名』ですよね? 命懸けすぎて、逆に愛着が湧いてきた自分が怖いよ!)
悪役令嬢の執事。それは、主の理不尽な暴言を「愛のささやき」に変換し、破滅の道を花道に変える、この世で最も過酷なクリエイティブ職だ。
「さて……次は隣家の犬が吠えてるのがうるさいから『あの犬の喉を潰せ』って言われる前に、高級な犬用ガムでも差し入れに行くとしますか」
俺は深いため息をつきながら、明日もまた生き残るために、最高の執事スマイルを鏡で確認するのだった。
おしまい
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